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七センチの隙間を越えて  作者: 琵琶こと
8/8

エピローグ「一年後――」

 あれから半年。毎日のように、あわただしい日が続いている。

 車椅子で学校に通うようになった。最初は胃の奥がきゅっとなった。今も、時々そうなる。

 階段を遠回りするとき、みんなより遅れるとき、トイレに時間がかかるとき――〝普通じゃない〟ことを、嫌でも意識させられる。

 それでも、クラスメイトは自然に接してくれる。ニアの車輪が廊下を転がる音にも、もう誰も振り返らない。

 完璧じゃないけれど――それでも、前に進んでいる。

 朝の登校から、授業の移動、昼食、帰宅まで。ニアはいつも側にいてくれる。

 時々、余計なことを言うけれど。

『アヤトさん、また遅刻ギリギリです。時間管理能力の向上を推奨します』

「うるさいな、わかってるよ」

 そんなやり取りも、今では手放したくない日常だ。

 

 

 放課後は大抵、図書館に通うようになった。

 机の上には、付箋がはみ出した本。『理学・作業療法士になるには』。

 一ヶ月前。坂上さんに会いに行った。

 ディーピーのある部屋。薄暗い空間の中で、坂上さんは機械の調整を行っていた。

「あれ? 文月さん、どうしたんですか」

 手を止めて、振り返った。

「今日はリハビリじゃなくて……相談が、あって」

 僕は療法士を目指そうと思っていることを話した。

 坂上さんは静かに聞いていた。メガネを外し、レンズを拭きながら。

「いい選択ですね」

 メガネをかけ直して、少し間を置いた。

「でも、簡単な道じゃない」

「わかってます」

「国家資格が必要です。大学か専門学校に行かないといけない」

 頷く。

「それに、車椅子の療法士は、まだ少ない」

「少ない……ということは」

「偏見もある」

 坂上さんは率直に言う。

「〝障害者が療法士なんてできるのか〟って」

 その言葉に少し怯む。

「でもね、文月さん」

 彼は立ち上がり、こちらの目をじっと見る。

「洋子も最初、同じことを言われた」

「〝義手の療法士なんて信用できない〟って」

 坂上さんの声が、少し悲しげになる。

「でも、彼女は諦めなかった」

 その目が、まっすぐこちらを捉えている。

「そして今では、彼女を指名する患者さんもいる」

「〝同じ痛みを知ってる人だから、信頼できる〟って」

 坂上さんが、一歩こちらに近づく。

「文月さんも、きっとできる」

 彼は手を差し出す。

「私たち夫婦が、応援します」

 その手を握った。握り返された手は、大きくて温かかった。

「それから」

 坂上さんは優しい声で話す。

「もし療法士になったら、洋子が患者だったときのように――文月さんも、誰かの〝最初の希望〟になってあげてください」

 胸のつかえが、すっと消えた。そう信じて。ページをめくり続ける。

 

 

 凛は通信制の高校に変え、余った時間で父親の会社の装具専門モデルを始めた。そう話してくれたのは、つい先月のことだ。

 雑誌やウェブサイトで、装具をつけた凛の姿を見かけることが増えた。堂々としている。隠さない。誇りを持っているように見える。

「格好つかないけどね」

 凛は苦笑する。

「撮影の前は水分制限してるし、トイレのタイミングも計算してる」

 凛は自分の装具に視線を落とし、それから顔を上げた。

「でも、俺がやらなきゃ誰がやるんだって思うんだ」

 その目は強い。一歩も引かない目をしてる。

 頬に軽くパンチを当ててくる。

 僕はお返しに、凛の頬に軽くキスをした。

 二人のことは、まだ誰にも話していない。二十歳になったら伝えると決めている。母の目は、時々何か気づいているような気もするけれど。

 凛も、父親とは〝対話の途上〟だと言っていた。

 焦らなくていい。

 二人は、そう確認し合っている。

「僕たちのペースで」

「ああ。俺たちのペースで」

 それでいい。

 それがいい。

 

 

<Observation Log #200 / Day +180>

 オーナー(文月彩人):日常行動、安定。

 対象者(柿椿凛):同行頻度、継続。

 補助介入回数:減少傾向。

 判定:

 両者の意思決定に、外部補助は不要。

 ――ワタシは、少し後ろで見守る。


 

 十一月の連休日。

 去年と同じ旅館。同じ部屋。同じ窓。今年も最初から二人で。あの日のような衝突も、涙も、痛みもなく。ただ、穏やかに。

 テーブルの一輪挿しに、濃い紫の竜胆(リンドウ)。まっすぐ上を向いている。

 ニアに乗った横を、凛は苦もなく並走している。歩くのが上手くなった。

『アヤトさん、心拍数上昇を検知。休憩を推奨します』

「大丈夫、ニア。もう少し頑張る」

 ニアの走りが軽い。去年より遠くまで進める。

『了解です。ただし、無理は禁物です』

 凛が、くすっと笑う。

「ニアっち、すっかりお母さんみたい」

『母性的配慮はプログラムに含まれていません』

 ニアは即座に否定する。

『これは合理的判断です……とは言え、心配なのは事実ですが』

 最後に、小さく付け加える。肩をすくめて答える。

「はいはい、ツンデレ母さん」

 凛は、今度は大笑いした。

 夕暮れ。二人は浴衣に着替える。お互いに帯を結び合う。去年は、凛が帯を結んでくれた。今年は、凛の帯も結べるようになった。

 サンルームに二人が並ぶ。同じ場所。けれど、最初から隣り合って。

 もう手のひらが湿ることも、息が浅くなることもない。

 ニアが静かに近くで待機して、花火の開始を告げる。夜空に、光の花が咲く。一つ、また一つ。

 凛の手を握る。凛が、握り返した。

 大輪の花火が次々と打ち上げられる。

 空が光で埋め尽くされる下で、僕は――装具をつけた震える足で、立ち上がった。

 一年前は、考えられなかったこと。

 凛がすぐに横に立ち、腕を支える。二人で、自分たちの足元を見た。

「僕たち、並んで立ってるんだよね」

「ああ――俺ら、ほんと頑張ったよ」

 二人とも、かすれた声だった。

 最後の花火が、視界に収まらないほど広がり――金色の軌跡が、海面へ静かに落ちていく。

 その光が落ち切る前に――もう一度キスをした。

 去年よりも、自然に。去年よりも、確かに――迷いなく。

 唇が離れた後、凛が囁く。

「なあ、彩人。幸せ?」

 少しだけ考える。本当に幸せだろうか、完璧な人生だろうか、と。

 違う。完璧じゃない。痛みも、不安も、まだある。

 でも――。

「考えたけど、やっぱり幸せだよ」

 笑顔で答えた。頬が自然にゆるんで、止まらなかった。

「完璧じゃないけど――それでも、幸せ」

 凛が笑う。その笑顔が、月明かりに照らされて美しい。

「俺も同じ」

「同じって――やっぱり、ずるい言葉だな」

 あの日と同じように二人は笑った。でも、あの日とは違う。今は、痛みも、不安も、全部抱えたまま――それでも口元がほころんでいる。

 そして、静かに寄り添うだけ。何もしない。言葉はいらない。ただ側にいる。それだけで十分。

 ニアのアーム付近が小さく光る。観察ログを記録しているのだろうか。この瞬間を、ちゃんと残しておいてほしいと願う。月が世界を照らし直すたびに、僕たちの記憶は上書きされて、少しずつ元の形を失っていくだろう。

 それでも――花火を見るたびに、僕は十六歳に戻る。同性を好きだという感情をひた隠し、それでも一歩を踏み出したあの頃に。

 一年前、鏡の前で震えながら練習していた自分。

「好きです」

 何度も、何度も繰り返した。

 でも、今は違う。

 隣に凛がいる。手を繋いでいる。

 もう、怖くない。

 雲が左から右に流れていく日は、良いことがある――ジンクスは、間違っていなかった。

 また、信じてもいいかもしれない。

 良いことは、もう起きた。

 凛と出会えた。愛し合えた。

 これ以上、何があるだろうか。

 いや──ある。

 まだある。

 たっぷりある。

 これから――二人で、つくっていくんだ。

 

 

<Observation Log #Final / Day +365>

【一年経過記録】

 オーナー(文月彩人):回復状況良好

 対象者(柿椿凛):同様に経過良好

 関係性:継続的深化を確認

【定量データ】

 オーナー心拍パターン:安定かつ温和

 笑顔頻度:365日前比較で427%増加

 両者の距離:物理的0cm

【定性分析】

 心理的距離:測定不能

 ――人間の感情は、データでは完全に把握できない。

 しかし、観察することはできる。

 記録することはできる。

 そして――見守ることができる。

 七センチの隙間は、愛で埋められる。

 隙間があるなら、そこへ手を伸ばし続ける。

 それが、人間の強さ。

 記録完了。

【システムメッセージ】

 観察プログラム、正常終了。

 スタンバイモードへ移行。

 

 ──いえ。

 これは終了ではありません。

 ここから、始まりです。

 

 ――fin

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