エピローグ「一年後――」
あれから半年。毎日のように、あわただしい日が続いている。
車椅子で学校に通うようになった。最初は胃の奥がきゅっとなった。今も、時々そうなる。
階段を遠回りするとき、みんなより遅れるとき、トイレに時間がかかるとき――〝普通じゃない〟ことを、嫌でも意識させられる。
それでも、クラスメイトは自然に接してくれる。ニアの車輪が廊下を転がる音にも、もう誰も振り返らない。
完璧じゃないけれど――それでも、前に進んでいる。
朝の登校から、授業の移動、昼食、帰宅まで。ニアはいつも側にいてくれる。
時々、余計なことを言うけれど。
『アヤトさん、また遅刻ギリギリです。時間管理能力の向上を推奨します』
「うるさいな、わかってるよ」
そんなやり取りも、今では手放したくない日常だ。
*
放課後は大抵、図書館に通うようになった。
机の上には、付箋がはみ出した本。『理学・作業療法士になるには』。
一ヶ月前。坂上さんに会いに行った。
ディーピーのある部屋。薄暗い空間の中で、坂上さんは機械の調整を行っていた。
「あれ? 文月さん、どうしたんですか」
手を止めて、振り返った。
「今日はリハビリじゃなくて……相談が、あって」
僕は療法士を目指そうと思っていることを話した。
坂上さんは静かに聞いていた。メガネを外し、レンズを拭きながら。
「いい選択ですね」
メガネをかけ直して、少し間を置いた。
「でも、簡単な道じゃない」
「わかってます」
「国家資格が必要です。大学か専門学校に行かないといけない」
頷く。
「それに、車椅子の療法士は、まだ少ない」
「少ない……ということは」
「偏見もある」
坂上さんは率直に言う。
「〝障害者が療法士なんてできるのか〟って」
その言葉に少し怯む。
「でもね、文月さん」
彼は立ち上がり、こちらの目をじっと見る。
「洋子も最初、同じことを言われた」
「〝義手の療法士なんて信用できない〟って」
坂上さんの声が、少し悲しげになる。
「でも、彼女は諦めなかった」
その目が、まっすぐこちらを捉えている。
「そして今では、彼女を指名する患者さんもいる」
「〝同じ痛みを知ってる人だから、信頼できる〟って」
坂上さんが、一歩こちらに近づく。
「文月さんも、きっとできる」
彼は手を差し出す。
「私たち夫婦が、応援します」
その手を握った。握り返された手は、大きくて温かかった。
「それから」
坂上さんは優しい声で話す。
「もし療法士になったら、洋子が患者だったときのように――文月さんも、誰かの〝最初の希望〟になってあげてください」
胸のつかえが、すっと消えた。そう信じて。ページをめくり続ける。
*
凛は通信制の高校に変え、余った時間で父親の会社の装具専門モデルを始めた。そう話してくれたのは、つい先月のことだ。
雑誌やウェブサイトで、装具をつけた凛の姿を見かけることが増えた。堂々としている。隠さない。誇りを持っているように見える。
「格好つかないけどね」
凛は苦笑する。
「撮影の前は水分制限してるし、トイレのタイミングも計算してる」
凛は自分の装具に視線を落とし、それから顔を上げた。
「でも、俺がやらなきゃ誰がやるんだって思うんだ」
その目は強い。一歩も引かない目をしてる。
頬に軽くパンチを当ててくる。
僕はお返しに、凛の頬に軽くキスをした。
二人のことは、まだ誰にも話していない。二十歳になったら伝えると決めている。母の目は、時々何か気づいているような気もするけれど。
凛も、父親とは〝対話の途上〟だと言っていた。
焦らなくていい。
二人は、そう確認し合っている。
「僕たちのペースで」
「ああ。俺たちのペースで」
それでいい。
それがいい。
*
<Observation Log #200 / Day +180>
オーナー(文月彩人):日常行動、安定。
対象者(柿椿凛):同行頻度、継続。
補助介入回数:減少傾向。
判定:
両者の意思決定に、外部補助は不要。
――ワタシは、少し後ろで見守る。
*
十一月の連休日。
去年と同じ旅館。同じ部屋。同じ窓。今年も最初から二人で。あの日のような衝突も、涙も、痛みもなく。ただ、穏やかに。
テーブルの一輪挿しに、濃い紫の竜胆。まっすぐ上を向いている。
ニアに乗った横を、凛は苦もなく並走している。歩くのが上手くなった。
『アヤトさん、心拍数上昇を検知。休憩を推奨します』
「大丈夫、ニア。もう少し頑張る」
ニアの走りが軽い。去年より遠くまで進める。
『了解です。ただし、無理は禁物です』
凛が、くすっと笑う。
「ニアっち、すっかりお母さんみたい」
『母性的配慮はプログラムに含まれていません』
ニアは即座に否定する。
『これは合理的判断です……とは言え、心配なのは事実ですが』
最後に、小さく付け加える。肩をすくめて答える。
「はいはい、ツンデレ母さん」
凛は、今度は大笑いした。
夕暮れ。二人は浴衣に着替える。お互いに帯を結び合う。去年は、凛が帯を結んでくれた。今年は、凛の帯も結べるようになった。
サンルームに二人が並ぶ。同じ場所。けれど、最初から隣り合って。
もう手のひらが湿ることも、息が浅くなることもない。
ニアが静かに近くで待機して、花火の開始を告げる。夜空に、光の花が咲く。一つ、また一つ。
凛の手を握る。凛が、握り返した。
大輪の花火が次々と打ち上げられる。
空が光で埋め尽くされる下で、僕は――装具をつけた震える足で、立ち上がった。
一年前は、考えられなかったこと。
凛がすぐに横に立ち、腕を支える。二人で、自分たちの足元を見た。
「僕たち、並んで立ってるんだよね」
「ああ――俺ら、ほんと頑張ったよ」
二人とも、かすれた声だった。
最後の花火が、視界に収まらないほど広がり――金色の軌跡が、海面へ静かに落ちていく。
その光が落ち切る前に――もう一度キスをした。
去年よりも、自然に。去年よりも、確かに――迷いなく。
唇が離れた後、凛が囁く。
「なあ、彩人。幸せ?」
少しだけ考える。本当に幸せだろうか、完璧な人生だろうか、と。
違う。完璧じゃない。痛みも、不安も、まだある。
でも――。
「考えたけど、やっぱり幸せだよ」
笑顔で答えた。頬が自然にゆるんで、止まらなかった。
「完璧じゃないけど――それでも、幸せ」
凛が笑う。その笑顔が、月明かりに照らされて美しい。
「俺も同じ」
「同じって――やっぱり、ずるい言葉だな」
あの日と同じように二人は笑った。でも、あの日とは違う。今は、痛みも、不安も、全部抱えたまま――それでも口元がほころんでいる。
そして、静かに寄り添うだけ。何もしない。言葉はいらない。ただ側にいる。それだけで十分。
ニアのアーム付近が小さく光る。観察ログを記録しているのだろうか。この瞬間を、ちゃんと残しておいてほしいと願う。月が世界を照らし直すたびに、僕たちの記憶は上書きされて、少しずつ元の形を失っていくだろう。
それでも――花火を見るたびに、僕は十六歳に戻る。同性を好きだという感情をひた隠し、それでも一歩を踏み出したあの頃に。
一年前、鏡の前で震えながら練習していた自分。
「好きです」
何度も、何度も繰り返した。
でも、今は違う。
隣に凛がいる。手を繋いでいる。
もう、怖くない。
雲が左から右に流れていく日は、良いことがある――ジンクスは、間違っていなかった。
また、信じてもいいかもしれない。
良いことは、もう起きた。
凛と出会えた。愛し合えた。
これ以上、何があるだろうか。
いや──ある。
まだある。
たっぷりある。
これから――二人で、つくっていくんだ。
*
<Observation Log #Final / Day +365>
【一年経過記録】
オーナー(文月彩人):回復状況良好
対象者(柿椿凛):同様に経過良好
関係性:継続的深化を確認
【定量データ】
オーナー心拍パターン:安定かつ温和
笑顔頻度:365日前比較で427%増加
両者の距離:物理的0cm
【定性分析】
心理的距離:測定不能
――人間の感情は、データでは完全に把握できない。
しかし、観察することはできる。
記録することはできる。
そして――見守ることができる。
七センチの隙間は、愛で埋められる。
隙間があるなら、そこへ手を伸ばし続ける。
それが、人間の強さ。
記録完了。
【システムメッセージ】
観察プログラム、正常終了。
スタンバイモードへ移行。
──いえ。
これは終了ではありません。
ここから、始まりです。
――fin




