第七十七話:開いた窓
雪が、降り続いていた。
王都の門は、開いたままだった。
その奥から、一人が出てきた。
アデルだった。帳簿を、胸に抱えている。
門の前に、大勢がいた。
ガルディアの兵。
ベルタの冒険者。
立ち上がった村の者。
武器を置いた王都の兵。
皆が、門に向かって、静かに立っていた。
アデルが出てくるのを、皆が見ていた。
◇
アデルは、まっすぐ歩いた。
人が、道を空けた。
その先に、ケンジがいた。
アデルは、ケンジの前で止まった。
「やっと、これを渡すことができる」
それだけ言って、頭を下げた。
深く。長く。
帳簿を、差し出した。
ケンジは、黙って受け取った。
それから、アデルの手を取った。握った。
アデルの手は、冷たかった。
ケンジは、離さなかった。
◇
近くにいた者が、その手を見た。
握られた、二つの手を。
一人が、動きを止めた。
止まった背中に、隣の者が気づいた。振り返った。
視線が、集まっていく。
何が起きたのかを、声にする者はいなかった。
それでも、手から手へ、目から目へ、伝わっていった。
帳簿が、渡った。
終わった。
言葉にならないまま、それが、門の前の大勢に、じわじわと満ちていった。
◇
ゴルドは、動かなかった。
列のほうを見ていた。
ラグがいた。兄だった。
ラグも、ゴルドを見た。
目が、合った。
ゴルドの喉が、動いた。
何か言いかけて、止めた。
まだ、黙っていた。
◇
伝播が、門の前を端まで満たした。
静けさが、張りつめていく。
いちばん高いところまで。
その、いちばん高いところで——
ゴルドが、口を開いた。
「ラグ!」
声が、その静けさを、裂いた。
あの日、呼べなかった名だった。
今、その名を、まっすぐに、呼んだ。
◇
堰が、切れた。
門の前が、声で溢れた。
ブロンが吼えた。
ついに、あの声が出た。
天に向かって、意味もなく、ありったけ。
兵たちが、名を叫んだ。
家族の名を。
村の名を。
何ヶ月も石の中でしか呼べなかった名を、空へ、放った。
抱き合う者。
膝をつく者。
泣く者。
雪のなかで、人が、思い思いに崩れていった。
声が、声を呼んだ。
◇
声は、門を越えた。
城下の、石の街へ。
恐怖で閉ざされた街だった。
窓を閉じ、戸を閉じ、外の音に応えない街。
その窓が、一つ、開いた。
また一つ。
また一つ。
十五年、閉じていた街が、開いていく。
人が出てきた。おそるおそる。
それから、駆け出して。
声のするほうへ。
窓は、もう、危ない隙間ではなかった。
◇
その渦の中に、動かない者がいた。
ヴォルスだった。
名を叫ぶ声のなかで、その目だけが、遠くを見ていた。
雪が、その頬で溶けた。
アデルは、輪の外にいた。
歓喜には加わらなかった。
帳簿を渡した手は、もう空だった。
その手を、脇に垂らしたまま。
ガドが、立っていた。
少し離れて、イレーナが。
二人は、同じ方角を見ていた。
歓喜のなかで、どちらからともなく、胸に手を当てた。
その悼みだけは、声にならなかった。
雪が、二人の肩に、積もっていた。
◇
ケンジは、少し離れたところに立っていた。
開いていく窓を、溢れる声を、見ていた。
ただ、平らだった。
帳簿を抱え直して、石に手をかけた。
ベルタへ繋がる石だった。
ずっと、道のことだけを運んできた。
窓が開いた。窓が閉じた。運んだのは、それきりだった。
最後に、別の言葉を乗せた。
「終わりました」
喧騒のなかで、その報告だけが、静かだった。
石の向こうは、しばらく黙っていた。
「……お待ちしています」
セレスの声だった。
ケンジは、石から手を離した。
◇
雪が、降っていた。
開いた門。開いた窓。
声のある街に、雪が、降っていた。




