第七十六話 帳面の男
雪が降っていた。
石の街に、音がなかった。
門をくぐっても、誰も止めなかった。
跳ね橋は下りたまま、閂は外れている。
入る者を見張る目は、もうどこにもなかった。
アデルは帳面を抱えて歩いた。
回廊に兵がいない。数える癖で、目が動く。
武器の数。立哨の数。
今日は、数えるものがなかった。
雪が、窓の外を白く塞いでいた。
奥へ進んだ。
◇
執務室の戸は、開いていた。
中に、ヴァルクがいた。
火鉢は消えている。
炭は灰になって久しい。
部屋は、外と同じ寒さだった。
机の上に、報告の束。
ヴァルクは一枚に署名し、次の一枚に署名した。読まずに。
北の属領、滞りなし。
東の街道、滞りなし。
どちらも、もう本国のものではない土地だった。
アデルが入っても、ヴァルクは顔を上げなかった。
「遅い」
ヴァルクは言った。
「報告が、遅いぞ」
アデルを、報告を持ってきた者だと思っていた。
あるいは、誰でもよかった。
長く仕えた男の顔を、ヴァルクはもう見分けていなかった。
◇
アデルは机に帳面を置いた。
開いた。
「数を、申し上げます」
ヴァルクの手が、署名の途中で止まった。
「名簿の上に、三千百」
間。
「立っているのは、六十。昨日、その六十も、武器を置きました」
ヴァルクは答えなかった。
「差の名は、この十年、私が書きました。戦死。行方不明。脱走。——順調と、書きました」
ヴァルクの目が、初めて動いた。
帳面へ。
それから、それを置いた手へ。
順調と書かれた紙が、机にあった。
その順調を書いた手が、今、目の前にあった。
ヴァルクの息が、浅くなった。
◇
「アデル」
ヴァルクが、その名を呼んだ。
長く仕えた男の顔を、そこでようやく、思い出したのかもしれない。
「はい」
「……順調か」
ヴァルクの声は、子供のようだった。
ずっと、その一言を、待っていた声だった。
アデルは帳面を閉じた。
「この上なく、順調です」
ヴァルクの目に、安堵のようなものが差した。
アデルの手が、動いた。
雪が、窓を白く塞いでいた。
街の音は、とうに死んでいる。
部屋に残った最後の音が、ゆっくりと、その白さの中へ溶けていった。
誰かのために祈られた終わりのように。
静かで、汚れのない、一つの音だった。
◇
部屋は、静かだった。
火は、完全に消えていた。
アデルは帳面を、開き直した。
ラルタの頁を繰った。
二十の名が並んでいた。
同じ字で。
行方不明。行方不明。行方不明。
アデルはペンを取った。
一つずつ、書き換えた。
生存。生存。生存。
二十、書き終えた。
残った頁が、一つ。
斃れた王の、家の名。
妻と、子。
政に関わりのない名だった。
本国のやり方なら、その名にも、処理がいる。
アデルは、その頁を開かなかった。
帳面を、閉じた。
◇
来た道を、戻った。
回廊に、雪が吹き込んでいた。
門は、開いたままだった。
アデルはその中へ出ていった。
雪が、その背に、降っていた。




