第七十四話 火が、消えた朝
最後の村に、丸がついていた。
丸は、声が届いた村。
生きている、と本人の口から家族へ渡った村だ。
線は、届かなかった村。
窓が、先に閉じた。
線は、三つ残っていた。
その三つは、間に合わない。
あの村の家族は、今日も、息子を死んだと思っている。
ケンジは線を数え直さなかった。
数えても、丸には変わらない。
もう、置ける丸がなかった。
波紋は、与え終えた。
ここから先は、待つほど悪くなる。
石の向こうで、重臣が一人消えたと聞いた。
村がいくつも、名簿から抜けはじめている。
粛清は、暦で読めない。
次の報せがどの村の名で来るか、ケンジにはもうわからなかった。
待てば、読めないものが先に来る。
帳面を閉じた。
ガドが、戸口に立っていた。
「終わりました」
ケンジは言った。
「……そうか」
ガドは、それ以上聞かなかった。
決行、という言葉は、どちらも口にしなかった。
◇
石に手をかけた。
川向こうの、ヴォルスへの魔石だ。
言っていいのは、道のことだけ。
ずっと、そう決めてきた。
窓が開いた。
窓が閉じた。
道の話だけを、この石は運んできた。
最後に運ぶ言葉も、短かった。
「届け終わりました」
渡し終わりました、とは言わなかった。
届け終わりました、だ。
運んだのは、声だった。
それが、合図だった。
石の向こうは、しばらく黙っていた。
「……そうか」
ヴォルスの声は、短かった。
それきり、石は静かになった。
◇
朝が来た。
ケンジは塀の上にいた。
数ヶ月、毎朝、川向こうに火があった。
夜明け前に焚かれる篝火。
あれは、嘘の火だった。
焚く者の見せたい数だけ、そこに陣がある。
そう見せる火だ。その嘘が、村を守ってきた。
今朝は、煙がない。
川向こうが、ただ明るくなっていく。
火のない、朝だった。
隣に、ガドがいた。
前に同じ火を見たときは、一人だった。
塀の風は、あのときと同じに冷たい。
今日は、ガドの白い息が、隣にあった。
ガドは何も言わなかった。
ケンジも言わなかった。
二人で、火のない川向こうを見ていた。
◇
川向こうで、陣が畳まれていった。
天幕が倒れ、火のあとが均される。
人の列が、北へ動きはじめた。
声を聞いた村から、出てきた者たちだ。
列は王都の方へ、ゆっくり伸びていく。
ガドが渡っていった。
冒険者たちが続く。
アデルも帳面を抱えて、川を渡った。
ケンジのいる岸から、彼らは向こう岸の列に混じって、見えなくなった。
イレーナが来た。
「ベルタは、セレスに任せます」
イレーナは言った。
「あなたは来なさい。帳面ごと」
少し離れて、セレスが立っていた。
若い指揮官が、ケンジに一つ頷いた。それで、引き継ぎは済んだらしい。
イレーナの兵は、列とは別に動くという。
旗を巻いたまま、街道を外れて、一日遅れて発つ。列に、軍を混ぜないためだ。
ケンジは帳面を見た。
それから、閉じた。
◇
昼、食堂はいつも通りだった。
アンばあさんが鍋を運んでいる。
マレクの鉄板が鳴っている。
蔵からは、薬草の匂い。
奥で赤ん坊が泣いた。ソルとティエの子だ。よく泣く子だった。
列は、もう見えない。町は、回っていた。
ケンジは椀を受け取った。
守ってきたものは、川のこちら側にある。
声を配ったのも、そのためだった。
皿が回り、湯気が立ち、子が泣く。それを続けるために。
◇
帳面は、鞄に入れた。
明日、川を渡る。
店じまいのベルタを、ケンジは歩いた。
柵の外で、マレクが鉄板を仕舞っている。籠は、空だった。
半年前、川の向こうから、戦争が来た。
今日、川の向こうへ、火のない朝が広がっていく。




