第七十二話 冬の終わりの産声
その夜、食堂には石が並んでいた。
一つずつの前に、捕虜が一人。
順番を待つ者は、壁際で膝を抱えていた。
誰も、大きな声を出さなかった。
一度に動かす、と決めたのはケンジだった。
窓は雪解けで閉じる。
閉じる前に、残りを全部渡す。
だから今夜、いくつもの村へ、いくつもの運び手が出ていた。
ケンジの前には、地図があった。村の印。窓の開閉。運び手の位置。
全部を一人で追うには、多すぎた。
隣に、ソルが立っていた。
森から来ていた。
背負ってきた斧は、壁に立てかけてある。
今夜は、その出番がない。
ソルもそれを知っている。だから、ただ立っていた。
奥の部屋の戸が、閉まっていた。
その向こうで、ティエが産んでいる。
◇
石の一つが、低く鳴った。
「……生きてる。おれだ。生きてる」
捕虜の一人が石に口を寄せていた。
声が震えていた。
石の向こう、川の遠くで、家族がそれを聞いている。はずだった。
シバが地図の端で頷いた。
窓は開いている。
届いた。
ケンジはその村に丸をつけた。
次の石。
次の声。
生きてる、急ぐな、動くな。
同じ言葉が部屋のあちこちで、低く重なっていた。
奥の戸の向こうから、マーサが出てきた。
湯気の立つ木の桶を抱えていた。
「湯、もう一回」
誰にともなく言って、また戻っていった。
戸が開いた一瞬、中の物音が漏れた。
ケンジは顔を上げかけて、やめた。
見に行っても、できることは何もない。
ここと同じだった。
◇
三つ目の村で、窓が閉じた。
「巡回だ」
見張りの石が言った。
「予定より、早い。谷の口が塞がってる」
その村へ向かっていた運び手はまだ手前にいた。
ケンジは石に手をかけた。
「窓が、閉じた」
運び手は引き返す。
生きて戻る。
だが、その村の家族は、今夜、声を聞けない。
石の前に座っていた捕虜がこちらを見た。
自分の番を待っていた男だった。
「……今夜は」
「すみません」
ケンジは言った。
「今夜は、無理です」
男は何も言わなかった。
石から手を離して、壁際へ戻っていった。
膝を、また抱えた。
ケンジはその村の印に、丸をつけなかった。
線を引いた。
次の窓は、雪解けの後だ。
それまで、この男の家族は、この男を死んだと思ったままでいる。
救えない者がいる。
今夜も、いた。
◇
奥で声がした。
ティエの声ではなかった。
ムウだった。
「血が、多い」
戸の隙間から、それだけが漏れた。
「あの草だ。乾いてる方の。アン、早く」
アンばあさんが蔵へ走った。
半月前に建てた蔵だった。
炭を敷いて、湿気を抜いた蔵。
あの束が、乾いたまま残っていた。
壺のままなら、とうに黴びていた束だ。
アンばあさんが乾いた束を持って戻った。
走りながら匂いを嗅いでいた。
効く、と確かめる目だった。
戸が閉まる。
同じとき、石が鳴った。
別の運び手だった。
窓の見張りが、慌てていた。
「巡回が、動いた。もう一つの谷だ。近い」
ケンジの手は石と奥の戸のあいだで止まった。
奥からは、ムウの短い声。
石からは、見張りの早口。
どちらも、ケンジの手ではどうにもならない。
触れられるのは、石だけだった。
「窓が、閉じた」
ケンジは石にそれだけを乗せた。
運び手を一人、引き戻した。
奥の戸は開かなかった。
ソルが戸の前に立っていた。
動かない。
戸を開ける手を持っていない男の立ち方だった。
ケンジのとは違う無力さで、同じ場所にいた。
◇
どれくらい経ったか、わからない。
石の声が一つ、また一つと減っていった。
渡り終えた運び手が、山へ入る。
今夜の窓は、もうほとんど閉じていた。
丸のついた村。
線を引いた村。
ケンジは帳面を閉じなかった。
まだ、数えていたかった。
奥の戸の向こうが静かになった。
長い静けさ。
ソルが戸を見ていた。
その静けさがどちらの静けさなのか、ケンジにはわからなかった。
ソルにも、わからなかったはずだ。
二人とも、動けなかった。
泣き声がした。
小さくて、高くて、途切れなかった。
奥から、マーサの声。
笑っていた。
「男の子だよ」
ソルが戸に手をかけた。
開ける前に、一度だけ止まった。
それから、入っていった。
◇
ケンジは卓に残った。
石が一つ、まだ低く鳴っていた。
山を行く運び手が道の報せを送っていた。
谷、開いてる。
水、少ない。
生きている、と誰かが遠くで言い、生きている、と奥で誰かが泣いていた。
ケンジはその二つを、しばらく聞いていた。
窓の外は、雪ではなく雨。
屋根を静かに叩いている。
泣き声は、まだ続いていた。




