第七十一話:綻び
石の前に、ケンジとシバがいた。
国境手前の見張りからの石は、朝から静かだった。
やがて、石が声を運んでくる。
「巡回、なし。街道、静か。谷の口、開いてる」
シバが地図を見た。
ドッズは昨夜渡った。今日の昼川から二つ目の谷の村に入る。
家族に声を届ける。
窓は開いている。
暦の通りだった。
「予定通りです」
ケンジは言った。
雪解けまであと半月あるかどうか。
窓は日に日に狭くなる。
それまでに、あと何人を渡せるか。
帳面には残りの村の数が書いてあった。急ぐ理由ならいくらでもあった。
◇
昼前に、シバが一人戻ってきた。
別の石で、別の元捕虜と話していたらしい。
顔がいつもより硬かった。
「よその村で、見せしめが、あったそうだ」
「見せしめ」
「兵が、人を、柵の前で。……巡回じゃない。取り立ての時期でもない」
ケンジは地図を見た。
その村はドッズの経路から外れていた。
遠い。
巡回の暦にも、かかっていない。
「うちの経路は、巡回なしです」
言ってから、少し引っかかった。
だが石は「街道、静か」と言っている。窓は開いている。
ケンジはその安心の方を取った。
だがその引っかかりは消えなかった。
◇
奥の席で椀が止まっていた。
シバの昔の同輩だ。
膝を抱えて死を待っていた男は、この半月で髭を剃り、飯を残さなくなった。
ヤン、という名も皆がようやく口にしている。
そのヤンが椀を置いて立っていた。
地図を見ていた。
ドッズの入る村の、印を。
「ヤン」
シバが言った。
「……そこは」
声が途切れた。
続きがなかなか出てこない。
「……見せしめの、後は」
一言ずつだった。
「兵が、残る。……しばらく」
シバが何か言いかけて、やめた。
「村が……隣を疑う。誰かが誰かを、売る」
ヤンは座らなかった。
地図の一点を見たままだった。
その村を知っている目だった。
どこでそれを見たのかは、言わなかった。誰も聞かなかった。
ケンジは脳に魔力を回そうとした。暦を、経路を、速さで組み直そうと。
出てこなかった。
見せしめの後に兵が何日残るか。
村の口が、いつ緩むか。
そんな数字は、ケンジのどこにもなかった。
塞いだのは、俺じゃなかった。
◇
すぐには動けなかった。
石は「街道、静か」と言っている。
ヤンの一言だけで運び手を呼び戻せば、無駄足になるかもしれない。
確かめる手が要った。
アデルの石が鳴った。
『先月の名簿だ。あの谷の村で二十消えている。戦死処理でも脱走でもない』
アデルの声はいつも通り乾いていた。
『理由までは紙にはない。ただ消え方が綺麗すぎる。上の紙は「順調」だ』
それだけ言って石は静かになった。
最後に紙をめくる音が薄く残った。もう次の頁を数えているらしかった。
ヤンの言った「見せしめ」と、消えた二十。
別々に来た二つが、同じ村で重なった。
ケンジは見張りの石に手をかけた。
言っていいのは、道のことだけ。決めたのは、自分たちだった。だからそれだけを言った。
「窓が、閉じた」
石がそれを、谷の向こうへ運んでいった。
◇
ドッズが引き返したのは、村の手前だったという。
後で聞いた話だ。
ドッズが谷の口で「窓が閉じた」を聞いて、踵を返した。
ちょうどその頃、村では見知らぬ足跡を見た男が一人、兵の詰め所へ向かいかけていた。
足跡の主は、もういない。
間に合った、という言葉を、ケンジは使わなかった。
間に合わなかった側が、あの村には、二十人いた。
◇
夜、ケンジは帳面を開いた。
残りの村の数を、もう一度見た。
窓は狭くなる。
そして今日、暦が当てにならないことが、わかった。
巡回は読める。
見せしめは、読めない。
読めないものが、増えていく。
待てば、次のドッズが死ぬ。
ケンジはペンを取った。残りの村の横に、線を引いた。
一つずつ渡す時間はもうない。
一度に、動かす。
帳面を閉じた。
奥の席でヤンがまた椀を持っていた。
飯を残していなかった。
しばらく、それを見ていた。




