第六十八話:一画、ずつ
雪は根雪の上に、さらに積もった。
声を届ける仕事は、冬の暮らしの底で静かに続いていた。
ドッズとあと三人。
シバの選んだ運び手たちは、薪を売り、鍋を直し、行商のなりで、村から村へ石を運んだ。
ケンジの帳面には丸が増えていった。
十二、十五、十九。
丸が増えるたびケンジは、それが誰かの怒りと、誰かの演技でできていることを忘れないように数えた。
◇
順調な話ばかりではなかった。
十九番目の丸の家が、三晩石に出なかった。
決めた刻限に石は震えない。
こちらから呼ぶことはしない。
それも決めた枠だった。呼んで、家族以外の耳がある時に石が鳴れば、それで終わる。
三晩、納屋の男は石の前に座り続けた。
四日目の晩に石が震えた。
『……すまんな』
老いた声だった。
『役場の男が村を回っとった。家の数と、人の数を数え直しにな。……石は床下に埋めとった。掘り出すのに今日までかかった』
それだけ言っていつもの合図を交わして、切れた。
男は石を置いて長い息を吐いた。
生きている、の一言を聞くために三晩、床下の石の上で暮らす家族が川の向こうにいる。
丸は丸のまま帳面に残った。
ただ、その丸が薄い氷の上に書かれていることをケンジは覚えておくことにした。
◇
ダルスの母からの声は、月に二度、決まった夜に来た。
『変わりないよ。ミナも風邪ひとつ引かん』
それがいつもの報せだった。
その夜は少しだけ続きがあった。
『……村がね、変わってきとるよ』
「変わっていますか」
『役場の紙が来た家がうちを入れて三軒。三軒とも扶持を切られた。井戸端でね隣の婆さんが言うんだよ。息子を返せとは言わんけど、飯の種まで取り上げるのはどういう了見だ、って』
石の向こうで少し間があった。
『あの婆さんの息子は……ほんとうに死んどるんだと思う。それでもね』
「はい」
『あたしは何も言うとらんよ。言えんもの。ただ——』
声が低くなった。
『一緒に怒っとる。それは嘘じゃないから』
石が切れたあと、ケンジはしばらく帳面を見ていた。
息子が生きている母と、息子を亡くした母が、同じ井戸端で同じ相手に怒っている。
片方は演技で、片方は本物で、でも怒りだけは二人とも本物だった。
◇
翌週、本陣の石にヴォルスの声が来た。
家族の報せを終えた兵の数を短く伝えてきた。
それから、いつもは事実しか言わない男が、一言足した。
『……兵に、背骨が戻った』
「背骨、ですか」
『家族が死ぬと思って戦う兵と、家族が待っていると知って戦う兵は立ち方が違う。飯の食い方も違う。……逃げる支度をしていた隊が、勝つ支度を始めている』
それだけだった。
◇
月の終わりに、アデルの声が来た。
『五十三だ』
数字だけだった。この回線でも名前は言わない。それも枠だった。
五十三。声が届き、家族が固まり、動かず待つと決めた家の数。
あの折り目のついた紙の、一画ずつの数。
『二十人の紙は埋まった。二枚目に入っている』
アデルの声はいつも通り乾いていた。
『それと、別の数字を言う。北の属領の駐屯地で、冬に入ってからの脱走が去年の倍だ。東は三倍』
「脱走……網の、家ですか」
『違う。そこが肝だ』
紙をめくる音が、石の向こうでした。
『こちらが動かした家は五十三。だが国が紙で怒らせた家は四百ある。四百の家に兵に行った次男がいる。従兄弟がいる。婿がいる。扶持を切られた話は面会の日に、駐屯地の柵越しに勝手に伝わる。……俺たちは、四百の家には、指一本触れていない』
ケンジは帳面の上で手を止めた。
「……国が、集めてくれている」
『そうだ。あの男が、年の締めに綺麗にした帳簿の分だけな』
十年分の何かが、算盤を弾いているのがわかった。
『言っておくことが、一つある』
「はい」
『脱走の数字は俺が読める。読めるということは——いずれ上も読む。数字は育つ。育った数字は、必ず読まれる』
石が切れた。
◇
夜、ケンジは帳面と地図を並べて置いた。
地図の上に、丸の家を点で打ってみた。
点は線にならなかった。谷に一つ、山向こうに二つ、駐屯地の町に、まだ届かない空白。
まだらだった。きれいな網の形などどこにもなかった。
でも、まだらは広がっていた。
こちらの手の届かないところで、国の紙が勝手に点を打っていた。
四百の触れていない点を。
ケンジはペンを取り、帳面の隅に書いた。
網はこちらが張る分より、向こうが破る分で広がる。
書いてから少しだけ手が止まった。
これはいい報せなのだ。作戦は育っている。冬の底で狂いなく育っている。
なのに、アデルの最後の言葉が部屋の隅に残っていた。
育った数字は、必ず読まれる。
窓の外で雪が降り続いていた。
同じ雪の下の石の色の街で、誰かが同じ数字をまだ読んでいない。
まだ、読んでいないだけだった。




