第六十七話:口を、数える
「二十九日です」
朝一番にミーデルが言った。
帳面がカウンターに開かれていた。
「三十八日、と言ったのは十日前です。暦の上では十日しか経っていません。でも蓄えは十四日分減りました」
「……口が、増え続けているから」
「はい。登録が増えるのはいいことです。働く手も増えるので。でも冬の間は働く手も、食べる口です」
ミーデルの数字はいつも通り正確だった。
食べる口、戦の前の一・八倍。
減りの速さ、暦の一・四倍。
このままなら蓄えは雪解けの前に尽きる。
「減らす方法と、増やして届かせる方法があります」
ミーデルがケンジを見た。
「ケンジさんは増やす方ですよね」
「はい」
口は減らさない。届く方を増やす。
ケンジは帳面に線を三本引いた。川の道。山の道。それと王都への道。
◇
川の道はマルコだった。
「鮭が上ってきてます」
定期便のついでにカウンターに寄った漁師は、日に焼けた顔をほころばせた。
「冬の鮭は脂が乗る。蟹もまた元気ですね、これからが本番。船と手さえあれば、獲れるだけ獲れます。ただ——」
「ただ?」
「塩です。獲っても塩がないと干せない。生のままじゃ三日で終わりだ。今ある塩じゃ足りません」
塩。
ケンジは帳面の三本目の線に印をつけた。王都への道に。
◇
山の道は、昼過ぎに戸口から入ってきた。
ゴルドとラグだった。
二人とも雪まみれだった。背負子に白いものが山と積まれていた。
雪白兎だった。
「……二十三羽」
ゴルドがそれだけ言った。
ラグが背負子を下ろした。手際がもう狩人のそれだった。
橋で捕虜になった兵が冬のベルタを食わせる獲物を、山から担いで降りてきていた。
「冬毛は高く売れます」
ラグが言った。少し誇らしそうだった。
「肉は鍋に。毛皮は、アンピークで。……俺、向こうの冬山で猟をやってたんです。徴兵の前は」
ケンジは受付の帳面に依頼達成の印を押した。
「明日も、行けますか」
「行けます」
ゴルドがほんの少し、笑った気がした。
◇
夕方、王都から使いが来た。
分厚い外套の男が、書状を一通置いていった。
差出人の名を見て、ケンジは少し手を止めた。
オルフェン。
王都商工会、副議長。旗の下で算盤を弾き直した男。
書状は丁寧で、隙がなかった。
——冬のベルタは口が増えたと聞く。麦と塩、ソリにて、望むだけ都合しよう。雪は道を塞ぐが、ソリの道を開く。冬こそ荷は動く。
値は、相場の二倍、とあった。
それともう一行。
——ついては、戦の後の、川の商いの一番札をいただきたい。
ケンジは書状を二度読んだ。
戦の後。
この男は、もう戦の後の算盤を弾いている。ベルタとランバルトの間にいずれ商いの道が開くと読んでいる。開いた時、最初にその道に立つ権利を、麦と塩で今のうちに買いに来ている。
「……ミーデルさん」
「読みました。横から」
ミーデルは眉を寄せていた。
「二倍は暴利です」
「はい。でも雪の中を運ぶ費えと、危険料を乗せれば、一・五倍までは筋が通ります」
「残りの〇・五倍が、暴利です」
「そこは値切ります。それより一番札の方です」
ケンジは書状の最後の行を指で叩いた。
「一番はいい。でも、独り占めは駄目です。オルフェンさんだけが川の商いを握ったら、値はあの人が決めることになる。ベルタの冬が、毎年あの人の算盤の上に乗る」
◇
返事はその夜のうちに書いた。
麦と塩、受ける。値は一・五倍。
支払いは、雪白兎の毛皮と、上炭、それと春の蟹と干鮭の先渡しで。
一番札は、渡す。
ただし三年。三年の間、川の商いの最初の買い付けはオルフェンに。その代わり独占はなし。二番手、三番手の商人にも道は開けておく。
——一番札の値打ちは、二番手がいてこそです。誰も並ばない札に値は付きません。
最後の一行は、少し迷って書き足した。あの男の算盤に届く言葉で書いたつもりだった。
十日後、ソリの列が雪の街道を南から上ってきた。
麦と、塩と、返事の書状が一通。
——三年で結構。三年あれば、二番手の追えぬところまで、行っておりますゆえ。
ケンジはその一行に、少しだけ笑った。
敵ではなかった。味方でもなかった。信じてもいなかった。
ただ、あの男の算盤とベルタの帳面は、当分同じ方向を向いている。組む理由はそれで足りる。
◇
塩が届いた日から、ラルタの浜で鮭が干され始めた。
蟹は茹でられ、兎は鍋になり、毛皮は南へ下っていった。
夜、ギルドの食堂で、大鍋が湯気を立てていた。
雪白兎の鍋だった。ラグの獲物だった。
椀を持って並ぶ列に冒険者がいた。元捕虜がいた。王都兵がいた。食べる口、一・八倍。その一・八倍が、同じ鍋の前に、一列に並んでいた。
ティナが木のお玉を振るっていた。
「はい、次の人! ……あ、おかわりは全員に一回ずつ回ってから!」
列の中の王都兵が素直に椀を引っ込めた。
ケンジはカウンターで帳面を開いた。
ミーデルが隣に立った。
「数え直しました」
新しい数字が書き込まれた。
五十一日。
「雪解けまで、五十日です。一日、余ります。……初めて届きました」
ペンを置く音が、少しだけ軽かった。
ケンジはその数字をしばらく見ていた。
減らさずに届いた。
窓の外は雪だった。同じ雪が、川向こうの村にも、王都にも、降っている。
あちらの帳簿は、口を減らして冬を越そうとしている。
こちらは、増やしたまま越える。
帳面を閉じた。
鍋の列は、まだ続いていた。




