第六十五話:まだら
声は、夜ごとに届けられていった。
ドッズが村を回り、石を置き、納屋から声が渡った。
ケンジは帳面に印をつけていった。
信じた家に、丸。
三日で、丸が四つ並んだ。
泣いた母親がいた。
何も言わずに、ただ息子の名を呼び続けた父親がいた。
弟が出て、兄貴は死んだはずだと言い張って、子供の頃に二人で埋めた犬の名前で、崩れた家もあった。
四つ目の丸の隣に、ケンジは初めて別の印をつけた。
ロズの家だった。
二十人の中で一番若い男だった。
橋で流された時のことを、ほとんど覚えていないと言った。
気がついたら葦の中にいて、気がついたらラルタの納屋にいた、と。
石の向こうに出たのは父親だった。
『……誰だ』
「父さん。ロズだ」
石の向こうが黙った。
長い沈黙のあと、返ってきた声は低かった。
『……化物の術か』
「父さん、違う。俺だ。裏の畑の、石垣の下に銭を隠してた。父さんに内緒で。三枚——」
『黙れ』
震えていた。怒りではなかった。
怯えだった。
『息子は死んだ。役場が言わんでもわかっとる。戦に取られて三年、文の一枚も来んのだ。死んどるんだ』
「父さん」
『死んだ者の声を石ころが喋る。そんなもんは、まともなもんじゃない。……うちに化物の道具を持ち込むな。二度と騙りに来るな』
ロズの口が開いたまま止まっていた。
納屋の火が、爆ぜた。
ケンジは動かなかった。
決めた枠の中に、この場面で言える言葉はなかった。
ロズが目を閉じた。
それから静かに言った。
「……そうか。わかった」
息を一つ吸った。
「なら、死んだと思っててくれ。その方がいい。……達者でな、父さん」
石が静かになった。
ロズは石を布に包んでケンジに返した。手つきは丁寧だった。
「いいんです。あれで」
誰も何も言わないうちに先に言った。
「親父は、昔からああなんです。目に見えんもんは、全部化物なんです。……怯えて、生きてきた人だから」
毛布に戻って壁を向いた。
その背中にかける言葉をケンジは持っていなかった。
帳面の、ロズの家の欄に印をつけた。
丸ではない印を。
◇
雪が、根雪になった。
ドッズは薪売りとして村々を回り続けた。冬は薪が売れる。怪しまれない季節だった。
十日目の夜、同じ耳の石が道のことではない報せを一つだけ運んだ。
決めた枠の、ぎりぎり内側の言葉だった。
『黒い布が出てる。三軒』
喪の布だった。
役場の紙が、村に届き始めていた。
◇
翌日、本陣との石にアデルの声が来た。
『書き換えが、始まった』
いつも通り乾いた声だった。
『二十人全員だ。行方不明から戦死へ。役場から紙が行く。扶持は、月が変われば切れる』
「早いですね」
『年の締めだ。帳簿を綺麗にしたい者が、上にいる』
紙一枚で人が死ぬ。十年、その紙を書いてきた男の声は平らなままだった。ただ、少しだけ間を置いて付け足した。
『……ダルスの家は』
「昨日、喪の布が出たそうです。三軒のうちの一軒だと思います」
石の向こうで、短い息の音がした。
『見事な婆さまだ』
それだけ言って切れた。
息子が生きていると知りながら、役場の紙を受け取り、布を出し、死んだ息子の母を演じている。
あの夜、声を殺して泣いた母親が、今は村中の目の前で正しく泣いてみせている。
ケンジは帳面のダルスの家の丸を見た。
丸の意味が、重くなっていた。
その夜だった。
奥の部屋で、返された石が震えた。
ケンジは手を止めた。
ロズの家の石だった。布に包まれて、棚に置かれたままの石。こちらからは誰も呼んでいない。
ケンジは納屋に走った。
ロズは起きていた。石を見せると顔から血の気が引いた。
受け取るまでに長い時間がかかった。
蓋を開けた。
『……ロズかい』
女の声だった。
父親ではなかった。
『ロズ。ロズなんだね。……母さんだよ』
「……かあ、さん」
『紙が、来た』
声が揺れていた。
『あんたが死んだって、紙が来たんだよ。役場の男が置いてった。父さんはそれを見て、一晩口をきかなかった。それで、朝になって言ったんだ』
息を吸う音がした。
『——石は、どこだ、って』
「……親父が?」
『あの晩、あたしが隠しといたんだ。捨てろって言われたけど捨てられなくてね。……父さんはね、ロズ。紙を見て、気づいたんだよ。死んだ人間の声なら化物の術かもしれん。けど、国が今ごろ死んだと言ってよこすなら——あの晩の声は、生きとる人間の声だったんだ、って』
ロズの手が震え始めていた。
石の向こうで音がした。石が誰かの手に渡る音だった。
『……ロズか』
父親だった。
「……父さん」
長い沈黙が、あった。
あの晩と同じ沈黙だった。でも、中身が違うことは、石越しでも、わかった。
『……生きとるんだな』
「生きてる」
『そうか』
それきり父親は黙った。何かを言おうとして、言えずにいる息づかいだけが続いた。
謝る言葉を、この父親は持っていない。
ロズが言った通りの、怯えて生きてきた人だった。
代わりに出てきた言葉は、これだった。
『……税は、毎年きっちり取り立てに来よった。息子は、紙切れ一枚か』
低い声だった。
怯えは、消えていた。
『生きとるお前を、死んだことにして、扶持を切って、それで終いか。国っちゅうのは、そういうもんか』
「父さん」
ロズが石を握り直した。
「動くな。何もするな。紙は、受け取れ。葬式も、出せ。……頼む。今は、死んだままの息子でいさせてくれ」
『……いつまでだ』
「終わるまで」
「……俺も、終わらせる側にいる。だから、待っててくれ」
父親は、しばらく黙った。
それから言った。
『……なら、はよう、しろ』
石が、切れた。
◇
ロズは、石を握ったまましばらく動かなかった。
それからケンジを見た。
「……印、つけ直してもらえますか」
ケンジは帳面を開いた。
ロズの家の欄の、丸ではない印の横に丸をつけた。
二つの印が並んだ。信じなかった印と、信じた印。
消さずに両方残した。
これが、まだら、ということだった。
一度で届く家。
届かない家。
国の紙が届いて、初めて声が本物になる家。
アデルの言った通りだった。国がつけた傷を、こちらが塞ぐ前に、誰が傷をつけたのかを、家族が見る。
役場の紙は二十人を殺した。そして、殺したことで、石の声を証明してしまった。
ケンジは帳面を見下ろした。
丸が、五つ。
そのうちの一つは、怒りの形をしていた。
はよう、しろ。
あの父親の声を、ケンジは思い出していた。
怯えて生きてきた男の、怯えの消えた声を。
これが、育つ。
雪の音のしない夜だった。窓の外で、雪だけが、降り続いていた。




