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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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第六十四話:最初の声

夜のラルタは、川の音だけだった。

納屋に、火が一つ。


ケンジとシバは壁際にいた。トールがいつもの椀を配り終えて隅に座った。


真ん中にダルスがいた。


奥の男。シバの昔の同輩。膝を抱えて死を受け入れていた男は、この十日で髭を剃り、椀の飯を残さなくなっていた。


その手に石があった。

今夜は繋がっている石だった。



ドッズが村に着いたのは、日暮れだった。

同じ耳の石が、短くそれを伝えてきた。


『着いた』


それだけだった。決めた通りだった。あの石で言っていいのは、道のことだけ。誰の村か、何をしに来たかは、一言も乗せない。


段取りはこうだった。

ドッズは薪売りとして村に入る。

ダルスの生家に薪を届け、家の者だけになった時に石を渡す。

渡したらその夜のうちに村を出る。

石を受け取った家族が蓋を開けるのを、こちらは待つ。


「言っていい言葉は、決めた通りです」


ケンジは静かに言った。念を押すのはこれで最後にすると決めていた。


生きている。動くな。急ぐな。人前では今まで通りに。


それと、家族にしかわからない話。

ダルスは頷いた。この十日、繋がっていない石に向かって何度も練習した言葉だった。

納屋の十九人は誰も寝ていなかった。

毛布の下で、壁際で、みんな起きていた。見ていないふりをして、全員が真ん中の石を見ていた。



石が、震えた。

ダルスの手が跳ねた。


石の向こうから音がした。床の軋み。布の擦れる音。誰かが石を持って、座った音。

それから、声がした。


『……もし』


老いた、女の声だった。

低く、硬かった。警戒している声だった。

見知らぬ薪売りが置いていった、得体の知れない石。

それを、それでも捨てずに蓋を開けた声だった。


ダルスの口が開いた。

出なかった。

あの夜と同じだった。開いて、閉じて、もう一度、開いた。


「……母さん」

石の向こうが静かになった。

長い静けさだった。


『……誰だい』


「俺だ。ダルスだ」


『……』


「母さん、俺だ」


『やめとくれ』


声が震えていた。


『あの子は、戦に……うちの子の名前を使って、何の得があるんだい。年寄りをからかうのも、大概に——』


「母さん」

ダルスは目を閉じた。

それから言った。


「赤芋の、煮物」

石の向こうの息が、止まった。


「母さんの、赤芋の煮たやつ。ガキの頃、嫌いだって、友達の前で強がって。恥ずかしかったんだ、母さんのが一番だって言えなくて。……あれ、ごめんな」


声が震え始めていた。

「……嘘だった。ずっと、好きだった。兵隊の飯を食うたびに、思い出してた。あれが食いてえなって、ずっと」


『——っ』


石の向こうで、何かを押さえる音がした。

口を両手で塞いだ音だった。

嗚咽が指の間から漏れていた。

押さえても、押さえても、漏れていた。


納屋の火が、爆ぜた。

十九人の誰も、動かなかった。


『……生きて』


途切れ途切れだった。


『生きて、るのかい』


「生きてる」


『ほんとうに』


「生きてる。飯も、食ってる。……母さん、声を、抑えてくれ」

ダルスの声が、変わった。


「隣に、聞こえる」


石の向こうの嗚咽が、ぐ、と沈んだ。

沈んで消えなかった。布の中で殺した声だけが続いていた。

息子が生きていた。

それを泣き声一つ、外に漏らせない。

それがあの国の村だった。


「ミナは」

ダルスが聞いた。


『……寝てるよ』


「そうか」


『起こすかい』


ダルスは答えなかった。

膝の上の拳が握られていた。


石の向こうに、娘がいる。

声をかけられる。おとう、と返ってくるかもしれない。


長い間のあとダルスは言った。


「……起こさないでくれ」


『ダルス』


「子供は隠しごとができない。父ちゃんの声を聞いたなんて、村で一言でも言ったらそれで終わりだ」

声が掠れていた。


「寝てる息だけ、聞かせてくれ」


石の向こうで衣擦れの音がした。足音がそっと移った。

それから、届いた。

小さな、寝息だった。

規則正しく、浅く、続いていた。


ダルスは、石を両手で包んで額に当てた。目を閉じて動かなかった。

火の音と、川の音と、石の向こうの寝息だけが、納屋にあった。


納屋の戸の隙間から、白いものが見えた。


雪だった。


音もなく降り始めていた。石の向こうの村にも同じ空があるはずだった。娘の寝ている家の屋根にも、今、同じ雪が降っている。

どれだけそうしていたか、わからなかった。


「……母さん」

ダルスが顔を上げた。


「頼みがある」


『お言い』


「俺の葬式をしてくれ」

石の向こうが黙った。


「役場から戦死の紙が来る。来たら受け取ってくれ。泣いてくれ。今まで通り死んだ息子の母親でいてくれ。ミナにも、まだ言わないでくれ」


『……いつまでだい』


「わからない。でも、終わる。終わらせようとしてる人たちが、いる。それまで、動くな。急ぐな。待っててくれ」


ダルスは、息を吸った。


「帰る」


あの夜、繋がっていない石に言った言葉だった。

今夜は、届いていた。


「必ず、帰る」


石の向こうで、長い、長い息の音がした。泣くのをやめた音だった。母親の声が返ってきた。

もう震えていなかった。


『……芋、煮て待っとるよ』

石が、静かになった。



ダルスはしばらく動かなかった。

石を包んだまま、うつむいていた。

納屋の中で、最初に音を立てたのは、火の近くの若い男だった。

毛布から体を起こした。


「……なあ」

掠れた声だった。


「俺の村にも、行けるのか。その石は」


壁際からもう一人。

「うちは、山の反対だ。遠い。……遠いが」


「順番はあるのか」


声が続いた。一つまた一つ。十日間、毛布の下で息を潜めていた声だった。

ケンジは帳面を開いた。


「一人ずつ、聞かせてください。村の名前と、家族の話を」


シバが地図を広げた。

夜はまだ長かった。



明け方、納屋を出た。

雪は上がっていた。ラルタの家々が、屋根を白くして沈んでいた。


シバが隣で言った。

「一つ目が、届いたな」


「はい」


「……二つ目からは、こうはいかん。今夜のは、一番いい形だ。息子を信じたい母親が、向こうにいた」

シバは霧の先を見ていた。


「信じない家も、出る。石を、悪魔の道具だと思う家もある。届けた声が、届かないことも、ある」


「はい」

ケンジは頷いた。


わかっていた。まだらでいい、とアデルも言っていた。それでも、まだらの意味を、これから一つずつ見ていくことになる。


「でも」

ケンジは川の向こうを見た。


「今夜、一人、帰る場所ができました」


シバは何も言わなかった。

雪の乗った岸の間を、川だけが、黒く流れていた。


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