第六十四話:最初の声
夜のラルタは、川の音だけだった。
納屋に、火が一つ。
ケンジとシバは壁際にいた。トールがいつもの椀を配り終えて隅に座った。
真ん中にダルスがいた。
奥の男。シバの昔の同輩。膝を抱えて死を受け入れていた男は、この十日で髭を剃り、椀の飯を残さなくなっていた。
その手に石があった。
今夜は繋がっている石だった。
◇
ドッズが村に着いたのは、日暮れだった。
同じ耳の石が、短くそれを伝えてきた。
『着いた』
それだけだった。決めた通りだった。あの石で言っていいのは、道のことだけ。誰の村か、何をしに来たかは、一言も乗せない。
段取りはこうだった。
ドッズは薪売りとして村に入る。
ダルスの生家に薪を届け、家の者だけになった時に石を渡す。
渡したらその夜のうちに村を出る。
石を受け取った家族が蓋を開けるのを、こちらは待つ。
「言っていい言葉は、決めた通りです」
ケンジは静かに言った。念を押すのはこれで最後にすると決めていた。
生きている。動くな。急ぐな。人前では今まで通りに。
それと、家族にしかわからない話。
ダルスは頷いた。この十日、繋がっていない石に向かって何度も練習した言葉だった。
納屋の十九人は誰も寝ていなかった。
毛布の下で、壁際で、みんな起きていた。見ていないふりをして、全員が真ん中の石を見ていた。
◇
石が、震えた。
ダルスの手が跳ねた。
石の向こうから音がした。床の軋み。布の擦れる音。誰かが石を持って、座った音。
それから、声がした。
『……もし』
老いた、女の声だった。
低く、硬かった。警戒している声だった。
見知らぬ薪売りが置いていった、得体の知れない石。
それを、それでも捨てずに蓋を開けた声だった。
ダルスの口が開いた。
出なかった。
あの夜と同じだった。開いて、閉じて、もう一度、開いた。
「……母さん」
石の向こうが静かになった。
長い静けさだった。
『……誰だい』
「俺だ。ダルスだ」
『……』
「母さん、俺だ」
『やめとくれ』
声が震えていた。
『あの子は、戦に……うちの子の名前を使って、何の得があるんだい。年寄りをからかうのも、大概に——』
「母さん」
ダルスは目を閉じた。
それから言った。
「赤芋の、煮物」
石の向こうの息が、止まった。
「母さんの、赤芋の煮たやつ。ガキの頃、嫌いだって、友達の前で強がって。恥ずかしかったんだ、母さんのが一番だって言えなくて。……あれ、ごめんな」
声が震え始めていた。
「……嘘だった。ずっと、好きだった。兵隊の飯を食うたびに、思い出してた。あれが食いてえなって、ずっと」
『——っ』
石の向こうで、何かを押さえる音がした。
口を両手で塞いだ音だった。
嗚咽が指の間から漏れていた。
押さえても、押さえても、漏れていた。
納屋の火が、爆ぜた。
十九人の誰も、動かなかった。
『……生きて』
途切れ途切れだった。
『生きて、るのかい』
「生きてる」
『ほんとうに』
「生きてる。飯も、食ってる。……母さん、声を、抑えてくれ」
ダルスの声が、変わった。
「隣に、聞こえる」
石の向こうの嗚咽が、ぐ、と沈んだ。
沈んで消えなかった。布の中で殺した声だけが続いていた。
息子が生きていた。
それを泣き声一つ、外に漏らせない。
それがあの国の村だった。
「ミナは」
ダルスが聞いた。
『……寝てるよ』
「そうか」
『起こすかい』
ダルスは答えなかった。
膝の上の拳が握られていた。
石の向こうに、娘がいる。
声をかけられる。おとう、と返ってくるかもしれない。
長い間のあとダルスは言った。
「……起こさないでくれ」
『ダルス』
「子供は隠しごとができない。父ちゃんの声を聞いたなんて、村で一言でも言ったらそれで終わりだ」
声が掠れていた。
「寝てる息だけ、聞かせてくれ」
石の向こうで衣擦れの音がした。足音がそっと移った。
それから、届いた。
小さな、寝息だった。
規則正しく、浅く、続いていた。
ダルスは、石を両手で包んで額に当てた。目を閉じて動かなかった。
火の音と、川の音と、石の向こうの寝息だけが、納屋にあった。
納屋の戸の隙間から、白いものが見えた。
雪だった。
音もなく降り始めていた。石の向こうの村にも同じ空があるはずだった。娘の寝ている家の屋根にも、今、同じ雪が降っている。
どれだけそうしていたか、わからなかった。
「……母さん」
ダルスが顔を上げた。
「頼みがある」
『お言い』
「俺の葬式をしてくれ」
石の向こうが黙った。
「役場から戦死の紙が来る。来たら受け取ってくれ。泣いてくれ。今まで通り死んだ息子の母親でいてくれ。ミナにも、まだ言わないでくれ」
『……いつまでだい』
「わからない。でも、終わる。終わらせようとしてる人たちが、いる。それまで、動くな。急ぐな。待っててくれ」
ダルスは、息を吸った。
「帰る」
あの夜、繋がっていない石に言った言葉だった。
今夜は、届いていた。
「必ず、帰る」
石の向こうで、長い、長い息の音がした。泣くのをやめた音だった。母親の声が返ってきた。
もう震えていなかった。
『……芋、煮て待っとるよ』
石が、静かになった。
◇
ダルスはしばらく動かなかった。
石を包んだまま、うつむいていた。
納屋の中で、最初に音を立てたのは、火の近くの若い男だった。
毛布から体を起こした。
「……なあ」
掠れた声だった。
「俺の村にも、行けるのか。その石は」
壁際からもう一人。
「うちは、山の反対だ。遠い。……遠いが」
「順番はあるのか」
声が続いた。一つまた一つ。十日間、毛布の下で息を潜めていた声だった。
ケンジは帳面を開いた。
「一人ずつ、聞かせてください。村の名前と、家族の話を」
シバが地図を広げた。
夜はまだ長かった。
◇
明け方、納屋を出た。
雪は上がっていた。ラルタの家々が、屋根を白くして沈んでいた。
シバが隣で言った。
「一つ目が、届いたな」
「はい」
「……二つ目からは、こうはいかん。今夜のは、一番いい形だ。息子を信じたい母親が、向こうにいた」
シバは霧の先を見ていた。
「信じない家も、出る。石を、悪魔の道具だと思う家もある。届けた声が、届かないことも、ある」
「はい」
ケンジは頷いた。
わかっていた。まだらでいい、とアデルも言っていた。それでも、まだらの意味を、これから一つずつ見ていくことになる。
「でも」
ケンジは川の向こうを見た。
「今夜、一人、帰る場所ができました」
シバは何も言わなかった。
雪の乗った岸の間を、川だけが、黒く流れていた。




