第六十三話:同じ耳
シバが、カウンターに紙を置いた。
名前が四つ並んでいた。
一番上に、ドッズ、とあった。
「運び手だ」
それだけ言った。
登録の紙の束から、シバが十日かけて選んだ四人だった。全員、元捕虜。全員、川向こうの生まれ。
「基準は、前に言った」
土地の顔。歩ける足。閉じた口。
「ドッズさんは」
ケンジは一番上の名前を見た。薪割りの男。登録の日から、口をきいたのを数えるほどしか見ていない。
「村が、道の上にある」
シバは地図を広げた。国境の向こう、川から二つ目の谷に、小さな印を打った。
「生まれた村だ。山向こうの三つの村に、顔が利く。薪を売って歩いていた男だ。山の歩き方は、俺より知っているかもしれん」
「口は」
「あんたも見ただろう。十日で、何回聞いた」
ケンジは思い返した。
二回だった。
◇
経路の設計に、三日かけた。
シバが地図に線を引き、ケンジが帳面に暦を書いた。
「兵は、道にいない。村にもいない」
シバが言った。
「怖いのは、巡回だ。取り立ての隊が、季節ごとに回る。秋の取り立ては、終わったばかりだ。次は、雪解けの後。それまでが、窓だ」
「窓は、冬の間ずっと、ですか」
「道の上はな。村の中は違う」
シバの指が、村の印を叩いた。
「村には、目がある。兵の目じゃない。隣の目だ。密告すれば、税が軽くなる。だから、村には長居しない。入るのは夜。出るのも夜。昼は山だ」
巡回の周期。村に入る刻限。山で越す場所。沢の水量。
線が少しずつ増えていった。地図の上に、人が生きて通れる道ができていった。
「一つ、足りない」
三日目の夜、シバが言った。
「向こうに渡った運び手が、生きているかどうか。こちらには、戻るまでわからん」
ケンジはペンを止めた。
その通りだった。魔石のペアは、片方をベルタに、片方を捕虜の家族への繋ぎに使う。運び手自身の分は、ない。
「巡回の予定が、ずれることがある。取り立てが早まる。雪で道が変わる。そういう時、渡った男に、報せる手がない」
シバの声は平らだった。
「伝令は、それで死ぬ。予定が変わったことを、知らされずに」
知っている声だった。
◇
翌朝、魔石の作業場に行った。
ジンが布の上に石を並べていた。ペア通信の練習用。十二組。ラルタの二十人に教えた分の、続きだった。
事情を話すと、ジンは石を一つ手に取った。
中魔石。子供の拳ほどの大きさがある。
しばらく、耳の横で転がしていた。
それから言った。
「これ、三つに割ったらどうなるんですか」
「三つ?」
「二つに割ると二つが繋がるんですよね。なら三つに割ったら、三つ繋がりませんか」
「駄目です」
奥から声がした。
ベックだった。鑑定の手を止めずに言った。
「波長の強さは石の質と大きさで決まります。割る数を増やせば、一片が小さくなる。小さくなれば、届く距離が縮む。ただでさえ国境までぎりぎりの距離を、わざわざ縮めてどうするんです」
正論だった。ベックの正論はいつも正しい。
ジンは石を置かなかった。
「距離は、縮むんですね」
「縮みます」
「でも、三つは繋がるんですね」
ベックの手が止まった。
「……理屈の上では」
「試していいですか」
◇
割った。
ベックが鏨を当て、三つに割った。断面が同じ光り方をした。
一つをジンが持ち、一つをトールが持って街の外れまで走り、一つをケンジが持った。
ジンが石に口を寄せた。
「聞こえますか」
ケンジの手の中で、石が震えた。ジンの声がした。
同時に、トールの声もした。
『聞こえます! あ、ケンジさんの声も聞こえます!』
「トールさん、僕はまだ何も言ってません」
『え、でも息の音が』
ジンが石から顔を上げた。目が広がっていた。
「……全部、聞こえてます。三つとも。誰かが喋れば、残りの二つ両方に届いてます」
ベックが石を取り、耳に当て、しばらく黙った。
「距離は縮んでいます。半分近く。私の言った通りです」
それから、不本意そうに付け足した。
「……ですが、三点が同時に繋がるとは、言っていませんでした。——ただし」
ベックが石を置いた。
「中魔石を三つに割れば、国境には届きません。実運用には、もっと大きい石が要ります」
ケンジは蔵から布に包んだ石を出した。両手で抱えるほどの大きさがあった。遠征で狩った大物の、ギルドの蔵で一番大きい石だった。
「大きい石は、割っても質が落ちにくいんでしたね。これなら三つに割って、なお国境の向こうまで届く」
「届きます。ですが、この大きさの石はそう獲れません」
数を頼れない使い方だった。
◇
夕方、シバに見せた。
シバは石を三つ、掌に並べて長いこと見ていた。
「これは」
低い声だった。
「伝令が三人、同じ耳を持つのと、同じだ」
ケンジはシバを見た。
「伝令は、一人ずつしか運べない。先の者が知ったことを、後の者はまだ知らない。その差で、人が死ぬ。予定が変わったのに、変わったと知らされずに、変わる前の予定の場所に入って、死ぬ」
シバの指が、石を一つずつ押さえた。
「これなら、同じ時に、同じことを、三人が知る。差が、ない」
ベルタに一つ。国境手前の、巡回を見張る隠れ場所に一つ。渡ったドッズに一つ。
「巡回がずれたら、窓の見張りが言う。ドッズは、渡る前でも、渡った後でも、それを聞ける」
シバは石を布の上に、そっと戻した。
「……これが欲しかった。十五年前に」
誰に言うでもなかった。
◇
「ただ、弱点があります」
ケンジは言った。
「三つ繋がっているということは、石が一つ、敵に渡れば、三つ全部、聞かれます。ペアより、漏れた時が大きい」
シバが頷いた。
「だから、決めます。この石で言っていいのは、道のことだけ。巡回、天気、窓が開いたか閉じたか。それだけです」
ケンジは帳面に書いた。
名前は言わない。村の名も言わない。誰の家族か、なんの作戦か、一言も。
「時間と、合図だけ。石が敵に渡っても、聞こえるのは天気の話だけ、というように」
「網の本線には、使わないんだな」
「使いません。これは、運び手を死なせないためだけの石です」
シバがケンジを見た。
それから、ふ、と息だけで笑った。
「……あんたはいつも、先に穴の話をするな」
◇
三日後の夜明け前、ドッズが発った。
荷は薪売りのなりだった。背負子に薪、腰に鉈。どこから見ても、山の男だった。薪の束の奥に、割った石が一つ、包んで埋めてあった。
見送りは、ケンジとシバだけだった。
ドッズは何も言わなかった。ケンジに小さく頭を下げ、霧の中へ入っていった。
◇
その夜、ギルドの奥の部屋で、石が震えた。
窓の見張りからだった。
『巡回だ。取り立ての隊が、街道に出てる。予定より早い。谷の口が、塞がってる』
ケンジとシバは石を見た。
石の向こうで、もう一つの息づかいがそれを聞いていた。
『……日が変わるまで、待て』
見張りが言った。
『隊が抜けたら、報せる』
返事はなかった。
ただ、石の向こうの息が少しだけ深くなった。山のどこかで、薪売りの男が腰を下ろしたのがわかった。
半日石は静かだった。
夜半過ぎ、見張りの声がした。
『抜けた。窓が開いた』
それきりまた静かになった。
ケンジは石の前から動けなかった。シバも動かなかった。二人とも何も言わなかった。言っていいのは道のことだけだと、決めたのは自分たちだった。
夜明けの少し前、石が震えた。
『……着いた』
ドッズの声だった。初めて聞く、石越しの声だった。
シバが長い息を吐いた。
窓の外が、白み始めていた。




