第六十二話:それぞれの持ち場
夜のギルドは静かだった。
昼の列も、依頼の声も引いて、灯りだけが残っていた。
執務室に、四人がいた。
ガド。レイモンド。イレーナ。そしてケンジ。
机の上に、帳面と、地図。
「揃いましたね」
レイモンドが言った。よそ行きの声ではなかった。
ケンジは帳面を開いた。
「川向こうで決めてきたことを、話します。全部」
◇
戦の終わった夜、塀の上でイレーナに言った。家族を逃がして、時を待って、あの一人を終わらせるまで、と。
あの時は、方角だけだった。
今夜は、道の話だった。
ケンジは順に話した。
家族だけを逃がす案に、穴があったこと。家族が消えれば村が気づき、村から本国に漏れること。
「全部の村は、救えません。逃がす、というやり方の限界です」
だから、倒す。ヴァルクを。連座も、支給打ち切りも、あの男が作った仕組みごと。
倒し方も話した。本国はいずれ、行方不明の兵を戦死に書き換える。書き換えれば、家の扶持が切れる。それを、止めない。書かせる。切らせる。
「切られた家族に、本人の声を届けます。生きている、と。国が死んだと書いた息子の、生きた声を」
悲しみが、怒りに変わる。怒りの向きが、ヴァルクに揃う。
捕虜には選ばせる。ガルディアへの亡命か、国に残って立ち上がるか。立ち上がる者が、同じ境遇の兵に声を届ける。一人が二人に。二人が四人に。
「最初は、ラルタの二十人です。橋で流されて、どこにも数えられていない人たちなので」
話し終えるまで、誰も口を挟まなかった。
◇
「一つ、教えてほしいことがあります」
ケンジは言った。
「ランバルトという国の、中身です。首を挿げ替える相手のことを、僕はまだ、捕虜から聞いた分しか知りません。皆さんは——」
言いかけて、少し迷った。この部屋の誰が、どこまで知っているのか。
「俺たちの故郷は」
ガドだった。
「三十年前、ランバルトに飲まれた」
短かった。それ以上の説明はなかった。レイモンドが目を伏せた。イレーナは動かなかった。
ケンジは頷いた。聞き返さなかった。聞いていい重さではないことだけ、わかった。
「あの頃のやり口なら、知っています」
レイモンドが言った。よそ行きの柔らかさが、声から抜けていた。
「飲んだ街に、兵は置かないんです。管理役を一人据えて、駐屯を二、三十。それで町が一つ回る。逆らいそうな力のある人間だけ、先に——潰す」
一拍、置いた。
「……ただ、私たちが知っているのは、その頃までです。今のランバルトは、知りません」
「今は、こうです」
ケンジは帳面を繰った。ミーデルと続けてきた、捕虜二百五十人の聞き取りの名簿だった。
「村には、兵がいません。一人も。ある捕虜は言っていました。うちの村に兵はいない、来るのは秋の取り立ての時だけだ、と。徴税と徴兵の巡回が、季節ごとに回ってくるだけです」
「兵を置かずに、どうやって村を押さえる」
ガドが聞いた。
「名簿です。村の若い男は、徴兵で軍に取られています。息子が軍にいる限り、村は逆らえない。家族が村にいる限り、兵は逃げられない。互いが、互いの人質です」
執務室が静かになった。
「もう一つ。二百五十人に聞いて、外の戦の話が出たのは、ここだけでした。ランバルトが今、外に兵を出しているのは、ガルディアだけです。飲んだ土地の維持と取り立てに、兵のほとんどが張りついている。だから、本隊が二百だった。あれが、出せる全部だったんだと思います」
「……飲みすぎたか」
ガドが低く言った。
「はい。新しく飲む力は、もうありません。ガルディアは、あの男の、最後の賭けです。だから引けないし、負けたことも認められない」
ケンジは帳面を閉じた。
「兵の国に見えて、帳面の国です。名簿と、取り立てと、恐怖で立っている。支えはそれだけです」
◇
最初に動いたのは、レイモンドだった。
「……整理させてください」
指を一本、立てた。
「それは、ガルディアが、隣国の首の挿げ替えに、片足を入れる話です」
「片足では、ありません」
イレーナだった。
「両足です」
平らな声だった。
「軍の内側に離反の網を張り、亡命者を受け入れ、独裁者を孤立させる。露見すれば、開戦の口実に使われます。保守派が知れば、それだけで改革派ごと潰しに来ます」
「では——」
「ですから、王都側は、私が持ちます」
イレーナは地図を見ていた。
「表は、捕虜の人道と、亡命の受け入れ。戦後の送還の枠組み。そこまでなら、条文で組めます。裏の線は、改革派の奥にだけ通します。セレスにどこまで見せるかは、私が測ります」
レイモンドが小さく息を吐いた。
「……この部屋の外には、出さない、ということですね」
「出しません」
◇
「一つ、聞く」
ガドだった。会議が始まってから、初めての声だった。
「亡命を選んだ者は、どうなる」
「王都で、受けます」
イレーナが答えた。
「住む場所と、仕事と。国を捨てた人間が、どうやって王都で生きていくか——」
少しだけ、声が訛った。
「……それなら、私が、いちばんよく知っていますから」
ガドがイレーナを見た。
イレーナは地図から目を上げなかった。
それ以上、誰も何も言わなかった。
ケンジにはその沈黙の中身はわからなかった。ただ、この部屋には、ケンジの知らない年月が流れていることだけがわかった。
◇
「ケンジ」
ガドが言った。
「はい」
「長くなるぞ。逃がして、書かせて、届けて、育てる。冬をまたぐ。年もまたぐかもしれん」
「はい」
「その間、街は回すんだな。冬支度も、捕虜の口も」
「回します。ミーデルさんの数字と、マルコさんの川で」
ガドがしばらく黙った。
それから言った。
「……終わらせろ」
短かった。
命令のようで、命令ではなかった。頼みのようで、頼みでもなかった。ケンジには測れない長さの何かが、その一言に入っていた。
「終わらせます」
ケンジは言った。
会議が終わった。
◇
翌朝のカウンターに、また元捕虜が来た。
「あの、ラグが、依頼を受けたと聞いて」
レフといった。捕虜名簿で見た名前だった。
「登録すれば受けられます。捕虜も、元捕虜も、関係ありません」
レフの手は、ラグの時ほど震えていなかった。
二人目は少し楽になる。同じ立場の誰かが、先に一歩踏んでいるから。
昼までに三人が登録した。
一人は「ラグが行くなら」と言った。一人ははっきり「金が要る」と言った。湯にも入りたいし、飯も食いたい。正直な男だった。
もう一人は、何も言わなかった。ただ名前を書いて、薪割りの依頼を一つ取っていった。戦うのではなかった。黙って書いて、黙って出ていった。
依頼の行き先は二つに分かれ始めた。ラルタの魚と蟹を運ぶ定期便の護衛。それと街の中——アンピークの、保存食を作る手。
戦える者だけが動いたのではなかった。
◇
昼過ぎ定期便の荷と一緒に、シバが戻った。
「段取りは、ついた」
それだけ言って、カウンターの端に立った。
二十人への魔石の手ほどきと、経路の下見。ラルタでの報告は短かった。シバの報告はいつも短い。
そのまま帰らなかった。
カウンターの端で、登録に来る元捕虜を黙って見ていた。
夕方近くぽつりと言った。
「あの薪割りの男、名前は」
帳面を繰った。
「ドッズさん、です」
シバは頷いた。それだけだった。
「……運び手の、相談でしたよね」
ケンジは言った。
「今からするのか」
「いえ。順番の相談は、また改めて。ただ——見てるんですよね。今日ずっと」
シバは答えなかった。
代わりに言った。
「運ぶのに要るのは三つだ。土地の顔。歩ける足。それと、閉じた口」
登録の紙の束を目で指した。
「あの中にいる。まだ選ばない。選ぶのは先だ。見るのは、今からだ」
◇
その日の夕方、ケンジはヴェタ家を銭湯に招いた。
来たのは二人だった。ジャウとムウ。
「ソルさんたちは」
「畑と、馬の世話がある。若いのに任せてきた」
ジャウが言った。白い眉の下の目が笑っていた。
「ティエが身重でな。あれを置いて、皆で出るわけにもいかん。だから、年寄り二人で、ありがたく」
「来てくださって、こちらこそ」
ケンジは頭を下げた。
戦の礼を言いたかった。ずっと。橋の作戦で、魔馬で。ヴェタ家は幾度も、戦に力を貸してくれた。でも、言葉で並べるより、湯に浸かってもらう方が、ヴェタ家には伝わる気がした。
◇
男湯でジャウと並んだ。
湯が熱かった。ジャウが長い息を吐いた。
「……効くなあ」
「炭で沸かしてます。ヴェタ家の」
「ほう」
ジャウが湯を手ですくった。
「うちの炭が、こうして、湯になっとるか」
「鍛冶にも屋台にも。ベルタはヴェタ家の炭で回ってます」
ジャウはしばらく何も言わなかった。湯気の向こうで、目を細めていた。
「わしらは、山で炭を焼くだけの一族でな」
ぽつり、と言った。
「細々と暮らしてきた。里の外に出ることもなく。焼いた炭を少し、里で分けて。それでじゅうぶんだと思っとった」
「それが、あんたが来て。炭の使い道を、いくつも見つけてくれた。おかげで、うちの炭が——鍛冶に、屋台に、こうして、湯にまでなっとる」
湯が、静かに揺れていた。
「役に立てる、というのは、いいものだな」
ケンジは答えなかった。
答える言葉が、うまく見つからなかった。ただ、湯が二人の間で揺れていた。
◇
夜、長屋に戻って帳面を開いた。
書くことは多くなかった。
登録、今日までで十二人。
シバ、帰還。運び手は、これから。
ヴェタ家に、礼。
書きながら思った。
昨夜の執務室で、持ち場が決まった。
イレーナさんは王都を。
アデルさんは盤面を。
シバさんは道を。
ヴォルスさんは隊を。
自分は——受付を。目の前に来た人の名前を、正しい紙に書くことを。
薪を割る男も、保存食を作る手も、湯を沸かす炭も。
戦う形をしていないものが、それぞれの持ち場で、冬と、戦の続きを支えようとしていた。
ケンジは帳面を閉じた。
明日も、やることがあった。




