第六十話:練習
舟はベルタへまっすぐ向かわなかった。
マルコが櫂の向きを変えた。川を斜めに横切って、下流へ。
ラルタの方へ。
会議で決めた。二十人を第一例に。決めた足でその二十人に会いに行く。舟はもう出ていた。渡りに船、とはこういうことを言うのだと思った。
ケンジは本陣の岸を振り返った。
アデルがまだ立っていた。岸辺に一人。こちらを見ていなかった。手元の紙を見て、ラルタの方角をときどき見た。舟が離れても追ってこなかった。
来ない、と自分で決めた背中だった。
霧は晴れていた。冬の川が低く流れていた。
シバは船の先に座っていた。下流を見ていた。
◇
ラルタは静かな村だった。
橋が落ちた後、一度は逃げた村人が戻ってきていた。家を直す音があちこちでしていた。その音の届かない、村の外れに納屋があった。
中は暗かった。
火が一つ。毛布がいくつも。その下に人がいた。
二十人。
数えなくてもわかった。動く者が少なかったからだ。横になったまま起きない者。壁に背を預けて天井を見ている者。痩せて、頬がこけて、川に長く浸かった手がまだ白かった。
トールがいた。昨日送った。椀を持って一人ずつ回っていた。
「ケンジさん」
トールが小声で言った。
「飲む人と、飲まない人が」
「飲まない人は」
「……生きるのを、やめてる感じが、します」
世話を焼くのが性に合っている男だった。その男が言葉を選んでいた。
ケンジは納屋の中を見た。
飲まない者の目はこちらを見ていなかった。助けられた、という顔ではなかった。なぜ助ける、という顔ですらなかった。ただ何も映していなかった。
死を、半分、受け入れた目だった。
◇
シバが納屋に入ってきた。
足が止まった。
二十人を見ていた。一人ずつ。ゆっくり。
その目が一番奥の男で止まった。
壁に背を預けて、膝を抱えている男だった。顔を上げなかった。痩せて、髭が伸びて、歳が読めなかった。
シバがその前まで歩いた。
屈んだ。
男が顔を上げた。
二人が見合った。長いあいだ、何も言わなかった。
それから男の口が動いた。
「……シバ、か」
「ああ」
「お前も、流されたのか」
「捕まった。お前は、流れたか」
「流れた」
ケンジは少し離れてそれを見ていた。
二人の間に流れているものに、ケンジは入れなかった。同じ橋を、同じ川を、別々に生き延びた者にしかわからない何かだった。経路も、作戦も、ここには関係なかった。
入らずに待った。
◇
シバがケンジの方を見た。
ケンジは納屋の真ん中に立って、二十人に言った。飾らずに。
「ベルタの受付です。武器は持っていません」
誰も答えなかった。
長い説明はしなかった。この男たちが、それを聞ける体ではないことは見ればわかった。短く、区切って、置いた。一つ飲み込むのを待って、次。届かなくていいと思っていた。一つでも引っかかれば。
「戦は、片がついています。あなたたちはもう、負けた兵じゃない」
誰の目も動かなかった。
「橋で捕まった人も、森で捕まった人も、ベルタで生きています。百人以上。誰も殺されていない」
火を見ていた男の目がわずかに動いた。
「あなたたちの隊長もこちらにいます。ヴォルスさん。アデルさんも」
奥の男の顔が上がった。
初めてケンジを見た。
「家族が、連座で死なずに済む道が動いています。あなたたちと同じ立場の兵が、もう別の道を選び始めている」
ケンジはそこで止めた。それ以上は言わなかった。倒す、とも、網を作る、とも。半分死にかけた男に、渡すものではなかった。希望の入り口だけを、置いた。
言葉は半分も届いていないようだった。
でも、シバがいた。
同じ橋で流された男が、捕まって、今、生きて、こちら側に立っている。ケンジの言葉が届かなくても、それだけは目で受け取れた。捕まれば死ぬ、という十年が、シバの立っている姿一つで崩れかけていた。
「家族に、伝えられます」
ケンジは続けた。
「生きている、と。あなた自身の声で。魔石という道具で、自分の声を家族に届けられます」
納屋が静かになった。
光が差した、と思った。
差した、と思った瞬間に押し返された。
「……やめてくれ」
奥の男だった。
声が掠れていた。
「聞いた。隊長のことも。道があることも。……わかった。わかったが」
膝を抱え直した。
「死んだことにしておいてくれ。その方が、いい」
ケンジは続けなかった。
「俺は立派に戦って死んだことに、なってる方がいい。子供がいる。小さい。父親が敵に捕まって、葦の中で震えて、生き恥をさらしてる。そんなことを知らない方がいい。死んだ父親の方があの子には——」
声が途切れた。
「なぜ、俺は、流れて、生きた」
それはケンジへの問いではなかった。
答えをケンジは持っていなかった。
◇
シバが口を開いた。
「逃がすんだ」
男がシバを見た。
「家族を。国の外へ」
「……どうやって子供を。無理だ。見つかる」
「体じゃない」
シバが言った。
「心だ。まず心を、ランバルトから逃す」
男が黙った。
「お前の子は、今、何を聞かされてる。父は戦死した。立派に戦って死んだ。ランバルトがそう聞かせる。子供の心は、その嘘に縛られてる。死んだ父親を、誇りに思え、と」
シバの声はたどたどしかった。ベルタの言葉ではなかった。ランバルトの言葉だった。同じ国の言葉で男に話していた。
「お前の声が届いた瞬間、その嘘が解ける。父は生きてる。それを子供が知る。体が、まだ国の中にいても、心はもう、ランバルトのものじゃない」
男の肩が動いた。
「俺は、村も、家族もない。逃がす心がない。届ける声を持ってない」
シバは言った。惜しむでも、嘆くでもなく、事実として。
「お前は持ってる」
◇
シバが懐から石を出した。
魔石だった。一つ。
「これは、繋がってない」
シバが言った。
「対がない。お前の村に、もう一つの石を届けてからだ、本番は。今は練習だ」
男がその石を見た。
「繋がってない石に、声を出す。何度も。言葉を作る。生きている。急ぐな。動くな。黙ってろ。それを家族しか知らない話と一緒に、どう言うか。届かない石で練習する」
シバが石を男の手に握らせた。
男の手が震えていた。石を握ったまま、動かなかった。
「……俺に、できるだろうか」
「違う」
シバが言った。
「お前にしか、できない」
男がシバを見た。
「お前の子に、父の声を届けられるのは、この世で、お前一人だ。俺にはできない。誰にもできない。お前だけだ」
男の目から、こぼれた。
それでもすぐには石を取らなかった。
「……届いて、どうなる」
掠れた声だった。
「生きてると知って、待つ方が、苦しいかもしれない。死んだと思って、諦めてくれた方が、あの子は——」
「お前にしか、できない」
シバは慰めなかった。同じことをもう一度言っただけだった。
男が黙った。
長い沈黙だった。火が一つ爆ぜた。納屋の他の十九人が、誰も動かなかった。椀を持ったまま、トールも止まっていた。男一人が握るかどうかを、納屋の中の全員が息を止めて見ていた。
男の手が、石を取った。
両手で包んだ。繋がっていない石を。
口を開いた。
何も、出なかった。
閉じた。
もう一度開いた。
出なかった。
死を受け入れていた口は、生きると言う言葉を忘れていた。
「……私は」
掠れていた。
「……わた、し」
呼吸が乱れていた。天井を見上げた。顔が歪んだ。
嗚咽が漏れた。こらえても、こらえても、漏れた。
「帰る」
声が震えていた。
「……帰るんだ」
石を握る手に力が入った。
「あの子の、元に。帰る」
石はどこにも繋がっていなかった。声は誰にも届かなかった。
でも男は、自分の声でそれを言った。
生きる、と言う代わりに、帰る、と言った。
死を受け入れていた男が、戻る場所を思い出していた。
兵ではなく、父親に戻っていた。
ケンジは少し離れてそれを聞いていた。
仕組みは運んだ。石も運んだ。でもこの男に、生きていい、と言えたのはケンジではなかった。
シバは何も言わなかった。
繋がっていない石を握った男の震える肩を、ただ、見ていた。
本番はまだ来ない。村に石が届いてからだ。
それまでは、練習だった。
家族の元へ、帰るための練習だった。




