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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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第六十話:練習

舟はベルタへまっすぐ向かわなかった。

マルコが櫂の向きを変えた。川を斜めに横切って、下流へ。

ラルタの方へ。


会議で決めた。二十人を第一例に。決めた足でその二十人に会いに行く。舟はもう出ていた。渡りに船、とはこういうことを言うのだと思った。


ケンジは本陣の岸を振り返った。

アデルがまだ立っていた。岸辺に一人。こちらを見ていなかった。手元の紙を見て、ラルタの方角をときどき見た。舟が離れても追ってこなかった。

来ない、と自分で決めた背中だった。


霧は晴れていた。冬の川が低く流れていた。

シバは船の先に座っていた。下流を見ていた。



ラルタは静かな村だった。

橋が落ちた後、一度は逃げた村人が戻ってきていた。家を直す音があちこちでしていた。その音の届かない、村の外れに納屋があった。


中は暗かった。

火が一つ。毛布がいくつも。その下に人がいた。

二十人。


数えなくてもわかった。動く者が少なかったからだ。横になったまま起きない者。壁に背を預けて天井を見ている者。痩せて、頬がこけて、川に長く浸かった手がまだ白かった。


トールがいた。昨日送った。椀を持って一人ずつ回っていた。


「ケンジさん」

トールが小声で言った。


「飲む人と、飲まない人が」


「飲まない人は」


「……生きるのを、やめてる感じが、します」

世話を焼くのが性に合っている男だった。その男が言葉を選んでいた。


ケンジは納屋の中を見た。

飲まない者の目はこちらを見ていなかった。助けられた、という顔ではなかった。なぜ助ける、という顔ですらなかった。ただ何も映していなかった。

死を、半分、受け入れた目だった。



シバが納屋に入ってきた。

足が止まった。

二十人を見ていた。一人ずつ。ゆっくり。

その目が一番奥の男で止まった。

壁に背を預けて、膝を抱えている男だった。顔を上げなかった。痩せて、髭が伸びて、歳が読めなかった。


シバがその前まで歩いた。

屈んだ。

男が顔を上げた。

二人が見合った。長いあいだ、何も言わなかった。

それから男の口が動いた。

「……シバ、か」


「ああ」


「お前も、流されたのか」


「捕まった。お前は、流れたか」


「流れた」


ケンジは少し離れてそれを見ていた。

二人の間に流れているものに、ケンジは入れなかった。同じ橋を、同じ川を、別々に生き延びた者にしかわからない何かだった。経路も、作戦も、ここには関係なかった。

入らずに待った。



シバがケンジの方を見た。

ケンジは納屋の真ん中に立って、二十人に言った。飾らずに。


「ベルタの受付です。武器は持っていません」


誰も答えなかった。

長い説明はしなかった。この男たちが、それを聞ける体ではないことは見ればわかった。短く、区切って、置いた。一つ飲み込むのを待って、次。届かなくていいと思っていた。一つでも引っかかれば。


「戦は、片がついています。あなたたちはもう、負けた兵じゃない」

誰の目も動かなかった。


「橋で捕まった人も、森で捕まった人も、ベルタで生きています。百人以上。誰も殺されていない」

火を見ていた男の目がわずかに動いた。


「あなたたちの隊長もこちらにいます。ヴォルスさん。アデルさんも」


奥の男の顔が上がった。

初めてケンジを見た。


「家族が、連座で死なずに済む道が動いています。あなたたちと同じ立場の兵が、もう別の道を選び始めている」


ケンジはそこで止めた。それ以上は言わなかった。倒す、とも、網を作る、とも。半分死にかけた男に、渡すものではなかった。希望の入り口だけを、置いた。


言葉は半分も届いていないようだった。

でも、シバがいた。

同じ橋で流された男が、捕まって、今、生きて、こちら側に立っている。ケンジの言葉が届かなくても、それだけは目で受け取れた。捕まれば死ぬ、という十年が、シバの立っている姿一つで崩れかけていた。


「家族に、伝えられます」

ケンジは続けた。


「生きている、と。あなた自身の声で。魔石という道具で、自分の声を家族に届けられます」


納屋が静かになった。

光が差した、と思った。

差した、と思った瞬間に押し返された。


「……やめてくれ」

奥の男だった。

声が掠れていた。


「聞いた。隊長のことも。道があることも。……わかった。わかったが」


膝を抱え直した。


「死んだことにしておいてくれ。その方が、いい」

ケンジは続けなかった。


「俺は立派に戦って死んだことに、なってる方がいい。子供がいる。小さい。父親が敵に捕まって、葦の中で震えて、生き恥をさらしてる。そんなことを知らない方がいい。死んだ父親の方があの子には——」


声が途切れた。


「なぜ、俺は、流れて、生きた」


それはケンジへの問いではなかった。

答えをケンジは持っていなかった。



シバが口を開いた。

「逃がすんだ」


男がシバを見た。


「家族を。国の外へ」


「……どうやって子供を。無理だ。見つかる」


「体じゃない」

シバが言った。


「心だ。まず心を、ランバルトから逃す」


男が黙った。


「お前の子は、今、何を聞かされてる。父は戦死した。立派に戦って死んだ。ランバルトがそう聞かせる。子供の心は、その嘘に縛られてる。死んだ父親を、誇りに思え、と」


シバの声はたどたどしかった。ベルタの言葉ではなかった。ランバルトの言葉だった。同じ国の言葉で男に話していた。


「お前の声が届いた瞬間、その嘘が解ける。父は生きてる。それを子供が知る。体が、まだ国の中にいても、心はもう、ランバルトのものじゃない」


男の肩が動いた。


「俺は、村も、家族もない。逃がす心がない。届ける声を持ってない」


シバは言った。惜しむでも、嘆くでもなく、事実として。


「お前は持ってる」



シバが懐から石を出した。

魔石だった。一つ。


「これは、繋がってない」

シバが言った。


「対がない。お前の村に、もう一つの石を届けてからだ、本番は。今は練習だ」


男がその石を見た。


「繋がってない石に、声を出す。何度も。言葉を作る。生きている。急ぐな。動くな。黙ってろ。それを家族しか知らない話と一緒に、どう言うか。届かない石で練習する」


シバが石を男の手に握らせた。

男の手が震えていた。石を握ったまま、動かなかった。


「……俺に、できるだろうか」


「違う」

シバが言った。


「お前にしか、できない」

男がシバを見た。


「お前の子に、父の声を届けられるのは、この世で、お前一人だ。俺にはできない。誰にもできない。お前だけだ」


男の目から、こぼれた。

それでもすぐには石を取らなかった。


「……届いて、どうなる」

掠れた声だった。


「生きてると知って、待つ方が、苦しいかもしれない。死んだと思って、諦めてくれた方が、あの子は——」


「お前にしか、できない」


シバは慰めなかった。同じことをもう一度言っただけだった。

男が黙った。


長い沈黙だった。火が一つ爆ぜた。納屋の他の十九人が、誰も動かなかった。椀を持ったまま、トールも止まっていた。男一人が握るかどうかを、納屋の中の全員が息を止めて見ていた。


男の手が、石を取った。

両手で包んだ。繋がっていない石を。


口を開いた。


何も、出なかった。

閉じた。


もう一度開いた。


出なかった。

死を受け入れていた口は、生きると言う言葉を忘れていた。


「……私は」

掠れていた。


「……わた、し」


呼吸が乱れていた。天井を見上げた。顔が歪んだ。

嗚咽が漏れた。こらえても、こらえても、漏れた。


「帰る」


声が震えていた。


「……帰るんだ」


石を握る手に力が入った。


「あの子の、元に。帰る」


石はどこにも繋がっていなかった。声は誰にも届かなかった。

でも男は、自分の声でそれを言った。


生きる、と言う代わりに、帰る、と言った。

死を受け入れていた男が、戻る場所を思い出していた。

兵ではなく、父親に戻っていた。


ケンジは少し離れてそれを聞いていた。

仕組みは運んだ。石も運んだ。でもこの男に、生きていい、と言えたのはケンジではなかった。


シバは何も言わなかった。

繋がっていない石を握った男の震える肩を、ただ、見ていた。

本番はまだ来ない。村に石が届いてからだ。


それまでは、練習だった。

家族の元へ、帰るための練習だった。


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