第五十九話:アデルの帳面
本陣は、森の陰にあった。
兵が出迎えた。武装は解いている。ベルタから人が来ることは、ヴォルスとアデルが隊に通してあった。
一番大きな天幕に通された。
「揃ったな」
ヴォルスが言った。
全員が地図を囲んだ。
アデルは地図ではなく、ラルタを見ていた。
「二十人、だな」
◇
武装を解いた兵が、入り口の近くに立っていた。
昨日までの敵が、舟で陣に入ってきた。
慣れる話ではなかった。
カーラとフィンはケンジの後ろにいた。
フィンは壁を背にして動かない。カーラは卓ではなく、兵の手元を見ていた。
シバの足が、半歩、遅れた。
ヴォルスを見てすぐに逸らした。背がわずかに伸びかけて途中で止まった。伸ばすのを自分でやめたように見えた。
ヴォルスの目がシバで止まった。
「……その男は」
ランバルトの顔だった。だが隊の人間ではない。それを見分けるのにヴォルスは一拍もいらなかった。
「経路を知っているので連れてきました」
ケンジは言った。「道に詳しい人です」
ヴォルスがシバをもう一度見て、何か言いかけてやめた。
シバは何も言わなかった。壁際の一番暗いところに立った。卓にはつかなかった。
ケンジは自分の隣の椅子を引いた。
「シバさん、こちらへ。道の話になります。地図が見えた方がいい」
それきりだった。階層の話も、もう敵じゃないという話もしなかった。ケンジには、シバが壁際に立つ理由が見えていなかった。
シバはすぐには動かなかった。
それから、半歩、卓に近づいた。
◇
「逃がしの段取りだが」
ヴォルスが口を開いた。「最初の組を決めたい。隊で、家族の所在がはっきりしている者から、順に——」
「その前に、一つ」
ケンジは言った。「家族だけを逃がす案には、穴があります」
ヴォルスの眉が動いた。
「……柵は、塞いだはずだろう」
ヴォルスの声が低くなった。
「隊の内側は塞ぎました。村の外側を見ていませんでした」
ケンジは謝らなかった。穴をそのまま卓に置いた。
「家族は救えても、村ごとは救えません。逃がす、というやり方の限界です」
ヴォルスは村の印を目で追った。一つずつ。
「では、あいつらの家族は。村ごと巻き込まれる家は。逃がしきれないなら置いていくのか」
ケンジは答えなかった。逃がすだけでは、足りない。その先が手の中になかった。
「逃がす、で考えるからだ」
アデルだった。地図に置いた手は、動いていない。顔だけが上がっていた。
「運べる数しか、救えない。だから村で詰まる。救う道では詰まる。倒す道なら、詰まらない」
「ヴァルクだ。あれがいなくなれば連座が消える。負ければ死ぬ、裏切れば家族も死ぬ——あれを作ったのはヴァルクだ。元を断てば逃がす必要がなくなる。村ごと、人質でなくなる」
ケンジは帳面の上で手を止めた。
——逃がせば年月がかかる。倒せば、元が消える。
「家族も、その方が、安全だ」
ケンジは声に出した。自分に確かめるように。
守るために、守る道を捨てる。おかしな話だった。
「やり方が、ありますか」
ケンジはアデルを見た。
「ある」
アデルがようやく地図から手を離した。離した手がそのまま、ラルタの一点を指した。
「この二十人だ」
ケンジはその指を見た。そこに置かれていた手の、その先を。
「橋で流れた。捕虜にもならず、国にも帰らなかった。本国の帳面では、まだ『行方不明』だ」
アデルの声が、一度だけ、途切れた。
「……俺が、書いた」
ケンジは顔を上げた。
「行方不明、と。俺が書いてきた。十年。生きているかもしれない男を、死んだと書けば、家族の支給が切れる。だから、行方不明、と書いた。それが、俺にできる唯一のことだった」
アデルの指がラルタの一点を、押した。
「書いた男が、生きていた。二十人。十年で、初めてだ」
天幕が静かになった。
ケンジはその横顔を見ていた。何を考えているかは、やはりわからなかった。ただ地図を押すその指の力だけが、深く紙に沈んでいた。
◇
「本国はいずれ、この兵たちを『戦死』に書き換える」
アデルが言った。
「行方不明のままでは、置いておけない。期限が来れば兵籍が書き換わる。死んだ者として記される。記されれば、家の扶持が切れる」
「……止められないんですか」
「止めなくていい。書かせろ。本国にいつも通り、戦死を書かせて支給を切らせろ」
ケンジはすぐには頷けなかった。
支給が切れるのを、待つ。
怒りが生まれるのを、待つ。
それは、救う手順というより、傷が開く瞬間を狙うやり方だった。
アデルはケンジの顔を見た。
「綺麗な道ではない」
それだけ言った。
「だが国がつけた傷だ。こちらが塞ぐ前に、誰が傷をつけたのかを、家族に見せる」
アデルが村の印をなぞった。今度は一つずつ。
「その時にぶつける。息子は生きている、と。本人の声で。家族しか知らない話を添えて。それで信じる」
「信じない家族も出ます」
「出る」
アデルは否定しなかった。「まだらでいい。信じた家族から、怒りが残る。死んだと聞かされて、それが嘘だったと知った怒りは深い。その怒りが、軍の内側に溜まっていく」
アデルが顔を上げた。
「俺は手を汚さない。殺すのは本国の兵籍だ。俺はいつ書き換えるかを数える。数えて、その瞬間に、生きている、と届ける。怒りの向きをヴァルクに揃える」
◇
ケンジはその理屈を聞いていた。自分が組めなかったものだった。
倒す、という方向は見えていた。何で倒すか、が見えていなかった。
アデルはそれを持っていた。本国の冷たい兵籍。ケンジが「止めたい」と思ったものをアデルは「使う」と言った。守る側から見るか、刃に変える側から見るか。同じ盤面の、見えていなかった半分だった。
「……アデルさんがいないと、この道は、組めませんでした」
アデルは答えなかった。ケンジを見もしなかった。
◇
「最初は、ラルタの二十人です」
ケンジは決めた。「橋で流れて、どこにも数えられていない。本国はまだ動いていない。今なら、間に合う」
シバが口を開いた。
「経路は引ける」
壁際で背を伸ばしかけた男と、同じ男だとは思えなかった。たどたどしいベルタの言葉のまま、まっすぐ卓の真ん中に、それを置いた。
「魔石の使い方も教えられる。捕虜本人が自分の声で家族に届ける。生きている。急ぐな。動くな。黙ってろ。それだけ言わせる」
「信じさせるには」
「家族しか知らないような話だ。家の話や子供の頃の話。それと——」
シバが口の中で言葉を探した。
「信じられないなら、死んだと思え、と言わせる。その方が家族の演技が自然になる。守るための、嘘だ」
ヴォルスがその話を聞いていた。村の印をまだ目で追っている。さっきとは目の色が違った。置いていく家を数える目から、繋ぎ直す糸を数える目に、変わっていた。
「……二十人で、試すのか」
「試します。うまくいけば、次を渡します。隊で家族の所在がはっきりしている者から。誰を先にするかはあなたが決めてください」
ヴォルスはすぐには頷かなかった。
逃がす、は、あの男にとって、兵の家族を守るただ一つの道だった。それを手放せ、と言われている。守るのをやめて勝ちに賭けろ、と。
村の印をもう一度目で追った。
それから頷いた。
逃がす、ではなかった。倒すための最初の糸だった。守るために、守る道を、一度あきらめる頷きだった。
◇
天幕を出た。
川の音が戻ってきた。霧はもう晴れていた。対岸にベルタの塀が遠く見えた。
アデルが天幕の外に立っていた。一人だった。ケンジが出てくるのを待っていたように見えた。
そして、頭を下げた。
深く。腰から折れるように。会議の間一度も動かなかった男が。
ケンジは足を止めた。
礼の言葉はなかった。下げた頭をアデルはしばらく上げなかった。作戦への礼にしては長すぎた。深すぎた。
それが何への礼か、ケンジには最後までわからなかった。ただ、これだけはわかった。この男は今、誰に命じられてでもなく、形でもなく、自分の意思で頭を下げている。
顔を上げると、アデルはもう川の方を見ていた。ラルタの方角だった。
懐から紙を出した。古い、折り目のついた紙だった。開くと字が詰まっていた。ケンジの位置からは読めなかったが、名前が並んでいるのだとわかった。十年、行方不明としか書けなかった男たちの。
アデルが筆を執った。
一つの名の横に何かを書いた。一画だった。消したのか、足したのか、ケンジには見えなかった。
それから次の名へ。また、一画。
二十回、繰り返すつもりなのがわかった。
書く間、アデルはこちらを一度も見なかった。川向こうのラルタだけをときどき見た。
舟が来た。マルコが櫂を岸に寄せた。
アデルはまだ、書いていた。




