表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
64/75

第五十九話:アデルの帳面

本陣は、森の陰にあった。

兵が出迎えた。武装は解いている。ベルタから人が来ることは、ヴォルスとアデルが隊に通してあった。

一番大きな天幕に通された。


「揃ったな」

ヴォルスが言った。


全員が地図を囲んだ。

アデルは地図ではなく、ラルタを見ていた。


「二十人、だな」



武装を解いた兵が、入り口の近くに立っていた。

昨日までの敵が、舟で陣に入ってきた。

慣れる話ではなかった。


カーラとフィンはケンジの後ろにいた。

フィンは壁を背にして動かない。カーラは卓ではなく、兵の手元を見ていた。


シバの足が、半歩、遅れた。

ヴォルスを見てすぐに逸らした。背がわずかに伸びかけて途中で止まった。伸ばすのを自分でやめたように見えた。

ヴォルスの目がシバで止まった。


「……その男は」


ランバルトの顔だった。だが隊の人間ではない。それを見分けるのにヴォルスは一拍もいらなかった。


「経路を知っているので連れてきました」

ケンジは言った。「道に詳しい人です」


ヴォルスがシバをもう一度見て、何か言いかけてやめた。

シバは何も言わなかった。壁際の一番暗いところに立った。卓にはつかなかった。


ケンジは自分の隣の椅子を引いた。

「シバさん、こちらへ。道の話になります。地図が見えた方がいい」


それきりだった。階層の話も、もう敵じゃないという話もしなかった。ケンジには、シバが壁際に立つ理由が見えていなかった。

シバはすぐには動かなかった。


それから、半歩、卓に近づいた。



「逃がしの段取りだが」

ヴォルスが口を開いた。「最初の組を決めたい。隊で、家族の所在がはっきりしている者から、順に——」


「その前に、一つ」

ケンジは言った。「家族だけを逃がす案には、穴があります」


ヴォルスの眉が動いた。

「……柵は、塞いだはずだろう」


ヴォルスの声が低くなった。

「隊の内側は塞ぎました。村の外側を見ていませんでした」


ケンジは謝らなかった。穴をそのまま卓に置いた。


「家族は救えても、村ごとは救えません。逃がす、というやり方の限界です」


ヴォルスは村の印を目で追った。一つずつ。


「では、あいつらの家族は。村ごと巻き込まれる家は。逃がしきれないなら置いていくのか」


ケンジは答えなかった。逃がすだけでは、足りない。その先が手の中になかった。


「逃がす、で考えるからだ」


アデルだった。地図に置いた手は、動いていない。顔だけが上がっていた。


「運べる数しか、救えない。だから村で詰まる。救う道では詰まる。倒す道なら、詰まらない」


「ヴァルクだ。あれがいなくなれば連座が消える。負ければ死ぬ、裏切れば家族も死ぬ——あれを作ったのはヴァルクだ。元を断てば逃がす必要がなくなる。村ごと、人質でなくなる」


ケンジは帳面の上で手を止めた。

——逃がせば年月がかかる。倒せば、元が消える。


「家族も、その方が、安全だ」

ケンジは声に出した。自分に確かめるように。

守るために、守る道を捨てる。おかしな話だった。


「やり方が、ありますか」

ケンジはアデルを見た。


「ある」


アデルがようやく地図から手を離した。離した手がそのまま、ラルタの一点を指した。


「この二十人だ」


ケンジはその指を見た。そこに置かれていた手の、その先を。


「橋で流れた。捕虜にもならず、国にも帰らなかった。本国の帳面では、まだ『行方不明』だ」

アデルの声が、一度だけ、途切れた。


「……俺が、書いた」


ケンジは顔を上げた。


「行方不明、と。俺が書いてきた。十年。生きているかもしれない男を、死んだと書けば、家族の支給が切れる。だから、行方不明、と書いた。それが、俺にできる唯一のことだった」


アデルの指がラルタの一点を、押した。


「書いた男が、生きていた。二十人。十年で、初めてだ」


天幕が静かになった。

ケンジはその横顔を見ていた。何を考えているかは、やはりわからなかった。ただ地図を押すその指の力だけが、深く紙に沈んでいた。



「本国はいずれ、この兵たちを『戦死』に書き換える」

アデルが言った。


「行方不明のままでは、置いておけない。期限が来れば兵籍が書き換わる。死んだ者として記される。記されれば、家の扶持が切れる」


「……止められないんですか」


「止めなくていい。書かせろ。本国にいつも通り、戦死を書かせて支給を切らせろ」


ケンジはすぐには頷けなかった。


支給が切れるのを、待つ。

怒りが生まれるのを、待つ。


それは、救う手順というより、傷が開く瞬間を狙うやり方だった。

アデルはケンジの顔を見た。


「綺麗な道ではない」

それだけ言った。


「だが国がつけた傷だ。こちらが塞ぐ前に、誰が傷をつけたのかを、家族に見せる」

アデルが村の印をなぞった。今度は一つずつ。


「その時にぶつける。息子は生きている、と。本人の声で。家族しか知らない話を添えて。それで信じる」


「信じない家族も出ます」


「出る」


アデルは否定しなかった。「まだらでいい。信じた家族から、怒りが残る。死んだと聞かされて、それが嘘だったと知った怒りは深い。その怒りが、軍の内側に溜まっていく」


アデルが顔を上げた。

「俺は手を汚さない。殺すのは本国の兵籍だ。俺はいつ書き換えるかを数える。数えて、その瞬間に、生きている、と届ける。怒りの向きをヴァルクに揃える」



ケンジはその理屈を聞いていた。自分が組めなかったものだった。

倒す、という方向は見えていた。何で倒すか、が見えていなかった。


アデルはそれを持っていた。本国の冷たい兵籍。ケンジが「止めたい」と思ったものをアデルは「使う」と言った。守る側から見るか、刃に変える側から見るか。同じ盤面の、見えていなかった半分だった。


「……アデルさんがいないと、この道は、組めませんでした」

アデルは答えなかった。ケンジを見もしなかった。



「最初は、ラルタの二十人です」

ケンジは決めた。「橋で流れて、どこにも数えられていない。本国はまだ動いていない。今なら、間に合う」


シバが口を開いた。

「経路は引ける」


壁際で背を伸ばしかけた男と、同じ男だとは思えなかった。たどたどしいベルタの言葉のまま、まっすぐ卓の真ん中に、それを置いた。


「魔石の使い方も教えられる。捕虜本人が自分の声で家族に届ける。生きている。急ぐな。動くな。黙ってろ。それだけ言わせる」


「信じさせるには」


「家族しか知らないような話だ。家の話や子供の頃の話。それと——」


シバが口の中で言葉を探した。


「信じられないなら、死んだと思え、と言わせる。その方が家族の演技が自然になる。守るための、嘘だ」


ヴォルスがその話を聞いていた。村の印をまだ目で追っている。さっきとは目の色が違った。置いていく家を数える目から、繋ぎ直す糸を数える目に、変わっていた。


「……二十人で、試すのか」


「試します。うまくいけば、次を渡します。隊で家族の所在がはっきりしている者から。誰を先にするかはあなたが決めてください」


ヴォルスはすぐには頷かなかった。

逃がす、は、あの男にとって、兵の家族を守るただ一つの道だった。それを手放せ、と言われている。守るのをやめて勝ちに賭けろ、と。


村の印をもう一度目で追った。

それから頷いた。

逃がす、ではなかった。倒すための最初の糸だった。守るために、守る道を、一度あきらめる頷きだった。



天幕を出た。

川の音が戻ってきた。霧はもう晴れていた。対岸にベルタの塀が遠く見えた。


アデルが天幕の外に立っていた。一人だった。ケンジが出てくるのを待っていたように見えた。


そして、頭を下げた。

深く。腰から折れるように。会議の間一度も動かなかった男が。


ケンジは足を止めた。

礼の言葉はなかった。下げた頭をアデルはしばらく上げなかった。作戦への礼にしては長すぎた。深すぎた。

それが何への礼か、ケンジには最後までわからなかった。ただ、これだけはわかった。この男は今、誰に命じられてでもなく、形でもなく、自分の意思で頭を下げている。


顔を上げると、アデルはもう川の方を見ていた。ラルタの方角だった。

懐から紙を出した。古い、折り目のついた紙だった。開くと字が詰まっていた。ケンジの位置からは読めなかったが、名前が並んでいるのだとわかった。十年、行方不明としか書けなかった男たちの。


アデルが筆を執った。

一つの名の横に何かを書いた。一画だった。消したのか、足したのか、ケンジには見えなかった。

それから次の名へ。また、一画。

二十回、繰り返すつもりなのがわかった。

書く間、アデルはこちらを一度も見なかった。川向こうのラルタだけをときどき見た。


舟が来た。マルコが櫂を岸に寄せた。

アデルはまだ、書いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ