第五十八話:川を渡る
魔石が震えたのは朝だった。
ケンジはカウンターにいた。並んだ石の一つ。ラルタ村との回線だった。
手に取った。
『……ケンジさん。マルコです』
声が低かった。よくないことを言う前の声だった。
「どうしました」
少し間があった。川の音がかすかに石の向こうに聞こえた。
『村に戻りました。避難から。家を片付けて。それで——』
マルコが言葉を選んでいた。
『川下の、葦の中に。人がおりました』
ケンジの手が止まった。
『ランバルトの兵です。二十人ばかり。橋で川に流された連中のようで。岸に這い上がって、ここまで流れ着いて隠れておりました』
「生きているんですか」
『生きてます。だが』
マルコの声が低くなった。
『ひどいもんです。痩せて、傷んで。立てる者の方が少ない。何日も葦の中で震えていたんでしょう。漁師が見つけた時には、もう抵抗する力もなかった』
ケンジは石を握ったまま考えていた。
橋で川に流れた組。捕虜にもならず、国にも帰れず、岸に這い上がって流れ着いた者たち。生死を誰も確かめていなかった。ベルタの帳面にも、ランバルトの数にも、入っていない二十人。
どこにも数えられていなかった。
「マルコさん」
ケンジは聞いた。
「今、その人たちは」
『村の納屋に。火を入れて毛布をかけてます』
少し間があった。
『……敵を匿うのか、と。村の者にも言われました』
「マルコさんは、なんと」
『凍え死なれても、寝覚めが悪い、と』
橋の時と同じ言葉だった。あの岸で、捕虜に火を貸した時の。
『それに』
マルコが続けた。
『ベルタが敵を生かすのを見ましたから。橋の捕虜を。だから、うちもそれでいいかと』
ケンジは少し黙った。
ベルタが敵を生かすのを見た。だから、うちも。
伝わっていた。ラルタに。
◇
ケンジはすぐに指示を出した。
「動かさないでください。今は」
『運ばなくていいんですか。ベルタに』
「立てない人を、川沿いの道で動かすのは危ないです。傷が悪くなる。それに——」
ケンジは少し考えた。
「ラルタは、川の最前線です。二十人を街道で動かせば、見られるかもしれない。今は納屋に置いたまま、こちらから人を送ります」
『人を』
「治療と、介護のできる者を。食料と、薬草と、応急の道具を持たせます。動かすより、こちらが行く方が安全です」
魔石の向こうで、マルコが少し黙った。
『……助かります』
「こちらこそ、です。匿ってくれて」
ケンジは言った。
「死なせないでいてくれて、助かりました」
『……いや』
マルコの声が少し揺れた。
『漁師は、川で死ぬ者を見すぎてますからね。流れてきた者を見殺すのは——どうにも』
それきり、マルコは言わなかった。
◇
人手をすぐに集めた。
アンピークの救急キットを持てる者。傷の手当てをベルタで覚えた者。トールが「行きます」と言った。世話を焼くのが性に合っている男だった。それと漁師衆と顔の通じる、ラルタに縁のある者を、数人。
食料、薬草、毛布。荷をまとめた。
ミーデルが横で帳面を開いていた。
「二十人、増えます」
「はい」
「ラルタに送るぶん、こちらの蓄えが減ります」
ミーデルは数字を書きつけていた。いつか、誰にも見せないつもりで書いた、あの食料の残量のページだった。
「足りますか」
ケンジが聞いた。
「……ぎりぎりです」
ミーデルは正直に言った。
「でも、二十人を見殺しにして浮く食料で、街が長く保つわけでもないので」
ペンを止めなかった。
「送ります」
ケンジはその横顔を見ていた。
数字に厳しいミーデルが、数字を承知の上で、送る、と言った。誰も死なせない、というのが、毎日の鍋の数で支えられていることを、この娘は誰より知っている。知っていて送る。
「ありがとうございます」
ミーデルは帳面を閉じた。
「ケンジさんが、見殺しにしない理由を、私がまだ全部はわかっていないだけです。でも、たぶん、後でわかるので」
◇
荷を送り出した後、ケンジはもう一つの石を手に取った。
本陣との回線だった。
偽りの戦を続けるための、誰にも知られない石。
その向こうに、ヴォルスとアデルがいる。
魔力を込めた。
少しして、声が来た。
『……アデルだ』
本陣でヴォルスの前に立った、あの男の声。
「ケンジです。報告が一つあります」
『聞こう』
ケンジは事実だけを言った。決めていた。意味は足さない。事実だけ。
「ラルタ村に、ランバルトの兵が二十人生きています。橋で川に流された組のようです。捕虜にならず、岸に這い上がって村に流れ着いていました。今ラルタで保護しています」
石の向こうが静かになった。
川の音も、何も、聞こえなかった。
ケンジは待った。
長い沈黙だった。
魔石越しのアデルとのやり取りはいつも短かった。事実を言えば、すぐ事実が返ってくる。数を言えば、数が返る。そういうやり取りだった。
なのに今は返ってこなかった。
「アデルさん」
ケンジは呼んだ。
『……ああ』
返事が来た。
少し、遅れて。
『二十人、だな』
「はい」
『橋で、流された組』
「そう聞いています」
また間があった。
『……わかった』
「明日、そちらに伺います」
ケンジは言った。
「家族を逃がす話と、その先の話を詰めたいので。ヴォルスさんも交えて」
『……来るのか。こちらに』
「はい。魔石越しでは詰めきれない話なので」
少し間があった。
『わかった。待つ』
石が静かになった。
ケンジは石を置いた。
アデルの最後の声が耳に残っていた。何かを押さえている声のように思えた。
何かが、あった。
二十人、と言った時から。
ケンジにはそれが何かわからなかった。
◇
翌朝、川を渡った。
ケンジとシバ。それと護衛にカーラとフィン。
偽りの戦の最中だった。表向き、川の両岸は敵同士だった。だから、夜明け前の霧の中を漁師の舟で音もなく渡った。マルコが自ら櫂を握った。
「橋を落とした川を、舟で渡る日が来るとは」
マルコが低く言った。
「思いませんでしたよ」
櫂が水を切った。霧が川面を這っていた。対岸が見えなかった。
シバは舳先に座って対岸の方を見ていた。
「シバさん、どうしました」
ケンジが声をかけた。
「……川を渡るのは」
シバがぽつりと言った。
「逃げる時か、攻める時だ。伝令で何度も渡った。どっちかしかなかった」
霧の向こうを見ていた。
「攻めも逃げもしないで、川を渡るのは、初めてだ」
ケンジはその横顔を見ていた。
殺す情報を運んだ男が、今、生かす話をしに川を渡っている。攻めも逃げもせず。シバ自身が、それに気づいているのか、いないのか。ただ霧の向こうを見ていた。
舟が対岸に着いた。




