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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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第五十八話:川を渡る

魔石が震えたのは朝だった。

ケンジはカウンターにいた。並んだ石の一つ。ラルタ村との回線だった。

手に取った。


『……ケンジさん。マルコです』


声が低かった。よくないことを言う前の声だった。


「どうしました」


少し間があった。川の音がかすかに石の向こうに聞こえた。


『村に戻りました。避難から。家を片付けて。それで——』

マルコが言葉を選んでいた。


『川下の、葦の中に。人がおりました』


ケンジの手が止まった。


『ランバルトの兵です。二十人ばかり。橋で川に流された連中のようで。岸に這い上がって、ここまで流れ着いて隠れておりました』


「生きているんですか」


『生きてます。だが』

マルコの声が低くなった。


『ひどいもんです。痩せて、傷んで。立てる者の方が少ない。何日も葦の中で震えていたんでしょう。漁師が見つけた時には、もう抵抗する力もなかった』


ケンジは石を握ったまま考えていた。

橋で川に流れた組。捕虜にもならず、国にも帰れず、岸に這い上がって流れ着いた者たち。生死を誰も確かめていなかった。ベルタの帳面にも、ランバルトの数にも、入っていない二十人。

どこにも数えられていなかった。


「マルコさん」

ケンジは聞いた。


「今、その人たちは」


『村の納屋に。火を入れて毛布をかけてます』


少し間があった。


『……敵を匿うのか、と。村の者にも言われました』


「マルコさんは、なんと」


『凍え死なれても、寝覚めが悪い、と』

橋の時と同じ言葉だった。あの岸で、捕虜に火を貸した時の。


『それに』

マルコが続けた。


『ベルタが敵を生かすのを見ましたから。橋の捕虜を。だから、うちもそれでいいかと』


ケンジは少し黙った。

ベルタが敵を生かすのを見た。だから、うちも。

伝わっていた。ラルタに。



ケンジはすぐに指示を出した。

「動かさないでください。今は」


『運ばなくていいんですか。ベルタに』


「立てない人を、川沿いの道で動かすのは危ないです。傷が悪くなる。それに——」

ケンジは少し考えた。


「ラルタは、川の最前線です。二十人を街道で動かせば、見られるかもしれない。今は納屋に置いたまま、こちらから人を送ります」


『人を』


「治療と、介護のできる者を。食料と、薬草と、応急の道具を持たせます。動かすより、こちらが行く方が安全です」


魔石の向こうで、マルコが少し黙った。

『……助かります』


「こちらこそ、です。匿ってくれて」

ケンジは言った。


「死なせないでいてくれて、助かりました」


『……いや』

マルコの声が少し揺れた。


『漁師は、川で死ぬ者を見すぎてますからね。流れてきた者を見殺すのは——どうにも』

それきり、マルコは言わなかった。



人手をすぐに集めた。

アンピークの救急キットを持てる者。傷の手当てをベルタで覚えた者。トールが「行きます」と言った。世話を焼くのが性に合っている男だった。それと漁師衆と顔の通じる、ラルタに縁のある者を、数人。

食料、薬草、毛布。荷をまとめた。


ミーデルが横で帳面を開いていた。

「二十人、増えます」


「はい」


「ラルタに送るぶん、こちらの蓄えが減ります」

ミーデルは数字を書きつけていた。いつか、誰にも見せないつもりで書いた、あの食料の残量のページだった。


「足りますか」

ケンジが聞いた。


「……ぎりぎりです」

ミーデルは正直に言った。


「でも、二十人を見殺しにして浮く食料で、街が長く保つわけでもないので」

ペンを止めなかった。


「送ります」

ケンジはその横顔を見ていた。


数字に厳しいミーデルが、数字を承知の上で、送る、と言った。誰も死なせない、というのが、毎日の鍋の数で支えられていることを、この娘は誰より知っている。知っていて送る。


「ありがとうございます」

ミーデルは帳面を閉じた。


「ケンジさんが、見殺しにしない理由を、私がまだ全部はわかっていないだけです。でも、たぶん、後でわかるので」



荷を送り出した後、ケンジはもう一つの石を手に取った。

本陣との回線だった。

偽りの戦を続けるための、誰にも知られない石。

その向こうに、ヴォルスとアデルがいる。

魔力を込めた。


少しして、声が来た。


『……アデルだ』

本陣でヴォルスの前に立った、あの男の声。


「ケンジです。報告が一つあります」


『聞こう』


ケンジは事実だけを言った。決めていた。意味は足さない。事実だけ。

「ラルタ村に、ランバルトの兵が二十人生きています。橋で川に流された組のようです。捕虜にならず、岸に這い上がって村に流れ着いていました。今ラルタで保護しています」


石の向こうが静かになった。

川の音も、何も、聞こえなかった。


ケンジは待った。

長い沈黙だった。


魔石越しのアデルとのやり取りはいつも短かった。事実を言えば、すぐ事実が返ってくる。数を言えば、数が返る。そういうやり取りだった。

なのに今は返ってこなかった。


「アデルさん」

ケンジは呼んだ。


『……ああ』

返事が来た。


少し、遅れて。

『二十人、だな』


「はい」


『橋で、流された組』


「そう聞いています」


また間があった。

『……わかった』


「明日、そちらに伺います」

ケンジは言った。


「家族を逃がす話と、その先の話を詰めたいので。ヴォルスさんも交えて」


『……来るのか。こちらに』


「はい。魔石越しでは詰めきれない話なので」


少し間があった。


『わかった。待つ』


石が静かになった。

ケンジは石を置いた。


アデルの最後の声が耳に残っていた。何かを押さえている声のように思えた。

何かが、あった。

二十人、と言った時から。

ケンジにはそれが何かわからなかった。



翌朝、川を渡った。

ケンジとシバ。それと護衛にカーラとフィン。


偽りの戦の最中だった。表向き、川の両岸は敵同士だった。だから、夜明け前の霧の中を漁師の舟で音もなく渡った。マルコが自ら櫂を握った。

「橋を落とした川を、舟で渡る日が来るとは」


マルコが低く言った。

「思いませんでしたよ」


櫂が水を切った。霧が川面を這っていた。対岸が見えなかった。

シバは舳先に座って対岸の方を見ていた。


「シバさん、どうしました」

ケンジが声をかけた。


「……川を渡るのは」

シバがぽつりと言った。


「逃げる時か、攻める時だ。伝令で何度も渡った。どっちかしかなかった」


霧の向こうを見ていた。


「攻めも逃げもしないで、川を渡るのは、初めてだ」

ケンジはその横顔を見ていた。


殺す情報を運んだ男が、今、生かす話をしに川を渡っている。攻めも逃げもせず。シバ自身が、それに気づいているのか、いないのか。ただ霧の向こうを見ていた。


舟が対岸に着いた。


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