第五十七話:塞いだ柵の穴
朝、ケンジはカウンターで帳面を開いた。
二日熱を出した。
ティナが捕虜の食事を差配し、ミーデルが名簿を続け、レイモンドとシバが未来を聞いた。ケンジが覚えていない指示で、ケンジがいなくても回っていた。
悪くなかった。
そう思いながら、帳面の前のページを繰った。
本陣で書いたページ。ヴォルスの前で脳に魔力を回して組んだあの理屈。
連座を、逆向きにする。一人が密告すればまだ逃げ終わっていない家族が殺される。その中には密告した本人の家族もいる。だから誰も密告できない。
あの場では完璧に見えた。
加速した頭の中で、破片を速さで繋いで、ヴォルスの剣を下ろさせた。鮮やかだったと皆が言った。アンばあさんは、うまくいくよと言った。
ケンジはそのページをしばらく見ていた。
◇
落ち着いた頭で、もう一度読んだ。
普通の速さで。一行ずつ。
——家族。
兵の家族は、村に住んでいる。
その村には家族以外の人間もいる。
ケンジは、帳面に書いた。普通の速さで。
兵の家族を逃がす。
その下に、もう一行。
同じ村の他の人間は。
兵の家族だけが村から消える。残った村人は気づく。あの家は息子が寝返ったからいなくなった、と。それが本国に漏れる。
ペンが止まった。
◇
しばらく動けなかった。
あの時見えていなかった。脳に魔力を回して、全部が見えていたつもりだった。でも見えていたのは、目の前の問題の、最適な解き方だけだった。
速さは、あった。
視野が、なかった。
加速した頭は速く解く。でも解く枠そのものは広げない。家族という枠の中で最速で解いた。枠の外の、村、は、最初から視野に入っていなかった。
ケンジはペンを置いた。
「……穴が、あった」
誰にも聞こえない声で言った。
カウンターには誰もいなかった。朝の早い時間だった。
◇
ベルタ焼きの匂いがした。
顔を上げるとシバが立っていた。
手に木の盆を持っていた。屋台で買ってきたらしい。ベルタ焼きが、一枚。
シバが盆をカウンターに置いた。
ケンジは少し驚いた。シバが自分からギルドに来た。しかもベルタ焼きを持って。
「シバさん。おはようございます」
「経路の、続きだ」
シバが地図を出した。昨日二人で線を引いた、あの地図だった。
「昨日引いた道。家で考え直した。沢沿いの道、冬の終わりは雪解けで増水する。今は、まだ使える。だが、逃がすのにひと月かかるなら、終わりの頃には、使えなくなる」
シバは地図に新しい線を引いた。
ケンジはそれを見た。
昨日、シバは「信じたわけじゃない」と言った。なのに、家に帰って、道のことを考え続けて、増水まで読んで、朝、自分から持ってきた。
組む、とは言っていない。でも、もう組んでいた。
それから言った。
「シバさん」
「なんだ」
「昨日の作戦には、穴がありました」
シバのペンが止まった。
◇
ケンジは自分の帳面の、二行をシバに見せた。普通の速さで書いた、二行を。
シバはそれを長いこと見ていた。
読めない文字を、見ているのではなかった。意味を噛んでいる目だった。
それからぽつりと言った。
「……村ごと、ということか」
ケンジは頷いた。
「無理だ」
シバが言った。
短かった。
「村は、人数が違う。家族なら数人だ。村は、数十人、数百人だ。一人ずつ国境を越えさせる道で、村ごとは運べない。途中で、必ず、見つかる」
「はい」
「全部の村は、救えない」
シバの声が低くなった。
ケンジは答えなかった。
その通りだった。家族なら逃がせる。村ごとは逃がせない。救える者と、救えない者が出る。
橋でも、森でも、なるべく殺さずに済んだ。完璧に近かった。
でもここでは。
救えない者が、構造として出てしまう。
◇
シバが地図を見ていた。
自分の引いた線を見ていた。経路。逃がす道。一人ずつしか通れない道。
「俺の、村は」
シバがぽつりと言った。
ケンジは顔を上げた。
「もうない。ランバルトが大きくなる時に、飲まれた。村ごと」
「あの時誰も来なかった。助けに。村ごと消えた。一人ずつ、逃げた奴はいた。でも村はなくなった」
シバは地図から目を上げなかった。
「あんたの言う穴。村の他の人間はどうなる。——それを聞いて、考えなかった人間はいない。村が飲まれる側にいた人間なら」
ケンジは黙っていた。
「家族だけ助かる。村は置いていく。それがどういうことか。俺は、知っている」
シバが初めてケンジをまっすぐ見た。
「あんたは、知らないだろう。なのに気づいた。誰にも言われずに。自分で」
少し間があった。
「昨日あんたは、測れない男だった。今日は——」
シバは言葉を選んだ。
「穴に自分で気づいて、それを、隠さない男だ」
◇
ケンジはその言葉をどう受け取っていいかわからなかった。
褒められたのか、責められたのか。シバの声ではわからなかった。
ただシバは続けた。
「組む」
短かった。
ケンジがシバを見た。
「昨日は、信じたわけじゃないと言った。今日も信じたわけじゃない。だが、組む」
シバは地図を指で叩いた。
「完璧な作戦を持ってくる男なら、組まない。そういう男は、都合の悪いところを隠す。間違っていないふりをする」
シバの指が止まった。
「お前は、穴を自分から見せた。救えない者がいると、認めた。——そういう男となら、組める」
ケンジはしばらく黙っていた。
それから言った。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
シバはベルタ焼きの盆をケンジの方へ少し押した。
「食え。冷める」
ケンジはベルタ焼きを一口食べた。
シバがそれを見ていた。
「だが」
シバが言った。
「組んでも、全部の村は救えない。それは変わらない。お前が気づいても、俺が組んでも、道は一人ずつしか通れない。村ごとは運べない」
「はい」
「どうする」
ケンジは地図を見た。
救える者と、救えない者。家族は逃がせる。村は逃がせない。その線をどこで引くのか。誰を救って、誰を、置いていくのか。
それはケンジが一番やりたくないことだった。
誰も選別しなかった。全部生かす方に組んだ。
でも、ここでは。
選ばなければならない。
ケンジはその重さを初めて手に持った。
「……今は」
ケンジは言った。
「今は救えません。村ごとは」
シバがケンジを見た。
「でも、村ごと救う道が、一つだけあります」
「言え」
ケンジは地図の川の向こうを——そのさらに奥を見た。ランバルトの、奥を。
「ヴァルクが、いなくなれば」
シバの目が動いた。
ケンジは続けた。
「今、逃がせるのは、家族だけです。村は救えない。でもヴァルクを倒せれば——逃がせなかった村ごと自由になります」
少し間を置いた。
「だから、逃がすのは半分です。残りの半分はヴァルクを倒すための準備です」
シバは長いこと黙っていた。
それから聞いた。
「ヴァルクを、どうやって倒す」
「わかりません」
ケンジは正直に言った。
「でも、逃がすだけでは足りないことは、わかりました」
◇
シバがギルドを出ていった。
経路を詰め直すために。
ケンジは一人、カウンターに残った。
空になったベルタ焼きの盆があった。
昨日、シバは半分を隠さなかった。
今日は、一枚を置いていった。
帳面を開く。
逃がせるのは家族。
救えないのは村。
今は。
ヴァルクを倒せば、村ごと自由になる。
ケンジはペンを止めた。
帳面の隅にもう一行書いた。
救えなかった村のために、元を断つ。
書いて、しばらく見ていた。
それから帳面を閉じた。




