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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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第五十七話:塞いだ柵の穴

朝、ケンジはカウンターで帳面を開いた。


二日熱を出した。


ティナが捕虜の食事を差配し、ミーデルが名簿を続け、レイモンドとシバが未来を聞いた。ケンジが覚えていない指示で、ケンジがいなくても回っていた。


悪くなかった。

そう思いながら、帳面の前のページを繰った。


本陣で書いたページ。ヴォルスの前で脳に魔力を回して組んだあの理屈。

連座を、逆向きにする。一人が密告すればまだ逃げ終わっていない家族が殺される。その中には密告した本人の家族もいる。だから誰も密告できない。


あの場では完璧に見えた。

加速した頭の中で、破片を速さで繋いで、ヴォルスの剣を下ろさせた。鮮やかだったと皆が言った。アンばあさんは、うまくいくよと言った。

ケンジはそのページをしばらく見ていた。



落ち着いた頭で、もう一度読んだ。

普通の速さで。一行ずつ。


——家族。


兵の家族は、村に住んでいる。

その村には家族以外の人間もいる。


ケンジは、帳面に書いた。普通の速さで。


兵の家族を逃がす。

その下に、もう一行。

同じ村の他の人間は。


兵の家族だけが村から消える。残った村人は気づく。あの家は息子が寝返ったからいなくなった、と。それが本国に漏れる。


ペンが止まった。



しばらく動けなかった。

あの時見えていなかった。脳に魔力を回して、全部が見えていたつもりだった。でも見えていたのは、目の前の問題の、最適な解き方だけだった。


速さは、あった。

視野が、なかった。


加速した頭は速く解く。でも解く枠そのものは広げない。家族という枠の中で最速で解いた。枠の外の、村、は、最初から視野に入っていなかった。


ケンジはペンを置いた。

「……穴が、あった」


誰にも聞こえない声で言った。

カウンターには誰もいなかった。朝の早い時間だった。


ベルタ焼きの匂いがした。

顔を上げるとシバが立っていた。

手に木の盆を持っていた。屋台で買ってきたらしい。ベルタ焼きが、一枚。

シバが盆をカウンターに置いた。

ケンジは少し驚いた。シバが自分からギルドに来た。しかもベルタ焼きを持って。


「シバさん。おはようございます」


「経路の、続きだ」

シバが地図を出した。昨日二人で線を引いた、あの地図だった。


「昨日引いた道。家で考え直した。沢沿いの道、冬の終わりは雪解けで増水する。今は、まだ使える。だが、逃がすのにひと月かかるなら、終わりの頃には、使えなくなる」

シバは地図に新しい線を引いた。


ケンジはそれを見た。

昨日、シバは「信じたわけじゃない」と言った。なのに、家に帰って、道のことを考え続けて、増水まで読んで、朝、自分から持ってきた。

組む、とは言っていない。でも、もう組んでいた。


それから言った。

「シバさん」


「なんだ」


「昨日の作戦には、穴がありました」

シバのペンが止まった。



ケンジは自分の帳面の、二行をシバに見せた。普通の速さで書いた、二行を。

シバはそれを長いこと見ていた。

読めない文字を、見ているのではなかった。意味を噛んでいる目だった。

それからぽつりと言った。


「……村ごと、ということか」


ケンジは頷いた。


「無理だ」

シバが言った。


短かった。


「村は、人数が違う。家族なら数人だ。村は、数十人、数百人だ。一人ずつ国境を越えさせる道で、村ごとは運べない。途中で、必ず、見つかる」


「はい」


「全部の村は、救えない」

シバの声が低くなった。


ケンジは答えなかった。


その通りだった。家族なら逃がせる。村ごとは逃がせない。救える者と、救えない者が出る。

橋でも、森でも、なるべく殺さずに済んだ。完璧に近かった。


でもここでは。

救えない者が、構造として出てしまう。



シバが地図を見ていた。

自分の引いた線を見ていた。経路。逃がす道。一人ずつしか通れない道。


「俺の、村は」

シバがぽつりと言った。


ケンジは顔を上げた。


「もうない。ランバルトが大きくなる時に、飲まれた。村ごと」


「あの時誰も来なかった。助けに。村ごと消えた。一人ずつ、逃げた奴はいた。でも村はなくなった」

シバは地図から目を上げなかった。


「あんたの言う穴。村の他の人間はどうなる。——それを聞いて、考えなかった人間はいない。村が飲まれる側にいた人間なら」


ケンジは黙っていた。


「家族だけ助かる。村は置いていく。それがどういうことか。俺は、知っている」


シバが初めてケンジをまっすぐ見た。


「あんたは、知らないだろう。なのに気づいた。誰にも言われずに。自分で」


少し間があった。


「昨日あんたは、測れない男だった。今日は——」


シバは言葉を選んだ。

「穴に自分で気づいて、それを、隠さない男だ」



ケンジはその言葉をどう受け取っていいかわからなかった。

褒められたのか、責められたのか。シバの声ではわからなかった。

ただシバは続けた。


「組む」

短かった。


ケンジがシバを見た。


「昨日は、信じたわけじゃないと言った。今日も信じたわけじゃない。だが、組む」

シバは地図を指で叩いた。


「完璧な作戦を持ってくる男なら、組まない。そういう男は、都合の悪いところを隠す。間違っていないふりをする」

シバの指が止まった。


「お前は、穴を自分から見せた。救えない者がいると、認めた。——そういう男となら、組める」


ケンジはしばらく黙っていた。


それから言った。

「ありがとうございます」


「礼はいい」

シバはベルタ焼きの盆をケンジの方へ少し押した。


「食え。冷める」


ケンジはベルタ焼きを一口食べた。

シバがそれを見ていた。


「だが」

シバが言った。


「組んでも、全部の村は救えない。それは変わらない。お前が気づいても、俺が組んでも、道は一人ずつしか通れない。村ごとは運べない」


「はい」


「どうする」


ケンジは地図を見た。

救える者と、救えない者。家族は逃がせる。村は逃がせない。その線をどこで引くのか。誰を救って、誰を、置いていくのか。


それはケンジが一番やりたくないことだった。

誰も選別しなかった。全部生かす方に組んだ。


でも、ここでは。

選ばなければならない。

ケンジはその重さを初めて手に持った。


「……今は」

ケンジは言った。


「今は救えません。村ごとは」


シバがケンジを見た。


「でも、村ごと救う道が、一つだけあります」


「言え」


ケンジは地図の川の向こうを——そのさらに奥を見た。ランバルトの、奥を。

「ヴァルクが、いなくなれば」


シバの目が動いた。


ケンジは続けた。

「今、逃がせるのは、家族だけです。村は救えない。でもヴァルクを倒せれば——逃がせなかった村ごと自由になります」


少し間を置いた。

「だから、逃がすのは半分です。残りの半分はヴァルクを倒すための準備です」


シバは長いこと黙っていた。

それから聞いた。

「ヴァルクを、どうやって倒す」


「わかりません」

ケンジは正直に言った。


「でも、逃がすだけでは足りないことは、わかりました」



シバがギルドを出ていった。

経路を詰め直すために。


ケンジは一人、カウンターに残った。

空になったベルタ焼きの盆があった。


昨日、シバは半分を隠さなかった。

今日は、一枚を置いていった。


帳面を開く。


逃がせるのは家族。

救えないのは村。

今は。


ヴァルクを倒せば、村ごと自由になる。


ケンジはペンを止めた。

帳面の隅にもう一行書いた。


救えなかった村のために、元を断つ。


書いて、しばらく見ていた。

それから帳面を閉じた。


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