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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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第五十六話:測れない男

呼ばれたのは昼前だった。


「シバさん。少しいいですか」


ミーデルだった。名簿を抱えた商家の娘。この二日、隣で捕虜の名前を書き続けた女だ。シバが言葉の通じない兵の声を渡し、ミーデルが書いた。


「通訳をお願いしたいんです」


足が止まりかけた。

「また聞き取りか」


「いえ。今日は——」

ミーデルが少し言葉を選んだ。


「ケンジさんが、話したいことがあるそうです」


ケンジ。

名前は知っていた。聞かされていた。

トールという若い冒険者がこう言った。難しいことは全部ケンジさんなので、と。

レイモンドという町長も何かにつけてその名を出した。

その名は、ひとつの像を結んでいた。

橋で、百五十を橋ごと川に落とした男。森で、六十五を誰にも斬らせずに溶かした男。本陣の喉元まで攻め込んで、それでいて一人も殺さなかった男。


伝令だった。いろんな軍を見てきた。そういうことができる人間がどういう顔をしているか、知っていた。

冷たい目をしている。人を駒として数える目だ。数えて、動かして、捨てる。有能なほどその目は乾いている。

そういう男に、会わされる。

身構えた。



ギルドの一室に通された。

机があった。地図が広げてある。その前に男が一人座っていた。

その男を見た。


——拍子抜けした。

シバはその痩せた男をしばらく見ていた。


背は、並。

武器は、持っていない。

鎧も着ていない。

身なりは、ごく普通だった。

歳は、三十の半ばか、後半か。


そして、顔に、何もなかった。

冷たくもない。鋭くもない。威圧も、ない。あの、人を数える乾いた目——シバが身構えていたもの——がどこにもなかった。


何を考えているのか読めない。怒っているのか、機嫌がいいのか、こちらをどう見ているのか、何ひとつ表に出ていない。

シバは人を測る目を持っていた。伝令として、いろんな土地のいろんな人間を見てきた。相手が何を欲しているか、何を恐れているか、顔と仕草でたいてい読めた。

この男が読めなかった。

冷たい男なら、冷たさで測れた。野心のある男なら、野心で測れた。

だが、この男には、測る取っかかりが、なかった。


「シバさん、ですね」

男が口を開いた。


「ケンジと申します。ベルタ冒険者ギルドの受付です」

受付。

シバはその言葉を頭の中で転がした。

橋を沈め、森を溶かし、本陣の喉元を取った男が。

受付。


「……あんたが」

シバはたどたどしいベルタの言葉で言った。


「あんたが、あの軍師か」


ケンジが少し首を傾げた。

「軍師では、ないです。戦えないので」


「だが、橋を落としたのは」


「落としたのは、橋に細工をした職人と、合図を出した者と、金具を抜いた者です。私は考えただけです」


謙遜ではなかった。誇るでも、卑下するでもなく、ただ事実を述べていた。私は考えただけ、と。

シバはまた測れなくなった。

手柄を誇る男なら、測れた。手柄を譲る男も、たいていは、譲ることで何かを得ようとしている。

だが、この男は譲ることで何も得ようとしていなかった。本当に、ただ、そう思っているだけだった。


——気味が悪い。


シバはそう思った。同時に、ほんの少し興味を持った。



「座ってください」

ケンジが向かいの椅子を示した。


シバは座った。机の上の地図が目に入った。

国境だった。

知っている土地だった。川。森。街道。それと、いくつかの村。ランバルト側の。

伝令として歩いた道が、そこにあった。


「逃がす、という話を聞きましたか」

ケンジが言った。


「捕虜の家族を、ランバルトから国境の外へ。一人ずつ」


「聞いた」

シバは短く答えた。レイモンドから聞いていた。寝返った兵の家族を逃がす。逃がし終わるまで、戦っているふりを続ける、と。


「正気か、と思った」

シバは言った。


「何百人だ。一人ずつ、国境を越えさせる。途中で一人でも捕まれば、全部露見する。ランバルトの国境は甘くない」


「甘くない、というのは」

ケンジが聞いた。


「どのあたりが、甘くないですか」


シバは口を開きかけて——止まった。

聞かれている。経路を。

シバはそれを知っている。誰よりも。伝令として何度も越えた。どこに見張りがいて、どこが手薄で、どの季節にどの道が使えなくなるか。体で覚えている。


警戒が、頭の隅で鳴った。

——これは引き出されている。


この男はこちらが国境を知っていると、わかっている。だから聞いている。さりげなく。経路を。

渡せば、シバはベルタの側に立つことになる。まだ決めていない。信じると、決めていない。


シバは黙った。

ケンジは急かさなかった。

地図をこちらに向けて、ただ待っていた。何も言わなかった。説き伏せようともしなかった。


その待ち方が——レイモンドと同じだった。

押せば退くと、わかっている待ち方だった。

引いて、覗き込ませる待ち方。

シバはわかっていて、それでも。

地図の一点に目がいった。

川沿いの街道の印。そこに、見張り小屋が描かれていない。


「……ここは違う」

口が、勝手に動いた。


「ここに見張りがある。地図にはない。冬は特に増える。川が凍って向こう岸から渡れるからだ。ここを通れば、捕まる」

言ってから、シバは舌を打ちたくなった。


渡してしまった。

警戒していたのに。決めていなかったのに。元伝令の血が、地図の間違いを見過ごせなかった。間違った道で人が捕まるのが、わかっていて黙っていられなかった。


ケンジがその一点を見た。

「では、どこを通れば」

聞いた。

責めもせず、勝ち誇りもせず。シバが渡したことを、当たり前のように受け取って、次を聞いた。


シバはもう一度地図を見た。

そして——指が動いた。

「……ここだ。沢沿い。遠回りになるが、見張りがいない。冬でも凍らない流れだから、向こうも油断している」


渡していた。

二つ目を。



気づけば半刻が過ぎていた。

地図の上に、何本も線が引かれていた。シバが引いた線だった。使える道、使えない道、季節で変わる道、見張りの位置。シバの頭の中にあったものが、地図の上に出ていた。

ケンジはそれを書き留めていた。帳面に。一本ずつ、確かめながら。

シバは自分が何をしているのか、途中からわからなくなっていた。

測りに来た。この男がどういう人間か。だが、気づけば測るどころか、こちらが手の内を、地図の上に広げていた。


「シバさん」

ケンジが顔を上げた。


「助かりました。この道は、私たちではわかりませんでした」


「……礼はいい」

シバは目を逸らした。

「俺はまだ、あんたらを信じたわけじゃない」


「はい」

ケンジは頷いた。

あっさりと。


「信じてもらわなくていいです。道が正しいかどうかは、シバさんが信じているかどうかとは別なので。間違った道で人が捕まるのは、たぶんシバさんも嫌でしょう」


シバの言葉が止まった。

その通りだった。シバが道を渡したのは、ベルタを信じたからではない。間違った道で人が死ぬのが、嫌だっただけだ。それをこの男は見抜いていた。見抜いた上で、信じなくていい、と言った。


——測られていたのはどちらだ。

シバは初めて、背筋に冷たいものを感じた。



その時扉が開いた。

「ケンジー、まだやってんのか」


太い声だった。マレクだった。食材屋の。手に何か、平たい木の盆を持っている。

湯気が立っていた。

「昼、まだだろ。屋台のついでに焼いてきた」


盆を机の空いたところに置いた。

茶色い、円い、平たいものだった。表面に何か塗ってある。香ばしい匂いがした。シバの知らない匂いだった。


「ベルタ焼きだ」

マレクが言った。


「食え。冷めるとうまくない」


ケンジが「ありがとうございます」と言った。

それからシバを見た。


「シバさんもどうぞ。長くなったので」


シバはその茶色いものを見た。

警戒はしなかった。これは餌ではない。さっき街で見た。広場の屋台で、街の人間が当たり前に食っていたものだ。子供も、年寄りも、並んで買っていた。毒なら街の人間が先に死んでいる。


ただ——シバの手が無意識に動いた。

半分に割ろうとした。

片方を口に、片方を、上着の内側に。次に、いつ食えるか、わからないから。長年そうしてきた。体に染みついていた。


だが、割れなかった。

熱かった。焼きたてで、湯気が立っていて、半分に割ろうとした手が、その熱さに止まった。それに——とろりとした中身が、布に入れれば、上着が汚れる。隠せる物ではなかった。


シバは仕方なく、その場で口に入れた。

止まらなかった。

熱いはずだった。気にしていなかった。一口、また一口。香ばしい外側と、柔らかい中身。塗ってあるものの、甘さと、しょっぱさ。シバの知らない味だった。だが、体が知っているような気がした。温かいものを腹に入れる。それだけのことが、こんなに——


気づけば、盆は空だった。

シバは、口元を手の甲で拭った。

うまい、とは、言わなかった。言うつもりもなかった。ただ黙って、食い終えた。


ケンジは何も言わなかった。シバが食べ終わったことに、気づいているのか、いないのか。

何もなかったような顔で、地図に何かを書き足していた。


マレクが盆を下げながら言った。

「足りるか? もう一枚、焼くか?」


「……いや」

シバは短く答えた。


「もう、いい」

本当はもう一枚食いたかった。

だが、それは言わなかった。


それからも、地図の確認は続いた。

沢、森、古い橋、徴税の道。シバが忘れていた道まで、ケンジはひとつずつ拾った。



ギルドを出た時、日が傾いていた。

シバは裏庭の火のそばに戻って、一人になった。

捕虜たちが火を囲んでいた。誰も欠けていなかった。今日も。


シバは火を見ながら考えていた。

測りに行った。あの男がどういう人間か。橋を沈め、森を溶かした男の、底を見てやろうと思った。

何も測れなかった。

冷たくもなく、鋭くもなく、手柄を誇らず、信じろとも言わず、こちらが信じていないことを、当たり前に受け入れた。測る取っかかりがどこにもなかった。


逆に、こちらが見られていた気がした。

道を渡したのも、信じたからではないと見抜かれた。間違った道で人が死ぬのが嫌なだけだと、言い当てられた。シバが自分でもうまく言葉にしていなかったことを、あの男は言った。


——気味が悪い。


シバはもう一度そう思った。

だがその気味の悪さは。

不快ではなかった。

ずっとシバは人を測って生きてきた。相手の欲を読み、恐れを読み、先回りして、生き延びてきた。測れない相手は危険だった。危険なはずだった。


なのにこの男の前では。

測らなくても、いい気がした。

測って、先回りして、身構えていなくても、害が来ない気がした。そういう相手は、シバの人生で初めてだった。


火がはぜた。

シバは、自分の上着の内側に手をやった。

何も入っていなかった。

いつもなら、何か入れている。次に食えない時のための、半切れの何かを。だが今日は入っていなかった。

入れる暇がなかった。

全部、その場で食ってしまったから。


シバはしばらく空の上着の内側を、手で押さえていた。

それから火を見た。


「……ベルタ焼き、か」

誰にも聞こえない声で言った。

ベルタの言葉だった。


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