第五十六話:測れない男
呼ばれたのは昼前だった。
「シバさん。少しいいですか」
ミーデルだった。名簿を抱えた商家の娘。この二日、隣で捕虜の名前を書き続けた女だ。シバが言葉の通じない兵の声を渡し、ミーデルが書いた。
「通訳をお願いしたいんです」
足が止まりかけた。
「また聞き取りか」
「いえ。今日は——」
ミーデルが少し言葉を選んだ。
「ケンジさんが、話したいことがあるそうです」
ケンジ。
名前は知っていた。聞かされていた。
トールという若い冒険者がこう言った。難しいことは全部ケンジさんなので、と。
レイモンドという町長も何かにつけてその名を出した。
その名は、ひとつの像を結んでいた。
橋で、百五十を橋ごと川に落とした男。森で、六十五を誰にも斬らせずに溶かした男。本陣の喉元まで攻め込んで、それでいて一人も殺さなかった男。
伝令だった。いろんな軍を見てきた。そういうことができる人間がどういう顔をしているか、知っていた。
冷たい目をしている。人を駒として数える目だ。数えて、動かして、捨てる。有能なほどその目は乾いている。
そういう男に、会わされる。
身構えた。
◇
ギルドの一室に通された。
机があった。地図が広げてある。その前に男が一人座っていた。
その男を見た。
——拍子抜けした。
シバはその痩せた男をしばらく見ていた。
背は、並。
武器は、持っていない。
鎧も着ていない。
身なりは、ごく普通だった。
歳は、三十の半ばか、後半か。
そして、顔に、何もなかった。
冷たくもない。鋭くもない。威圧も、ない。あの、人を数える乾いた目——シバが身構えていたもの——がどこにもなかった。
何を考えているのか読めない。怒っているのか、機嫌がいいのか、こちらをどう見ているのか、何ひとつ表に出ていない。
シバは人を測る目を持っていた。伝令として、いろんな土地のいろんな人間を見てきた。相手が何を欲しているか、何を恐れているか、顔と仕草でたいてい読めた。
この男が読めなかった。
冷たい男なら、冷たさで測れた。野心のある男なら、野心で測れた。
だが、この男には、測る取っかかりが、なかった。
「シバさん、ですね」
男が口を開いた。
「ケンジと申します。ベルタ冒険者ギルドの受付です」
受付。
シバはその言葉を頭の中で転がした。
橋を沈め、森を溶かし、本陣の喉元を取った男が。
受付。
「……あんたが」
シバはたどたどしいベルタの言葉で言った。
「あんたが、あの軍師か」
ケンジが少し首を傾げた。
「軍師では、ないです。戦えないので」
「だが、橋を落としたのは」
「落としたのは、橋に細工をした職人と、合図を出した者と、金具を抜いた者です。私は考えただけです」
謙遜ではなかった。誇るでも、卑下するでもなく、ただ事実を述べていた。私は考えただけ、と。
シバはまた測れなくなった。
手柄を誇る男なら、測れた。手柄を譲る男も、たいていは、譲ることで何かを得ようとしている。
だが、この男は譲ることで何も得ようとしていなかった。本当に、ただ、そう思っているだけだった。
——気味が悪い。
シバはそう思った。同時に、ほんの少し興味を持った。
◇
「座ってください」
ケンジが向かいの椅子を示した。
シバは座った。机の上の地図が目に入った。
国境だった。
知っている土地だった。川。森。街道。それと、いくつかの村。ランバルト側の。
伝令として歩いた道が、そこにあった。
「逃がす、という話を聞きましたか」
ケンジが言った。
「捕虜の家族を、ランバルトから国境の外へ。一人ずつ」
「聞いた」
シバは短く答えた。レイモンドから聞いていた。寝返った兵の家族を逃がす。逃がし終わるまで、戦っているふりを続ける、と。
「正気か、と思った」
シバは言った。
「何百人だ。一人ずつ、国境を越えさせる。途中で一人でも捕まれば、全部露見する。ランバルトの国境は甘くない」
「甘くない、というのは」
ケンジが聞いた。
「どのあたりが、甘くないですか」
シバは口を開きかけて——止まった。
聞かれている。経路を。
シバはそれを知っている。誰よりも。伝令として何度も越えた。どこに見張りがいて、どこが手薄で、どの季節にどの道が使えなくなるか。体で覚えている。
警戒が、頭の隅で鳴った。
——これは引き出されている。
この男はこちらが国境を知っていると、わかっている。だから聞いている。さりげなく。経路を。
渡せば、シバはベルタの側に立つことになる。まだ決めていない。信じると、決めていない。
シバは黙った。
ケンジは急かさなかった。
地図をこちらに向けて、ただ待っていた。何も言わなかった。説き伏せようともしなかった。
その待ち方が——レイモンドと同じだった。
押せば退くと、わかっている待ち方だった。
引いて、覗き込ませる待ち方。
シバはわかっていて、それでも。
地図の一点に目がいった。
川沿いの街道の印。そこに、見張り小屋が描かれていない。
「……ここは違う」
口が、勝手に動いた。
「ここに見張りがある。地図にはない。冬は特に増える。川が凍って向こう岸から渡れるからだ。ここを通れば、捕まる」
言ってから、シバは舌を打ちたくなった。
渡してしまった。
警戒していたのに。決めていなかったのに。元伝令の血が、地図の間違いを見過ごせなかった。間違った道で人が捕まるのが、わかっていて黙っていられなかった。
ケンジがその一点を見た。
「では、どこを通れば」
聞いた。
責めもせず、勝ち誇りもせず。シバが渡したことを、当たり前のように受け取って、次を聞いた。
シバはもう一度地図を見た。
そして——指が動いた。
「……ここだ。沢沿い。遠回りになるが、見張りがいない。冬でも凍らない流れだから、向こうも油断している」
渡していた。
二つ目を。
◇
気づけば半刻が過ぎていた。
地図の上に、何本も線が引かれていた。シバが引いた線だった。使える道、使えない道、季節で変わる道、見張りの位置。シバの頭の中にあったものが、地図の上に出ていた。
ケンジはそれを書き留めていた。帳面に。一本ずつ、確かめながら。
シバは自分が何をしているのか、途中からわからなくなっていた。
測りに来た。この男がどういう人間か。だが、気づけば測るどころか、こちらが手の内を、地図の上に広げていた。
「シバさん」
ケンジが顔を上げた。
「助かりました。この道は、私たちではわかりませんでした」
「……礼はいい」
シバは目を逸らした。
「俺はまだ、あんたらを信じたわけじゃない」
「はい」
ケンジは頷いた。
あっさりと。
「信じてもらわなくていいです。道が正しいかどうかは、シバさんが信じているかどうかとは別なので。間違った道で人が捕まるのは、たぶんシバさんも嫌でしょう」
シバの言葉が止まった。
その通りだった。シバが道を渡したのは、ベルタを信じたからではない。間違った道で人が死ぬのが、嫌だっただけだ。それをこの男は見抜いていた。見抜いた上で、信じなくていい、と言った。
——測られていたのはどちらだ。
シバは初めて、背筋に冷たいものを感じた。
◇
その時扉が開いた。
「ケンジー、まだやってんのか」
太い声だった。マレクだった。食材屋の。手に何か、平たい木の盆を持っている。
湯気が立っていた。
「昼、まだだろ。屋台のついでに焼いてきた」
盆を机の空いたところに置いた。
茶色い、円い、平たいものだった。表面に何か塗ってある。香ばしい匂いがした。シバの知らない匂いだった。
「ベルタ焼きだ」
マレクが言った。
「食え。冷めるとうまくない」
ケンジが「ありがとうございます」と言った。
それからシバを見た。
「シバさんもどうぞ。長くなったので」
シバはその茶色いものを見た。
警戒はしなかった。これは餌ではない。さっき街で見た。広場の屋台で、街の人間が当たり前に食っていたものだ。子供も、年寄りも、並んで買っていた。毒なら街の人間が先に死んでいる。
ただ——シバの手が無意識に動いた。
半分に割ろうとした。
片方を口に、片方を、上着の内側に。次に、いつ食えるか、わからないから。長年そうしてきた。体に染みついていた。
だが、割れなかった。
熱かった。焼きたてで、湯気が立っていて、半分に割ろうとした手が、その熱さに止まった。それに——とろりとした中身が、布に入れれば、上着が汚れる。隠せる物ではなかった。
シバは仕方なく、その場で口に入れた。
止まらなかった。
熱いはずだった。気にしていなかった。一口、また一口。香ばしい外側と、柔らかい中身。塗ってあるものの、甘さと、しょっぱさ。シバの知らない味だった。だが、体が知っているような気がした。温かいものを腹に入れる。それだけのことが、こんなに——
気づけば、盆は空だった。
シバは、口元を手の甲で拭った。
うまい、とは、言わなかった。言うつもりもなかった。ただ黙って、食い終えた。
ケンジは何も言わなかった。シバが食べ終わったことに、気づいているのか、いないのか。
何もなかったような顔で、地図に何かを書き足していた。
マレクが盆を下げながら言った。
「足りるか? もう一枚、焼くか?」
「……いや」
シバは短く答えた。
「もう、いい」
本当はもう一枚食いたかった。
だが、それは言わなかった。
それからも、地図の確認は続いた。
沢、森、古い橋、徴税の道。シバが忘れていた道まで、ケンジはひとつずつ拾った。
◇
ギルドを出た時、日が傾いていた。
シバは裏庭の火のそばに戻って、一人になった。
捕虜たちが火を囲んでいた。誰も欠けていなかった。今日も。
シバは火を見ながら考えていた。
測りに行った。あの男がどういう人間か。橋を沈め、森を溶かした男の、底を見てやろうと思った。
何も測れなかった。
冷たくもなく、鋭くもなく、手柄を誇らず、信じろとも言わず、こちらが信じていないことを、当たり前に受け入れた。測る取っかかりがどこにもなかった。
逆に、こちらが見られていた気がした。
道を渡したのも、信じたからではないと見抜かれた。間違った道で人が死ぬのが嫌なだけだと、言い当てられた。シバが自分でもうまく言葉にしていなかったことを、あの男は言った。
——気味が悪い。
シバはもう一度そう思った。
だがその気味の悪さは。
不快ではなかった。
ずっとシバは人を測って生きてきた。相手の欲を読み、恐れを読み、先回りして、生き延びてきた。測れない相手は危険だった。危険なはずだった。
なのにこの男の前では。
測らなくても、いい気がした。
測って、先回りして、身構えていなくても、害が来ない気がした。そういう相手は、シバの人生で初めてだった。
火がはぜた。
シバは、自分の上着の内側に手をやった。
何も入っていなかった。
いつもなら、何か入れている。次に食えない時のための、半切れの何かを。だが今日は入っていなかった。
入れる暇がなかった。
全部、その場で食ってしまったから。
シバはしばらく空の上着の内側を、手で押さえていた。
それから火を見た。
「……ベルタ焼き、か」
誰にも聞こえない声で言った。
ベルタの言葉だった。




