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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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第五十五話:旗を立てる

その夜、役場の一室に卓が囲まれた。

ケンジ、イレーナ、セレス。それと、ガドとレイモンド。


オルフェンはいなかった。呼ばなかった。

この話は、まだあの男に聞かせるものではなかった。

卓の上に地図が広げてあった。ベルタ。川。その向こうのランバルト。


セレスが口を開いた。


「援軍として参りました」

軍人の声だった。


「ですが、着いてみれば、戦はほぼ終わっている。捕虜が百人。死者はベルタ側にゼロ。正直に申し上げます」


「我々の出番は、もうないように見えます」


率直な男だった。手柄を欲しがって、無理に役目を作ろうとはしなかった。

そこにケンジは好感を持った。


「来ていただいて、助かりました」

ケンジは言った。


「要請したのはこちらです。あの時は本当に間に合わないと思っていました」


「では、何が起きたのですか」


「街のみんなが動いたので」


ケンジは地図の川の向こうを指した。


「ここからは、見ていただいた上で聞いてほしい話です」


卓の全員がケンジを見た。


「ランバルト軍は、もう、攻めてきません」


セレスの眉が動いた。


「指揮官のヴォルスと、参謀のアデルが、ベルタ側に付きました」


「……寝返った、と?」


「正確には、違います」

ケンジは首を振った。


「寝返れば、本国にいる兵の家族が殺されます。ランバルトは連座で兵を縛っています。負けて帰れば死ぬ。裏切れば家族も死ぬ。だから寝返れません」


セレスの顔が強張った。


「戦っているふりを、続けてもらっています」

卓が静かになった。


「川向こうでは、今も篝火が焚かれています。攻めあぐねている軍の火です。本国にはこう報告が上がっています。ベルタは防備が堅く、攻略できず、苦戦中だと」

ケンジは淡々と言った。


「嘘です。全部。でもその嘘が、兵の家族を守っています」


「報告を書いているのは」


「アデルです。元は本国がヴォルス隊に付けた監視役でした。一番信用されていた目が、今、一番大きな嘘を書いています。本国はまだ気づいていません」


セレスはしばらく地図を見ていた。

軍人として、その仕掛けの危うさを測っていた。そして、その仕掛けがすでに回っていることを、認めた顔になった。

「……いつまで、保ちます」


「わかりません」

ケンジは正直に言った。


「本国が督促を送ってくるまでは保ちます。督促が来たら、まだ攻めている、もう少しだ、と書く。その間に、兵の家族を一人ずつ、国境の外へ逃がします。逃がし終われば、ヴォルス隊はもう本国を恐れずに動けます」


「逃がす先は」


ここでケンジはイレーナを見た。

イレーナが頷いた。


「王都です」

ケンジは言った。


「ランバルトから逃げた人間を、受け入れる場所が要ります。それはベルタには荷が重い。国の仕事です」


セレスが息を呑んだ。

話の大きさに気づいた顔だった。


これは、辺境の一戦の後始末ではなかった。ランバルトという国を、内側から崩す話だった。逃げてきた兵とその家族は、いずれ、ランバルトに戻る道になる。新しい統治の土台になる。


「……これは」

セレスが言った。


「一つの軍を寝返らせ、その家族を国ごと受け入れ、いずれ、ランバルトの内側に、ベルタと王都に通じる人間を作る話ですか」


「結果としてそうなります」

ケンジは言った。


「私は、そこまで考えていませんでした。目の前の戦を終わらせたかっただけです。でも終わらせ方を考えたらこうなりました」


セレスはケンジを見ていた。


裏庭で抱いた問いの、答えが、また一つ増えていた。この男は戦を「終わらせる」のではなかった。次に「始める」ように終わらせていた。



「お願いしたいことが二つあります」

ケンジはセレスとイレーナを交互に見た。


「一つ。王都にも、この嘘を裏書きしてほしいんです」


「裏書き?」


「ベルタはランバルトとまだ戦っている。苦戦している。そう王都として認識してほしい。少なくとも、表向きは」

ケンジは言った。


「もし王都が、『ベルタはもう勝った』と公にすれば、ランバルト本国にそれが伝わります。伝わればヴォルスの嘘がばれます。兵の家族が殺されます」


セレスの顔が引き締まった。


「逆に、王都が、『ベルタは苦戦中』という話に乗ってくれれば、嘘の戦はもっと長く保ちます。本国は恐らく王都の動きも見ています。王都が深刻に構えていれば、本国はまだベルタは落ちる、と思い続ける」


「味方の、王都を欺くのではなく」

イレーナが言葉を選んだ。


「味方の王都に、同じ嘘をついてもらう」


「そうです」

ケンジは頷いた。


「敵を欺くために、味方にも同じ顔をしてもらいたい。これは王都の協力がないとできません」

セレスがイレーナを見た。


判断を仰ぐ目だった。これは軍人一人で決められる話ではなかった。改革派の政治の話だった。


イレーナが静かに言った。

「それは、改革派が引き受けます」


ケンジがイレーナを見た。


「王都には、ランバルトに無策ではいられない事情があります。あの国は国境で魔獣を放置して、魔力濃度を上げている。意図的にです。いずれ魔獣を兵器のように使う気だと、改革派は見ています」


イレーナの声が低くなった。

「ベルタのこの仕掛けは、そのランバルトを内側から弱らせます。改革派にとっては願ってもない話です。だから乗ります。『ベルタは苦戦中』。王都は、そう構え続けます」


「ありがとうございます」


「礼はいりません」


イレーナがわずかに笑った。


「これは、こちらの得にもなる話ですから。あなたの言う通り——全員が、少し得をして、誰も、潰れない」


ケンジが少しだけ目を見開いた。

それは、ケンジがいつも考えていることだった。口に出した覚えはなかった。

イレーナはそれ以上説明しなかった。ただ、またあの困ったような笑みを浮かべただけだった。



「二つ目は」

セレスが促した。


「援軍を、すぐには引き上げないでほしいんです」

ケンジは言った。


「えっ」


「川向こうのランバルト本国から見て、王都の援軍が来た、というのは大きな意味を持ちます。辺境の一戦が、国と国の話に上がったということなので」


ケンジは地図のベルタを指した。


「援軍がすぐ引き上げれば、本国は、『大した戦ではなかった』と思います。でも、援軍がしばらく駐留すれば、本国は、『王都が本気で守っている街だ』と思う。簡単には手が出せない、と」


セレスが理解した。

「我々がいること自体が、嘘の戦の裏付けになる」


「はい」


「一兵も、戦わずに」


「一兵も戦わずに」

ケンジは頷いた。


「むしろ、戦ってほしくないんです。今ここで本当に戦端を開けば、ヴォルスの嘘が崩れます。セレスさんたちには、ただいてほしい。王都の旗を立てて」


セレスはしばらく黙っていた。

それから小さく笑った。


「……剣を、抜くなと」


「はい」


「……妙な命令です」


「戦いに来ていただいたのに、すみません」


「いえ」

セレスは首を振った。


「逆です。難しい役目です。戦うより戦わずにいる方が、ずっと」


セレスの目に、あの裏庭で見せた色がまた差していた。憧れの顧問が立てた男の、底が、また少し見えた顔だった。


「やりましょう」

セレスは言った。


「王都の旗を立てます。ベルタの嘘の戦を、支えるために」



話がまとまった。

ガドがずっと黙っていた。

最後に、一度だけ口を開いた。

「セレスとか言ったな」


「はい」


「お前の兵を、川には近づけるな」

短かった。


「カーラとフィンが見ている。お前の兵が下手に動けば向こうから見える。嘘の戦に、王都の兵が本気で混じったとランバルトに思われる。それは、まずい」


セレスが頷いた。

「……承知しました。兵は街の内に留めます」


ガドがそれきり黙った。

レイモンドが横で頭を下げた。

「いやあ、助かります。本当に。王都の旗が立つだけで、こちらはずいぶん楽になりますので」


セレスは、その町長のぺこぺこと、笑わない目を見ていた。そして、隣の口数の少ない岩のようなギルド長を見た。


この街は奇妙だった。


受付が戦を組み、町長がぺこぺこしながら笑わない目をして、ギルド長が一言で兵の動きを止める。

奇妙で——強かった。


なぜイレーナ顧問が単身でここへ駆けつけたのか。セレスはその理由を、もう半分以上理解していた。



翌朝だった。

オルフェンはギルドの中にいた。

昨夜は、宿で一睡もしなかった。算盤を何度も弾いた。弾くたびに同じ答えが出た。


この街と、組んだ方が、いい。


巻き上げるのではなく。二割を取るのでもなく。組んで王都への販路を繋ぐ。それだけで十分な儲けになる。アンピークの品は王都で売れる。間に入るだけで利は出る。無理に首根っこを掴まなくても商売は成り立つ。


以前の自分なら考えもしなかった。後ろ盾を貸して二割。それが商売だと思っていた。

だがこの街は、後ろ盾を必要としない街だった。だから、後ろ盾では儲からない。組んで、初めて、儲かる。


——格が違う。

昨夜から、その言葉が頭を離れなかった。


朝一番に、ケンジに話をしに来た。組合を巻き上げる話ではない。販路の話だ。対等な商売の話だ。

そのつもりでギルドのカウンターへ向かった。


カウンターの奥に棚があった。

その棚に石が並んでいた。

オルフェンの足が止まった。

石は対になっていた。よく似た色の石が二つずつ。布の上に丁寧に置かれている。装飾品にしては地味だった。だが扱いが丁寧すぎた。


「……これは」

オルフェンが聞いた。


カウンターにいた若い男——ジンと呼ばれていた——が顔を上げた。

「魔石です」


「知っている。装飾品だろう。だがこれは——」


オルフェンは商人だった。石の価値はわかる。だがこの石の扱われ方が、わからなかった。

装飾品なら客に見せるように飾る。これは違った。

隠すでも、飾るでもなく、仕事の道具のように、対で置かれていた。


「割ってあるな」

オルフェンが言った。


「一つの石を二つに。なぜ割る。割れば価値が下がるだろう」


ジンが少し口ごもった。

何を言っていいかわからない顔だった。

そこへケンジが来た。


「副議長。おはようございます」


「ああちょうどいい。これは何だ。この割った石は」

ケンジは棚の石を見た。

それから平らな顔で言った。


「ただの魔石です」


「ただの魔石をこんなに丁寧に、対で並べるか」


「割ると面白い性質が出ることがあって。試しているところです」

ケンジは淡々と言った。


「まだ試作です。物になるかはわかりません」


オルフェンはその石をもう一度見た。

商人の勘が何かを告げていた。これはただの試作ではない。割って、対にして、これだけ丁寧に扱う。何か、ある。

だがそれが何かはわからなかった。

そしてケンジはそれ以上説明しなかった。


オルフェンは石から目を離した。

そもそも石を見に来たのではなかった。


「……ケンジ、と言ったな」


オルフェンが切り出した。

ふた月前は名も呼ばなかった男だった。受付、としか。


「話がある。組合を寄越せ、という話ではない」


ケンジがオルフェンを見た。


「販路だ。アンピークの品を王都で売りたい。間に私が入る。二割を取るという話ではない。正規の手数料でいい。対等な商売の話だ」


言ってからオルフェンは自分でも妙な気分になった。

丸腰のこの街に、二割を持ちかけた男が今、物資を握って来てなお、対等な手数料の話を自分からしている。

立場はこちらが上のはずだった。

なのに対等を申し出ている。

それが一番儲かると、昨夜の算盤が告げたからだった。


ケンジは少し間を置いた。

それから頷いた。


「それなら私ではなく、アンばあさんと、組合の人たちと話してください。私は受付なので」


「組合と、直に、か」


「はい。私が決める話ではないので。彼らが組みたいと思えば組みます」


オルフェンはその答えにまた、調子を狂わされた。

普通の街ならこういう話は、街の代表が上から差配する。

だがこの男は、組合に直接行け、と言う。決めるのは組合だ、と。受付は、ただ繋ぐだけだ、と。

権限を握ろうとしない。

それがふた月前、こちらが「個人に頼る仕組みは長続きしない」と侮った、その仕組みの正体だった。

一人が全部を握らない。だから、一人が倒れても回る。だから、長続きする。


——してやられた、というより。

ずっと見えていなかったのだ。


「……ああそうだな。組合と話そう」

オルフェンは頷いた。


石のことは、頭の隅に残った。

残ったまましまわれた。

いつか思い出すかもしれない、という形で。



オルフェンがアンばあさんと話をするために工房へ向かった。

その背中は、来た時より少しだけ軽く見えた。巻き上げる、という重い荷を、下ろしたからかもしれなかった。


ケンジはカウンターに戻った。

棚の石が朝の光に鈍く光っていた。


「ケンジさん」

ジンが小声で言った。


「あの人に石のこと、言わなくてよかったんですか」


「言わなくていいです」

ケンジは言った。


「まだ誰にも」

ジンが頷いた。それ以上は聞かなかった。


窓の外で王都の旗が立っていた。

街の外の宿営地にセレスの兵が駐留を始めていた。一兵も戦わない軍だった。ただいるだけの軍。

だがいるだけで、嘘の戦を、裏側から支える軍だった。


川向こうでは今日も、嘘の篝火が焚かれているはずだった。

ベルタは苦戦している。

ランバルト本国は、そう信じている。王都も、そう構えてくれる。

その二つの嘘の間で、兵の家族が、一人ずつ国境を越えていく。

戦えない男ひとりに、戦争は終わらせられない。


でも。

頼んで呼んだ援軍が間に合わなかった。

間に合わなかった援軍に別の役目を渡した。来てくれた力を、空振りにしないで、次に繋いだ。

それくらいはできた。


ケンジは帳面を開いた。

王都援軍、駐留開始。

嘘の戦の、裏付けとして。

改革派、嘘の裏書きを引き受け。

販路、オルフェン経由の話、組合へ。


書きながら思った。

味方が、来た。


王都が来るとカーラから聞いた夜、何かが引っかかった。

味方のはずなのに、と。

熱で頭が回らずに、その引っかかりの正体が掴めなかった。

今はわかる。

来る味方が、本当に味方かどうかは、来てみるまでわからなかった。


捕虜百人。

寝返った隊。

嘘の戦。


そのどれもが、見せ方を間違えれば、味方の手で壊されかねないものだった。だから引っかかった。

掴めないまま、それが確かに引っかかっていた。

でも、来たのはセレスだった。イレーナがいた。

味方は、味方だった。


今回は。


ケンジはペンを止めた。

帳面の隅にもう一行、書こうとして——やめた。

棚の対の石のことだった。


書けば、誰かが読む。読めば、いつか欲しがる者に伝わるかもしれない。

書かなかった。


その火種は、まだケンジの頭の中だけに置いておくことにした。

窓の外で、王都の旗が風に揺れていた。

戦は、まだ終わっていない。

表向きは。


そして、その裏で——終わらせる準備が、また一つ、進んでいた。


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