第五十五話:旗を立てる
その夜、役場の一室に卓が囲まれた。
ケンジ、イレーナ、セレス。それと、ガドとレイモンド。
オルフェンはいなかった。呼ばなかった。
この話は、まだあの男に聞かせるものではなかった。
卓の上に地図が広げてあった。ベルタ。川。その向こうのランバルト。
セレスが口を開いた。
「援軍として参りました」
軍人の声だった。
「ですが、着いてみれば、戦はほぼ終わっている。捕虜が百人。死者はベルタ側にゼロ。正直に申し上げます」
「我々の出番は、もうないように見えます」
率直な男だった。手柄を欲しがって、無理に役目を作ろうとはしなかった。
そこにケンジは好感を持った。
「来ていただいて、助かりました」
ケンジは言った。
「要請したのはこちらです。あの時は本当に間に合わないと思っていました」
「では、何が起きたのですか」
「街のみんなが動いたので」
ケンジは地図の川の向こうを指した。
「ここからは、見ていただいた上で聞いてほしい話です」
卓の全員がケンジを見た。
「ランバルト軍は、もう、攻めてきません」
セレスの眉が動いた。
「指揮官のヴォルスと、参謀のアデルが、ベルタ側に付きました」
「……寝返った、と?」
「正確には、違います」
ケンジは首を振った。
「寝返れば、本国にいる兵の家族が殺されます。ランバルトは連座で兵を縛っています。負けて帰れば死ぬ。裏切れば家族も死ぬ。だから寝返れません」
セレスの顔が強張った。
「戦っているふりを、続けてもらっています」
卓が静かになった。
「川向こうでは、今も篝火が焚かれています。攻めあぐねている軍の火です。本国にはこう報告が上がっています。ベルタは防備が堅く、攻略できず、苦戦中だと」
ケンジは淡々と言った。
「嘘です。全部。でもその嘘が、兵の家族を守っています」
「報告を書いているのは」
「アデルです。元は本国がヴォルス隊に付けた監視役でした。一番信用されていた目が、今、一番大きな嘘を書いています。本国はまだ気づいていません」
セレスはしばらく地図を見ていた。
軍人として、その仕掛けの危うさを測っていた。そして、その仕掛けがすでに回っていることを、認めた顔になった。
「……いつまで、保ちます」
「わかりません」
ケンジは正直に言った。
「本国が督促を送ってくるまでは保ちます。督促が来たら、まだ攻めている、もう少しだ、と書く。その間に、兵の家族を一人ずつ、国境の外へ逃がします。逃がし終われば、ヴォルス隊はもう本国を恐れずに動けます」
「逃がす先は」
ここでケンジはイレーナを見た。
イレーナが頷いた。
「王都です」
ケンジは言った。
「ランバルトから逃げた人間を、受け入れる場所が要ります。それはベルタには荷が重い。国の仕事です」
セレスが息を呑んだ。
話の大きさに気づいた顔だった。
これは、辺境の一戦の後始末ではなかった。ランバルトという国を、内側から崩す話だった。逃げてきた兵とその家族は、いずれ、ランバルトに戻る道になる。新しい統治の土台になる。
「……これは」
セレスが言った。
「一つの軍を寝返らせ、その家族を国ごと受け入れ、いずれ、ランバルトの内側に、ベルタと王都に通じる人間を作る話ですか」
「結果としてそうなります」
ケンジは言った。
「私は、そこまで考えていませんでした。目の前の戦を終わらせたかっただけです。でも終わらせ方を考えたらこうなりました」
セレスはケンジを見ていた。
裏庭で抱いた問いの、答えが、また一つ増えていた。この男は戦を「終わらせる」のではなかった。次に「始める」ように終わらせていた。
◇
「お願いしたいことが二つあります」
ケンジはセレスとイレーナを交互に見た。
「一つ。王都にも、この嘘を裏書きしてほしいんです」
「裏書き?」
「ベルタはランバルトとまだ戦っている。苦戦している。そう王都として認識してほしい。少なくとも、表向きは」
ケンジは言った。
「もし王都が、『ベルタはもう勝った』と公にすれば、ランバルト本国にそれが伝わります。伝わればヴォルスの嘘がばれます。兵の家族が殺されます」
セレスの顔が引き締まった。
「逆に、王都が、『ベルタは苦戦中』という話に乗ってくれれば、嘘の戦はもっと長く保ちます。本国は恐らく王都の動きも見ています。王都が深刻に構えていれば、本国はまだベルタは落ちる、と思い続ける」
「味方の、王都を欺くのではなく」
イレーナが言葉を選んだ。
「味方の王都に、同じ嘘をついてもらう」
「そうです」
ケンジは頷いた。
「敵を欺くために、味方にも同じ顔をしてもらいたい。これは王都の協力がないとできません」
セレスがイレーナを見た。
判断を仰ぐ目だった。これは軍人一人で決められる話ではなかった。改革派の政治の話だった。
イレーナが静かに言った。
「それは、改革派が引き受けます」
ケンジがイレーナを見た。
「王都には、ランバルトに無策ではいられない事情があります。あの国は国境で魔獣を放置して、魔力濃度を上げている。意図的にです。いずれ魔獣を兵器のように使う気だと、改革派は見ています」
イレーナの声が低くなった。
「ベルタのこの仕掛けは、そのランバルトを内側から弱らせます。改革派にとっては願ってもない話です。だから乗ります。『ベルタは苦戦中』。王都は、そう構え続けます」
「ありがとうございます」
「礼はいりません」
イレーナがわずかに笑った。
「これは、こちらの得にもなる話ですから。あなたの言う通り——全員が、少し得をして、誰も、潰れない」
ケンジが少しだけ目を見開いた。
それは、ケンジがいつも考えていることだった。口に出した覚えはなかった。
イレーナはそれ以上説明しなかった。ただ、またあの困ったような笑みを浮かべただけだった。
◇
「二つ目は」
セレスが促した。
「援軍を、すぐには引き上げないでほしいんです」
ケンジは言った。
「えっ」
「川向こうのランバルト本国から見て、王都の援軍が来た、というのは大きな意味を持ちます。辺境の一戦が、国と国の話に上がったということなので」
ケンジは地図のベルタを指した。
「援軍がすぐ引き上げれば、本国は、『大した戦ではなかった』と思います。でも、援軍がしばらく駐留すれば、本国は、『王都が本気で守っている街だ』と思う。簡単には手が出せない、と」
セレスが理解した。
「我々がいること自体が、嘘の戦の裏付けになる」
「はい」
「一兵も、戦わずに」
「一兵も戦わずに」
ケンジは頷いた。
「むしろ、戦ってほしくないんです。今ここで本当に戦端を開けば、ヴォルスの嘘が崩れます。セレスさんたちには、ただいてほしい。王都の旗を立てて」
セレスはしばらく黙っていた。
それから小さく笑った。
「……剣を、抜くなと」
「はい」
「……妙な命令です」
「戦いに来ていただいたのに、すみません」
「いえ」
セレスは首を振った。
「逆です。難しい役目です。戦うより戦わずにいる方が、ずっと」
セレスの目に、あの裏庭で見せた色がまた差していた。憧れの顧問が立てた男の、底が、また少し見えた顔だった。
「やりましょう」
セレスは言った。
「王都の旗を立てます。ベルタの嘘の戦を、支えるために」
◇
話がまとまった。
ガドがずっと黙っていた。
最後に、一度だけ口を開いた。
「セレスとか言ったな」
「はい」
「お前の兵を、川には近づけるな」
短かった。
「カーラとフィンが見ている。お前の兵が下手に動けば向こうから見える。嘘の戦に、王都の兵が本気で混じったとランバルトに思われる。それは、まずい」
セレスが頷いた。
「……承知しました。兵は街の内に留めます」
ガドがそれきり黙った。
レイモンドが横で頭を下げた。
「いやあ、助かります。本当に。王都の旗が立つだけで、こちらはずいぶん楽になりますので」
セレスは、その町長のぺこぺこと、笑わない目を見ていた。そして、隣の口数の少ない岩のようなギルド長を見た。
この街は奇妙だった。
受付が戦を組み、町長がぺこぺこしながら笑わない目をして、ギルド長が一言で兵の動きを止める。
奇妙で——強かった。
なぜイレーナ顧問が単身でここへ駆けつけたのか。セレスはその理由を、もう半分以上理解していた。
◇
翌朝だった。
オルフェンはギルドの中にいた。
昨夜は、宿で一睡もしなかった。算盤を何度も弾いた。弾くたびに同じ答えが出た。
この街と、組んだ方が、いい。
巻き上げるのではなく。二割を取るのでもなく。組んで王都への販路を繋ぐ。それだけで十分な儲けになる。アンピークの品は王都で売れる。間に入るだけで利は出る。無理に首根っこを掴まなくても商売は成り立つ。
以前の自分なら考えもしなかった。後ろ盾を貸して二割。それが商売だと思っていた。
だがこの街は、後ろ盾を必要としない街だった。だから、後ろ盾では儲からない。組んで、初めて、儲かる。
——格が違う。
昨夜から、その言葉が頭を離れなかった。
朝一番に、ケンジに話をしに来た。組合を巻き上げる話ではない。販路の話だ。対等な商売の話だ。
そのつもりでギルドのカウンターへ向かった。
カウンターの奥に棚があった。
その棚に石が並んでいた。
オルフェンの足が止まった。
石は対になっていた。よく似た色の石が二つずつ。布の上に丁寧に置かれている。装飾品にしては地味だった。だが扱いが丁寧すぎた。
「……これは」
オルフェンが聞いた。
カウンターにいた若い男——ジンと呼ばれていた——が顔を上げた。
「魔石です」
「知っている。装飾品だろう。だがこれは——」
オルフェンは商人だった。石の価値はわかる。だがこの石の扱われ方が、わからなかった。
装飾品なら客に見せるように飾る。これは違った。
隠すでも、飾るでもなく、仕事の道具のように、対で置かれていた。
「割ってあるな」
オルフェンが言った。
「一つの石を二つに。なぜ割る。割れば価値が下がるだろう」
ジンが少し口ごもった。
何を言っていいかわからない顔だった。
そこへケンジが来た。
「副議長。おはようございます」
「ああちょうどいい。これは何だ。この割った石は」
ケンジは棚の石を見た。
それから平らな顔で言った。
「ただの魔石です」
「ただの魔石をこんなに丁寧に、対で並べるか」
「割ると面白い性質が出ることがあって。試しているところです」
ケンジは淡々と言った。
「まだ試作です。物になるかはわかりません」
オルフェンはその石をもう一度見た。
商人の勘が何かを告げていた。これはただの試作ではない。割って、対にして、これだけ丁寧に扱う。何か、ある。
だがそれが何かはわからなかった。
そしてケンジはそれ以上説明しなかった。
オルフェンは石から目を離した。
そもそも石を見に来たのではなかった。
「……ケンジ、と言ったな」
オルフェンが切り出した。
ふた月前は名も呼ばなかった男だった。受付、としか。
「話がある。組合を寄越せ、という話ではない」
ケンジがオルフェンを見た。
「販路だ。アンピークの品を王都で売りたい。間に私が入る。二割を取るという話ではない。正規の手数料でいい。対等な商売の話だ」
言ってからオルフェンは自分でも妙な気分になった。
丸腰のこの街に、二割を持ちかけた男が今、物資を握って来てなお、対等な手数料の話を自分からしている。
立場はこちらが上のはずだった。
なのに対等を申し出ている。
それが一番儲かると、昨夜の算盤が告げたからだった。
ケンジは少し間を置いた。
それから頷いた。
「それなら私ではなく、アンばあさんと、組合の人たちと話してください。私は受付なので」
「組合と、直に、か」
「はい。私が決める話ではないので。彼らが組みたいと思えば組みます」
オルフェンはその答えにまた、調子を狂わされた。
普通の街ならこういう話は、街の代表が上から差配する。
だがこの男は、組合に直接行け、と言う。決めるのは組合だ、と。受付は、ただ繋ぐだけだ、と。
権限を握ろうとしない。
それがふた月前、こちらが「個人に頼る仕組みは長続きしない」と侮った、その仕組みの正体だった。
一人が全部を握らない。だから、一人が倒れても回る。だから、長続きする。
——してやられた、というより。
ずっと見えていなかったのだ。
「……ああそうだな。組合と話そう」
オルフェンは頷いた。
石のことは、頭の隅に残った。
残ったまましまわれた。
いつか思い出すかもしれない、という形で。
◇
オルフェンがアンばあさんと話をするために工房へ向かった。
その背中は、来た時より少しだけ軽く見えた。巻き上げる、という重い荷を、下ろしたからかもしれなかった。
ケンジはカウンターに戻った。
棚の石が朝の光に鈍く光っていた。
「ケンジさん」
ジンが小声で言った。
「あの人に石のこと、言わなくてよかったんですか」
「言わなくていいです」
ケンジは言った。
「まだ誰にも」
ジンが頷いた。それ以上は聞かなかった。
窓の外で王都の旗が立っていた。
街の外の宿営地にセレスの兵が駐留を始めていた。一兵も戦わない軍だった。ただいるだけの軍。
だがいるだけで、嘘の戦を、裏側から支える軍だった。
川向こうでは今日も、嘘の篝火が焚かれているはずだった。
ベルタは苦戦している。
ランバルト本国は、そう信じている。王都も、そう構えてくれる。
その二つの嘘の間で、兵の家族が、一人ずつ国境を越えていく。
戦えない男ひとりに、戦争は終わらせられない。
でも。
頼んで呼んだ援軍が間に合わなかった。
間に合わなかった援軍に別の役目を渡した。来てくれた力を、空振りにしないで、次に繋いだ。
それくらいはできた。
ケンジは帳面を開いた。
王都援軍、駐留開始。
嘘の戦の、裏付けとして。
改革派、嘘の裏書きを引き受け。
販路、オルフェン経由の話、組合へ。
書きながら思った。
味方が、来た。
王都が来るとカーラから聞いた夜、何かが引っかかった。
味方のはずなのに、と。
熱で頭が回らずに、その引っかかりの正体が掴めなかった。
今はわかる。
来る味方が、本当に味方かどうかは、来てみるまでわからなかった。
捕虜百人。
寝返った隊。
嘘の戦。
そのどれもが、見せ方を間違えれば、味方の手で壊されかねないものだった。だから引っかかった。
掴めないまま、それが確かに引っかかっていた。
でも、来たのはセレスだった。イレーナがいた。
味方は、味方だった。
今回は。
ケンジはペンを止めた。
帳面の隅にもう一行、書こうとして——やめた。
棚の対の石のことだった。
書けば、誰かが読む。読めば、いつか欲しがる者に伝わるかもしれない。
書かなかった。
その火種は、まだケンジの頭の中だけに置いておくことにした。
窓の外で、王都の旗が風に揺れていた。
戦は、まだ終わっていない。
表向きは。
そして、その裏で——終わらせる準備が、また一つ、進んでいた。




