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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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第五十四話:味方が来る

馬車が揺れた。

オルフェンは膝の上の帳面を閉じた。何度も同じ数字を見ていた。見るたびに機嫌が良くなる数字だった。


援軍の物資。糧食、矢、薬。その目録の末尾に自分の名がある。物資担当。商人組合副議長、自ら買って出た役回りだった。

幕僚たちは怪訝な顔をした。なぜ副議長がわざわざ辺境の援軍に。

恩を売りに行く、と答えておいた。生意気な辺境を、中央の統制下に置く下準備をしてまいります、と。保守派の重鎮たちは満足げに頷いた。面倒な仕事を誰かが進んで引き受けてくれる。それ以上を彼らは考えない。


本音は帳面の中にあった。

ベルタ。あの街だ。


ふた月前、査察で訪れた。鼻で笑った。小さな宿場町。台帳だの掲示板だの、受付の小僧が並べた仕組みを見るに堪えんと思った。

そのつもりで商談を持ちかけた。アンピークを組合に。ベルをこちらで回す。どちらも向こうの得になる話のはずだった。

断られた。


あの受付。ケンジとか言ったか。涼しい顔で「逆にできるんですか」と抜かした。そしてあの平民上がりの女顧問。条文がどうの、議長の承認がどうのと、衆人環視でこちらの顔を潰した。

忘れていなかった。

オルフェンは忘れる男ではなかった。

だが今度はこちらが物資を握っている。

苦戦している辺境だ。橋を落としたと聞くが所詮は時間稼ぎ。本隊が二百で押し寄せて、街は今ごろ青息吐息のはずだ。そこへ矢と糧食を抱えた男が現れる。


前回とは立場が逆だった。

すがってくるだろう。すがってきたところで足元を見る。物資が欲しければ組合を寄越せ。今度は承認も条文も、揃えてある。逃げ道は塞いだ。


ぐふ、と喉が鳴った。

二度目はない。


「何か」


前を行く馬上から声がした。

セレスだった。この援軍を率いる改革派の若い指揮官。三十そこそこ。線が細い。剣より書類が似合う顔をしている。イレーナ顧問の覚えがめでたいと聞くが、オルフェンに言わせればただの青二才だった。


「いえいえ。いい行軍だと思いましてな」


「そうですか」

セレスは前を向いたまま、それきり喋らなかった。


愛想のない男だ、とオルフェンは思った。こういう手合いは商売を知らない。数字の裏に人の欲があることを、知らない。

知らないまま出世していく。


それももうすぐ終わる。今回の手柄を横から掠め取らせてもらう。物資を握っているのは、こちらだ。

馬車がまた揺れた。



街道の先にベルタが見えてきた。

オルフェンは身を乗り出した。

ふた月前に見た塀。門。その向こうの屋根。

変わっていなかった。


いや——戦の最中だというのに変わっていない、というのがおかしかった。門の出入りが絶えない。塀の外で、何かを建てる槌の音がする。縮んでいる気配がどこにもなかった。

戦に削られた街が、なぜ。


近づくにつれ音が聞こえてきた。


声だった。


悲鳴ではなかった。怒号でもなかった。市の立つ音だった。物を売る声、値を交わす声、子供の笑う声。

オルフェンの眉が寄った。

「……戦の、最中ではないのか」


「最中です」

セレスが答えた。


「川向こうに、まだランバルトがいると聞いています」


「では、これは何だ」


「さあ」

セレスもわずかに首を傾げていた。その横顔に青二才の余裕のなさではない、別の色が差したのを、オルフェンは見逃した。見る気がなかった。


門が開いていた。

閉ざして守りを固めるでもなく、ただ、開いていた。人が出入りしていた。荷車が通っていた。

門の脇に人が立っていた。

出迎えだとオルフェンは思った。やっと来た、と泣きつかんばかりに、すり寄ってくるはずだった。


立っていたのは背の高い細身の男だった。

レイモンド。あの町長だ。ふた月前と同じ顔をしていた。腰が低く揉み手をして、ぺこぺことよく動く。


(またこれか)


オルフェンは知っていた。このぺこぺこがただの愛想ではないことを。ふた月前、この男は最後にひとつだけ条文を突いてきた。ぺこぺこの裏に何か食えないものを飼っている。小役人にしては油断ならない。

だが、それだけだ。所詮は辺境の町長。こちらは王都の援軍と物資を背負っている。


「これはこれは、遠路はるばるようこそおいでくださいました。はあ、もう、こんな辺境までご足労いただいて」

ぺこぺことレイモンドは頭を下げた。


「物資を持ってきてやった。どこへ運べばいい」


「はあ、それはそれは。助かります。ええ、本当に」

揉み手をしている。


「ただ、その」

ぺこぺこしたままレイモンドは言った。


「急ぎませんので、ゆっくりで結構ですよ。雪が降る前に届けば、それで」

揉み手が止まった。


急がない。


物資を、急がないと言った。

明日にも干上がる街の人間が言う言葉ではなかった。

ふた月前、この男はこちらの差し出した商談を「やれています」と断った街の町長だった。


(まさか、今度も)


役場へ案内される道すがら、オルフェンは街を見ていた。

困窮の影を探していた。

見つからなかった。


店は閉まっていなかった。棚に物が並んでいた。痩せ細った民が物乞いをするでもなく、誰もがそれぞれの仕事をしていた。

戦の街ではなかった。戦に勝った街でもなかった。ただ暮らしている街だった。戦が、その外側にあるかのように。ふた月前と、同じ顔で。


「……町長殿」


「はい、なんでございましょう」


「捕虜が、いると聞いたが」


レイモンドの足が、ほんの一瞬、緩んだ。

「ええ、おりますよ。百人ほど」


「百」


「橋で五十、森で五十五。逃げた者を引いて、今は百と少し」


「養っているのか。その数を」


「養っております。食わせないと死んでしまいますので」


事も無げに、レイモンドは言った。

オルフェンは計算した。商人の頭が勝手に弾いた。百人を毎日食わせる。糧食がどれだけいる。戦の最中に、敵兵を、百人。


割に合わない。

養うだけ損だ。捨て置けば死ぬ。死ねばそれだけ口が減る。商売ならそう考える。

なのに、この街は食わせている。


「……なぜだ」


つい、口に出た。


レイモンドが振り返った。

ぺこぺこした顔のまま、しかし、目だけが笑っていなかった。ふた月前最後に条文を突いてきた時の、あの目だった。


「さあ。私にもよくわかりません」


少し間を置いて続けた。

「そういうことを考える人間が、うちにはおりましてねえ」


オルフェンの背に、以前の記憶がよぎった。

涼しい顔で「逆にできるんですか」と言った、あの受付。



役場の一室に通された。

前と同じ部屋だった。

席に着いて、オルフェンは落ち着きを取り戻そうとした。


街が思ったより無事だったのは誤算だ。豊かになっていたのも業腹だ。だが、それだけのことだ。物資を握っているのはこちらだ。困っていないなら、困らせればいい。商売はいくらでもやりようがある。

ふた月前は丸腰で来た。今度は違う。

そう思い直した。


扉が開いた。

入ってきたのは、女だった。

その顔を見て、オルフェンの頬がひきつった。


イレーナ。


なぜここにいる。王都を出たという話は聞いていない。だが現にいる。旅装のまま。援軍より先に単身で乗り込んでいたとしか思えなかった。

ふた月前、衆人環視で、こちらの顔を潰した女。


(またお前か)


イレーナの目も、オルフェンを捉えてわずかに細くなった。覚えている目だった。お互いに。

その後ろから、もう一人。

ごく普通の身なりの、痩せた男だった。


ケンジ。

あの受付だ。ふた月前と何も変わらない顔をしていた。こちらを覚えているのかいないのか、それすら読ませない平らな顔。


イレーナが口を開いた。

「お久しぶりですね、副議長」


声に棘はなかった。棘がないことが、棘だった。

「ふた月年ぶりでしょうか。あの時は——条文の話でしたね」


オルフェンの奥歯が鳴った。


イレーナはそれ以上は言わず、後ろの男を手で示した。

「ご存じでしょうけど。ベルタ冒険者ギルドの受付、ケンジさんです」


ご存じでしょうけど。

知っているだろう、と。お前が組合に欲しがって、断られた男だと。


オルフェンはケンジを見た。

たかが、受付。

ふた月前、断った男。

ならば、なぜ。なぜ今、王都顧問が、自分より先に、その男を立てる。



役場の椅子に座ったオルフェンをケンジは見ていた。

ふた月前と同じ男だった。派手な服。金の装飾。腹は少し出ている。値踏みの目も変わっていない。違うのは、その目に前にはなかった粘りがあることだった。

断られたことを、覚えている目だった。


「単刀直入に言おう」

オルフェンが身を乗り出した。


「物資だ。矢、糧食、薬。王都がベルタのために用意した。雪が来る前の辺境には、命綱だろう」


「ありがとうございます」


「礼はいい」

オルフェンが手を振った。


「礼の代わりに話がある。前にもした話だ。アンピーク組合。あれを王都商人組合に入れる。今度は議長の承認も取ってきた。条文も揃えた」


そう来るだろうと思っていた。

物資を先に置いて、その重みで組合を引き出す。以前は丸腰で来て断られた。今度は命綱を握ってから来た。順番を入れ替えてきた。


「前回は、いろいろと行き違いがあった」

オルフェンが笑った。


「だが、状況も変わった。戦で街も疲れているだろう。後ろ盾はあった方がいい。物資のことも、ある。悪い話ではないはずだ」


物資のことも、ある。

そこに重みを乗せてきた。言葉にはしない。物資が欲しければ、という圧を言外に置く。商人の手口だった。


ケンジは少し考えた。

ここで断ればふた月前の繰り返しになる。「やれています」「逆にできるんですか」。あれは、こちらが何も持っていなかったから、言えた啖呵だった。今は向こうが物資を握っている。同じ断り方をすれば、ただの強がりになる。物資を盾にもう一押しされる。


だから、断らない。


「副議長」

ケンジは言った。


「お礼に、街を見ていってください」


オルフェンの笑みが止まった。

「……街を?」


「はい。せっかく遠いところを来ていただいたので。ふた月前は、役場とギルドだけでしたから」


「いや、私は組合の話を」


「組合の話も、街を見ていただいてからの方が、早いと思います」

ケンジは立ち上がった。


「アンピークが今どうなっているか。ご自分の目で見ていただいた方が、副議長も判断しやすいかと」


オルフェンがケンジを見た。

何か裏がある、という顔だった。当然の警戒だった。ふた月前、この受付にしてやられている。

だが断る理由もなかった。物資を持ってきた手前、案内を断るのは不自然だった。それに——見て損はない、と商人の頭が言った。組合を巻き上げるにも、中身を知っておいて損はない。


「……いいだろう」

オルフェンが腰を上げた。


「見せてもらおうじゃないか。ふた月で辺境がどれほど変わったか」


ケンジは頷いた。

変わったのは、街だけではないことを、この男はまだ知らない。



部屋を出る時、イレーナが横に並んだ。

「いいんですか」

小声だった。


「あの男に、街を見せて」


「見せたいので」


「組合を狙っていますよ。前より本気で」


「知っています」


ケンジは廊下を歩きながら言った。

「だから、見せます」


イレーナが少し黙った。それから、ふっと息を吐いた。

言いかけて、やめた。


レントンに似ている、と言いかけたのだとケンジは思った。塀の上で聞いたあの名前。聞いてはいけない名前だと、なんとなくわかっていた。だから聞かなかった。


廊下の先に、もう一人立っていた。

セレスだった。


援軍を率いてきた若い指揮官。役場の外で兵の差配をしていたはずだった。それを終えて戻ってきたらしい。

「顧問」


セレスがイレーナに頭を下げた。

丁寧な礼だった。形式ではなかった。心から、この人に認められたい、という礼の仕方だった。


「兵の宿営は街の外に。指示通りに」


「ご苦労さま」

イレーナが頷いた。


セレスの目がわずかに明るくなった。それだけのことが、嬉しいようだった。

ケンジはそれを見ていた。


この若い指揮官が、イレーナを慕っているのは一目でわかった。そして——イレーナがベルタに単身で乗り込んだ事情を、おそらく、この男は半分も知らされていない。ただ敬愛する顧問が向かった先だから、自分も来た。そういう種類のまっすぐさだった。


「セレスさんも、ご一緒に」

ケンジは言った。


「街を案内します。援軍を出していただいたお礼に」

セレスがイレーナを見た。

イレーナが頷いた。

それで、セレスもついてくることになった。



門を出て街に入った。

冬の、昼下がりだった。

空気は冷たかったが、通りには人がいた。以前より明らかに多かった。


オルフェンがそれを見ていた。

値踏みの目で。だが、その値踏みがうまく機能していないのが、横から見ていてわかった。商人は街を見ればその街の懐具合がわかる。店の数、棚の物、客の足取り。オルフェンはそれを読もうとして、読めずにいた。


読めないのではない。

数字が合わないのだ。

戦の最中の辺境の宿場町。二百の本隊に攻められた街。その街の通りが、以前より栄えている。理屈に合わない。


「……人が、増えたな」

オルフェンがぽつりと言った。


「はい」


「戦で、減るのが普通だろう」


「ラルタ村の人たちが避難してきました。それと、戦が落ち着いたので戻ってきた人もいます」


「落ち着いた? 川向こうに敵がいるのだろう」


「います」

ケンジは川の方を見た。


「でも、こちらに来る気はもうないので」

オルフェンが足を止めた。


「なぜそう言い切れる」

ケンジは答えなかった。


答えればヴォルスのことに触れる。偽りの戦のことに触れる。それは、まだこの男に見せるものではなかった。


代わりに歩いた。

通りの先に人だかりがあった。木の器を商う、ルードの店だった。

「あれは」


「ベルタカップ、といいます。うちの木工が作っています」


オルフェンが目を凝らした。

棚に並んだ器を客が選んでいた。だが、その場で買って帰る者はいなかった。客は職人と何か話し、職人が器の底に小刀を入れていた。

「……何をしている」


「名前を彫っています」

ケンジは言った。


「贈り物なので。大事な相手の名前を彫って、その人に贈るんです。生まれた子に。世話になった人に。連れ合いに」


オルフェンが店先を見た。

一人の女が、彫り上がった器を受け取って、両手で包んでいた。底の名前を指でなぞっていた。それから、大事そうに布にくるんだ。


「戦の最中だぞ」

オルフェンが低く言った。


「敵が川の向こうにいる。明日にも攻めてくるかもしれん。そんな時に——贈り物だと?」


「はい」


「正気か。この街は」


ケンジは店先の女を見ていた。

「明日また会える、と思っていないと」


少し間を置いた。

「人は、贈り物をしないので」


オルフェンの言葉が、止まった。


商人だった。物の値はわかる。需要も読める。だがこれは違った。戦時に、一点物の贈り物を注文する街。それは、懐具合の話ではなかった。明日を、その先を、街の人間が信じているということだった。

生きて、また顔を合わせると、信じているということだった。

算盤では弾けない数字だった。


オルフェンは店先から目を逸らした。

逸らした先に、彫り上がった器を抱えて帰っていく、別の客がいた。

逸らす先がなかった。



通りを抜けて、ギルドの裏手に回った。

裏庭に火があった。

いくつもの鍋が湯気を上げていた。アンばあさんの鍋だった。その周りに人が座っていた。

百人を超えていた。

オルフェンが足を止めた。

セレスも止まった。


座っているのは兵だった。武装は解かれている。縄をかけられている者はほとんどいない。皆、椀を持っていた。湯気の立つスープをすすっていた。


「……これは」

セレスの声が低くなった。

軍人の声だった。役場で兵を差配していた時の、あの落ち着いた声ではなかった。


「捕虜です」

ケンジは言った。


「橋と、森で。あわせて百人と少し」


セレスが捕虜たちをゆっくりと見渡した。

数えていた。軍人の目が、人数を、装備を、状態を、数えていた。そしてその目が、少しずつ、強張っていった。

「……傷が、浅い」

セレスが呟いた。


「重傷者がいない。捕虜の中に。これだけの数がいて」


「はい」


「橋を落としたと聞きました。百五十を、橋ごと、川に。冬の川に」


「落としました」


「なのに、なぜ生きている。橋から川に落ちて、これだけの数が、無事でいられるはずが——」

セレスが言葉を切った。

理解が追いついた顔だった。


「……生かすように、落としたのか」


ケンジは答えなかった。

答えなかったことが答えだった。


セレスの顔から血の気が引いていた。

軍人だからわかるのだ。橋を落として敵を沈めるのは難しくない。難しいのは、沈めながら生かすことだ。

渡り切る前に落とす。落ちた者が流される前に岸へ追う。冬の川で凍える前に引き上げる。火を焚く。鍋を用意する。百人分の。


殺すよりも、生かす方が、何倍も難しい。

そして、それをやってのけた。死者を出さずに百人を捕らえた。戦って勝ったのではない。勝った上で、一人も殺さなかった。


「ベルタ側の、死者は」

セレスが聞いた。

声が掠れていた。


「いません」

ケンジは言った。


「こちらは、一人も」

セレスがケンジを見た。


信じられない、という目だった。だが目の前にその証拠が座っていた。百人の生きた捕虜。傷の浅い生きた敵兵。湯気を立てるスープをすすっている。

これが嘘ではないことを、セレスの軍人の目が認めていた。


「……あなたが」

セレスが言った。


「あなたが、組んだのですか。この戦を」


「私は、受付なので」

ケンジは言った。


「組んだのは、戦った人たちです」


セレスはその答えを受け取らなかった。受け取れなかった。受付が、戦の指揮を執るはずがない。だが、目の前の男は、その「受付」だった。そしてイレーナ顧問が単身でこの街に駆けつけ、自分より先に立てた男だった。


なぜ顧問がこの男を。

その問いの答えが、今、目の前に座っていた。百人分の答えが。


オルフェンは別のものを見ていた。

セレスが戦果の異常さに打たれている横で、オルフェンの頭はまた別の算盤を弾いていた。


百人を養う糧食。

それをベルタは出している。戦の最中に。誰に強いられたわけでもなく。

割に合わない、と役場では思った。捨て置けば死ぬ、口が減る、と。商売の頭でそう弾いた。


だが今、その百人を見て別の数字が見えた。

この百人はランバルトの兵だ。ランバルトに家族がいる。その家族はランバルトにとっての人質だ。負ければ殺される、と縛られている。


その兵をベルタは生かしている。養っている。名簿を作っている、という話も道すがら聞いた。名前、村、家族。一人ずつ。


オルフェンの商人の頭が、ぞくりとした。


これは、ただの慈悲ではない。

生きた兵が、百人。それぞれに、ランバルトの内側の事情がある。家族がいる。村がある。恨みがある。望みがある。それを一人ずつ名簿にしている。


——情報だ。


百人分のランバルトの内側の情報を、ベルタは飯と引き換えに手に入れている。

そして、その百人は、いつか、使える。寝返らせるなり、帰すなり、交渉の駒にするなり。生かしてあるから、使える。殺していたら、ただの死体だ。


養うのは損ではなかった。

投資だった。


オルフェンの背に、冷たいものが走った。

自分は、物資を握って、この街の足元を見に来た。困窮した辺境に、恩を売りつけ、組合を巻き上げに来た。

だが、この街は——困窮した街は、こんな投資を、しない。

足元を見られていたのは、どちらだ。


「副議長」

ケンジの声がした。


オルフェンが顔を上げた。

「アンピークの工房は、この先です。見ていかれますか」

ケンジは平らな顔で言った。

ふた月前と同じ顔だった。

何を考えているか読ませない顔。


オルフェンはその顔を見て、ふた月前に「逆にできるんですか」と言われた時の、あの感覚を思い出していた。

何か、大きなものの、手のひらの上にいる感覚だった。



アンピークの工房は、ギルドから少し離れた、元は倉庫だった建物にあった。

中に入ると暖かかった。

炭の火だった。あちこちに火鉢が置かれ、その周りで人が手を動かしていた。革を裁つ者。布を縫う者。何かを煮詰めている者。


オルフェンはそれを見た。

以前、彼が「運が良かっただけだ」と評した組合だった。たまたま有能な人材が揃っただけだ、個人に頼る仕組みは長続きしない、と。


長続きしないどころか、増えていた。


人が手を動かしている。品が並んでいる。戦の最中だというのに、この工房だけ時が止まっているかのようだった。いや——回っている。戦が起きても、止まらずに。


「これは、全部」


「組合員です」

横から声がした。

アンばあさんだった。いつの間にか入り口に立っていた。にこにこしていた。


オルフェンの背がわずかに強張った。

ふた月前、この老婆に言われた。昔、大事な仲間のためにギルドを一つ潰した馬鹿がいてね、と。またそんなことが起きたら悲しいねえ、と。にこにこしたまま。


脅しだった。誰の話かは言わなかった。だが、その場の空気でわかった。この街には、触れてはいけないものがある、と。


「あらまあ副議長さん。お久しぶりですねえ」

アンばあさんがにこにこした。


「二ヶ月ぶりでしょうか。その節はどうも」


「……ああ」

オルフェンの返事が、短くなった。


「ゆっくり見ていってくださいな。なんにもない工房ですけど」

なんにもない、と言いながら、その工房は、戦の最中に平然と回っていた。


オルフェンは棚を見た。革製の水筒。背負い袋。何かの、布の包み。応急の手当てに使う道具らしきもの。どれも丁寧に作られていた。雑な仕事は、一つもなかった。

商人の目が勝手に値をつけていた。


これは、売れる。王都でも、売れる。いや、王都だからこそ、売れる。こんな品は王都にもない。

喉が鳴りそうになった。

これを組合に取り込めば——

そこまで考えて、オルフェンは、気づいた。


取り込む?


何を取り込む。この工房はもう回っている。人がいて、品があって、客がいる。自分が取り込んで、何を足せる。足せるものがない。せいぜい王都への販路だ。だが、それも——

ベルタにはすでにイレーナがいる。王都顧問が単身で乗り込むほど、この街に肩入れしている。販路など、向こうが望めばいくらでも繋がる。


自分が割って入る隙が、ない。


ふた月前は、丸腰のこの街に商談を持ちかけた。今度は物資を握って足元を見に来た。

だが、足元には、何もなかった。弱みが、なかった。

握ってきた物資すら——


「物資のことですけど」

ケンジの声がした。


オルフェンが振り返った。


「ありがたくいただきます。冬は長いので。矢も、薬も、助かります」

ケンジは淡々と言った。


「ただ、組合のお話はお断りします。以前と、同じ理由です」

来た、とオルフェンは思った。


だが今度は、強がりではなかった。以前は何も持たない街の啖呵だった。今は違った。物資をいただいた上で、組合は断る、と言っている。物資を盾にした圧が通じていない。

通じる弱みがなかった。


「……物資を受け取っておいて、か」

オルフェンの声が低くなった。


「都合のいい話だな。物資は受け取る、組合は渡さない」


「物資は、王都がベルタのために用意したものですよね」

ケンジが言った。


「副議長個人の、持ち物ではなく」


オルフェンの言葉が詰まった。


その通りだった。物資は、王都の援軍の正規の支援だ。セレスが率いてきた改革派の。オルフェンはその物資の「担当」として勝手に随伴してきただけだ。物資そのものはオルフェンの切り札ではない。

切り札だと、思い込んでいただけだった。


「ベルタは援軍を要請しました。王都はそれに応えてくれました。物資はその一部です。お礼は言います。でも、それと組合は別の話です」

ケンジは平らな顔のまま言った。


正論だった。隙のない正論だった。

オルフェンの顔が赤くなった。


「……っ、貴様、商売というものが」


「副議長」

声が割って入った。

イレーナだった。


一歩前に出た。

「商売というものを、おっしゃるなら」

声に棘はなかった。ふた月前、役場でオルフェンを切った時と同じだった。


「前に、あなたが持ちかけた商売を、覚えておいでですか」


オルフェンがイレーナを見た。


「アンピークを組合に。売上の二割。ベルをこちらで回す。十倍の規模で、と」


イレーナは、工房をゆっくりと見渡した。戦の最中に、平然と回っている、その工房を。


「あの時、この組合の売上の二割をあなたは取るつもりでした。何も足さず、ただ、後ろ盾という名目で。二割を」


「それは——」


「もし、あの話に乗っていたら」

イレーナがオルフェンに目を戻した。


「この工房は、今、ここにありません」


オルフェンの言葉が止まった。


「二割を吸い上げられた組合が、この戦をくぐり抜けられたと思いますか。後ろ盾という名の重しを乗せられて、ここまで増えると。あなたの言う『大きな後ろ盾』は、伸びる芽を、二割ぶん、刈り取る鎌です」

イレーナの声は静かだった。


「あなたは以前こう言いました。個人に頼る仕組みは長続きしない、と。だから大きな組織が必要だ、と」


少し間を置いた。


「長続きしているのは、どちらですか」


オルフェンが答えなかった。

答えられなかった。

長続きしないと断じた組合。後ろ盾を断った街が、二百の本隊を退け、捕虜を百人養い、それでも、栄えている。


「あなたは、運が良かっただけだ、とも言いました」

イレーナが続けた。


「たまたま有能な人材が揃っただけだ、と。人は死ぬし、街も衰退する、と」

イレーナの目がわずかにケンジの方へ動いた。すぐ、戻った。


「運で橋は落ちません。運で捕虜は生きて帰りません。運で死者ゼロには、なりません」

声が低くなった。


「あなたが運と呼んだものに、名前があります。あなたの前に立っています」


工房が静かになった。

火鉢の炭が、小さくはぜた。


オルフェンはケンジを見た。

平らな顔の、痩せた受付。ふた月前、運が良かっただけだ、と切り捨てた男。その男が、運ではなかったことを、イレーナが、今、言葉にしていた。


そして、ケンジ自身は何も言わなかった。

イレーナが言ったことを、否定もせず、肯定もせず、ただ、立っていた。


それが、オルフェンには一番こたえた。

反論されれば、まだ戦えた。だが、目の前の男は、反論すらしなかった。自分の手柄を、誇りもしなかった。イレーナに代弁させて、本人は、平らな顔で立っているだけだった。


——格が、違う。


商人として認めたくない言葉が、オルフェンの中に浮かんだ。

ふた月前、自分は商売を教えてやる側だと思っていた。

今はその考え自体が滑稽に思えた。


ふた月前からずっと。気づいていなかったのは、自分だけだった。



「……少し」

オルフェンが声を絞り出した。


「少し、外の空気を吸ってくる」


誰も止めなかった。


オルフェンが工房を出ていった。背中が以前より小さく見えた。

扉が閉まると、アンばあさんが、ふぅ、と息を吐いた。


「今度はギルドを潰す話、しなくて済んだねえ」

にこにこしていた。


イレーナがその言葉に、わずかに肩の力を抜いた。

ケンジは、閉まった扉を見ていた。


「追わなくていいんですか」

イレーナが聞いた。


「いいです」

ケンジは言った。


「今追っても、何も決まらないので。一人で算盤を弾く時間がいると思います」


イレーナがケンジを見た。

「……あなた、あの男をどうするつもりなんですか」


ケンジは少し考えた。

「どうも、しません」


「は?」


「敵にしなければ、それでいいので。味方になるかどうかは、副議長が、自分で決めることです」

ケンジは淡々と言った。


「無理に取り込もうとすれば、以前の副議長と同じになります。二割を取る側に。私は、そうしたくないので」


イレーナが少し笑った。

困ったような懐かしいような笑い方だった。



工房を出てギルドへ戻る道だった。

イレーナが隣を歩きながら言った。


「副議長のことは片付きました。でも」


「はい」


「本当の用件はあの男ではないでしょう」


ケンジは頷いた。

「セレスさんですね」


「援軍を率いてきた改革派の指揮官。あの人と話さないと」


ケンジは川の方を見た。その向こうの、嘘の篝火が焚かれている本陣の方を。


「頼んで、呼んだ援軍です。来てくれた。でも、戦はもう終わっています」


少し間を置いた。


「来てもらった人たちに、手ぶらで帰ってもらうわけにはいかないので」


イレーナがケンジを見た。

「……空振りした援軍に、何をさせる気ですか」


「もっと大きなことです」

ケンジは言った。


「戦わずに、戦争を、続けてもらいます」


イレーナが足を止めた。

その言葉の意味を、すぐには掴めない顔だった。

ケンジは止まらずに歩いた。


その夜、卓を囲むことになる。


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