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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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休日3:倒れても回る

銭湯ができた翌日だった。

頭がまだ重かった。

目を開けると長屋の天井で、木の節がいつもより滲んで見えた。二つに見えて、一つに戻った。

ケンジはしばらくそのままでいた。

昨日のことを思い出そうとした。


湯に入った気がする。誰かと長く湯に浸かっていた。年寄りの声がした気がする。湯気の温かさだけが、薄く残っていた。

その前は——橋が、落ちた。声が、届いた。男が、膝をついて泣いていた。

そっちのほうがはっきりしていた。

昨日より、その前のほうがよく覚えている。近いことほど薄くて、遠いことほど断片が残っている。順番がうまく並ばなかった。


橋は、何日前だったか。湯が、昨日。


それから、何をしたか。

——わからない。


橋の後、塀の上にいた気がする。風が冷たかった。その後、ギルドに戻ったか戻っていないか。そこがごっそり抜けていた。


起き上がろうとして、頭の奥が鈍く鳴った。やめておいた。枕に戻った。

壁の向こうから音がした。


火の爆ぜる音。鍋の湯気の音。人の声。一人ではない。何人かが低く話している。言葉までは聞き取れなかった。聞き取ろうとすると頭が重くなった。

裏庭だ、と思った。ギルドの裏で何かが動いている。

何が動いているのかわからなかった。

わからないまま、また、目を閉じた。



「ケンジさん、起きてるかい」

戸が開いた。アンばあさんだった。盆を持っていた。湯気が立っている。


「……起きてます」


「まだ半分だね」


「……頭がまだ少し痛いです」


アンばあさんが笑った。盆を枕元に置いた。粥だった。やわらかく煮てある。噛まなくていいやつだった。


「食べな。熱にはこれがいい」


匙を取ろうとして手が少し遅れた。アンばあさんが匙を持たせてくれた。子供にするみたいに。


「裏、賑やかですね」


「聞き取りだよ」

アンばあさんが事も無げに言った。


「レモさんとミーデルちゃんが、捕虜の子らに話を聞いてる」


ケンジの手が、止まった。

「……聞き取り?」


「あんたが言ったんだろう。一人ずつ話を聞けって」


言ったか。

言った気がする。しない気もする。

熱の向こうに何か置いてきた気がした。手を伸ばせば届きそうで届かなかった。


「覚えてないのかい」


「……断片だけです」


「順番がうまく並ばなくて」


アンばあさんがまた笑った。



粥を半分食べた頃、戸の外が騒がしくなった。

小さい足音が三つ。


「ケンジー!」


「起きてるー?」


戸の隙間から、頭が三つ覗いた。長屋の子供たちだった。オットーが一番上で、その下にペルー、一番下にジーナ。


「あんたたち、ケンジさんは病人だよ」


アンばあさんが言ったが、子供たちはもう中に入っていた。


「ケンジ、寝てるのー?」

ジーナが枕元に来た。顔を覗き込んでくる。


「……起きてます」


「目、変だよ」


「……まだ、ぼんやりしてるので」


「ぼんやり?」

ジーナが首を傾げた。


オットーが横から言った。

「熱だよ。頭がぼーっとしてんだ。馬鹿になってんの」


「馬鹿じゃないです」


「でもぼんやりなんでしょ」


「……それは、そうです」

否定になっていなかった。子供たちが笑った。



ペルーが部屋の隅のザックを見つけた。

「これ、ケンジの変な道具のやつ!」


「あああ、触らないでください」


「あの椅子は?ぺしゃんこになるやつ」


「ローチェアです」


「出してー!」


「今日は出せません」


「えー」


三人が口を揃えて不満を言った。普段ならケンジは理由を説明する。今日は無理に動くと熱が上がる、と。でも言葉を組み立てるのが面倒だった。頭が回らなかった。


「……今日は、半分なので」

それで済ませた。


子供たちには通じなかったが、なぜか納得したようだった。半分だから仕方ない、ということになったらしい。


アンばあさんが空いた皿を下げに来た。

ついでのように、もう一皿置いていった。

串に刺した肉だった。焼いてある。いい匂いがした。

「これも食べな。精をつけな」


ケンジはその肉を見た。

見覚えがあった。色。焼き加減。脂の滴り方。

——これだ。

最初の休日に食べた。祭りでも食べた。何の肉かわからないまま、うまかった、あの肉だ。

長いことわからなかった。

「アンばあさん、これ——」


聞こうとした。でもアンばあさんはもう戸の外に出ていた。

代わりにジーナが串を一本取って、かじった。

「あ、ポポだ!」


ケンジの頭が止まった。

「……ポポ?」


「ポポだよ。おいしいよね」


「ポポ、というのは」


「ポポはポポだよ」

ジーナが当たり前のことを聞かれた顔をした。オットーが横から得意げに言った。

「森にいる鳥だよ。ポポって鳴くから、ポポ」


ポポって鳴くから、ポポ。

ケンジはぼんやりとした頭でそれを受け取った。

長いこと追いかけていた。屋台のおじさんは「森の鳥」としか言わなかった。肉屋でもわからなかった。祭りでもわからなかった。

それが、ポポ。


「……そうか。ポポか」


妙に、納得した。

子供たちは、もう次の話をしていた。



昼を過ぎた頃子供たちは飽きて帰っていった。

「ケンジ、はやくなおせよー」

「またくるね!」


戸が閉まって、部屋が静かになった。

ケンジは起き上がってみた。

さっきより頭が軽かった。天井の木の節が一つに見えた。二つに割れなかった。

午前よりは戻っている。半分から、六割か、七割か。


机の上に帳面があった。いつも持ち歩いているあの帳面だった。誰かが枕元に置いておいてくれたらしい。


開いた。

最後のほうのページに字があった。


自分の字だった。

でも、書いた覚えがほとんどなかった。


乱れた字だった。普段のケンジの字ではなかった。急いで、力を振り絞って書いたような字で、線が震えていた。


捕虜、聞き取り。名前、村、家族。

やりたい未来を聞く。

戦う/帰る/平穏。どれも選ばせる。罰しない。

選り分けではなく、帰す順番。


ケンジはその字を読んだ。他人の書いたメモのようだった。でも自分の字だった。

塀の上の後、ギルドに戻ったのだと思った。戻って、倒れる前にこれを書いた。頭が焼き切れる寸前に、最低限の骨組みだけ紙に残した。


書いた記憶はない。でも書いてあった。

裏でレイモンドさんとミーデルがこれをやっている。ケンジが覚えていない指示を、ケンジの字の通りに進めている。


ケンジはしばらくその字を見ていた。

台帳を作った。ボードを作った。アンピークを、ベルを、研修制度を。

全部自分がいなくても回るように、と思って作ってきた。

倒れた自分の代わりに、街が回っていた。自分が忘れた指示で。


「……そうか」

口の中で言った。

ちゃんと、回っていた。



夕方になった。

ケンジは長屋の外に出た。頭はだいぶ戻っていた。八割か、九割。まだ奥のほうが少し鈍い。でも考えられたし言葉も組み立てられた。

ギルドの裏に回った。火が燃えていた。鍋が湯気を上げていた。聞き取りはもう終わったのか、捕虜たちが静かに火を囲んでいた。


その火の外側に、人影が一つ立っていた。

カーラだった。


「起きたの」


「起きました」


カーラがケンジを上から下まで見た。初めて魔力を教わった時、こちらを値踏みした、あの目だった。


「……ひどい顔ね」


「自分では見えないので」


「丸一日、寝込んだんだってね」


「はい」


カーラが腕を組んだ。

「あたし、なんて言った」


ケンジは少し考えた。半分戻った頭で、ずっと前を手繰った。


「……無理して使うと、消耗する、と」


「もう一個」


「限界を超えたら、何日も響く、と」


「言ったわよね」


「言いました」


カーラが息を吐いた。怒っているのか、呆れているのか、わからない吐き方だった。


「で、やったわけだ」


「やりました」


「素直に認めるじゃない」


「事実なので」


カーラがまた調子を狂わされた顔をした。あの時も同じことを言われた気がする。


「一日で済みました」


ケンジが言うと、カーラの眉が動いた。


「済んでないでしょ。今もぼんやりしてるくせに」


「だいぶ戻りました」


「だいぶって何よ」


「八割くらいです、今は」


「……もういいわ」

カーラがこめかみを押さえた。



カーラが火の方を見た。捕虜たちの輪をしばらく見てから、声を少し落とした。小言の声ではなくなっていた。


「ケンジ」


「はい」


「あんた、次も使う気でしょ。あの頭のやつ」


ケンジはすぐには答えなかった。


「……使わずに済むのが一番だと思っています」


「答えになってない」


「はい」


カーラがケンジを見た。

「言っておく。次やったら一日じゃ済まないかもしれない。あんたの魔力は少ない。少ない器に無理を通してる。今回は一日で戻った。でもそれは運がよかっただけかもしれない」


声が静かだった。


「次は戻らないかもしれない。半分でも、八割でもなく。戻らないかもしれない」


火が爆ぜた。


ケンジは黙っていた。カーラの言っていることが正しいのはわかった。魔力のことは、カーラのほうがずっと詳しい。

「……覚えておきます」


「覚えるだけじゃ、足りないんだけどね」

カーラが小さく言った。


それから思い出したように言った。声がまた変わった。今度は斥候の声だった。

「それと。報告がある。あんたが寝てる間のことだから、まだ知らないだろうけど」


ケンジが顔を上げた。


「川向こう、じゃない。東のほう」


「……東?」


「王都が、動いた」


ケンジの鈍っていた頭の奥が、ひとつ鳴った。


「正規の援軍。イレーナさんが先に来たのは手続きを飛ばしたからでしょ。その手続きが追いついた」

カーラが東の方角を見た。


「来るわよ。ベルタに」


ケンジはその言葉を、半分戻った頭で受け止めた。

王都が、来る。


味方のはずだった。改革派が動いた。捕虜の毛布まで運ばせた。なのに何かが引っかかった。

うまく言葉にならなかった。まだ頭の奥が鈍い。引っかかりの正体が掴めない。掴めないままそれが確かに引っかかった。


捕虜が百人。寝返った敵の部隊。偽りの戦。それを王都が見る。


「……いつ、来ますか」


「わからない。でも遠くない」


カーラが踵を返した。レイクロークの黒が、夕闇に溶けていく。


「あんたはまず治しなさい。八割じゃ足りないでしょ。そろそろ頭がいる気がするから」

それだけ言って、影が消えた。



ケンジは一人火のそばに残った。

捕虜たちが静かに火を囲んでいた。誰も欠けていなかった。


頭はまだ八割だった。王都が来るという報せに何かが引っかかっている。でもその何かが掴めない。

普段なら帳面を開いて、書き出して、整理する。今日はそれができなかった。頭の奥が鈍かった。


明日には戻る。カーラが言った通り、しっかりしなければ。


ケンジは火を見ていた。

謎の肉の正体が今日わかった。ポポ、というらしい。子供がそう呼んでいた。長いことわからなかったものが子供の一言で解けた。

なぜかそれが今日いちばんの収穫だった気がした。

王都のことは明日考えればいい。


今日は、半分で——いや、八割で。

それでも前には進んでいた。

火が、静かに燃えていた。


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