休日3:倒れても回る
銭湯ができた翌日だった。
頭がまだ重かった。
目を開けると長屋の天井で、木の節がいつもより滲んで見えた。二つに見えて、一つに戻った。
ケンジはしばらくそのままでいた。
昨日のことを思い出そうとした。
湯に入った気がする。誰かと長く湯に浸かっていた。年寄りの声がした気がする。湯気の温かさだけが、薄く残っていた。
その前は——橋が、落ちた。声が、届いた。男が、膝をついて泣いていた。
そっちのほうがはっきりしていた。
昨日より、その前のほうがよく覚えている。近いことほど薄くて、遠いことほど断片が残っている。順番がうまく並ばなかった。
橋は、何日前だったか。湯が、昨日。
それから、何をしたか。
——わからない。
橋の後、塀の上にいた気がする。風が冷たかった。その後、ギルドに戻ったか戻っていないか。そこがごっそり抜けていた。
起き上がろうとして、頭の奥が鈍く鳴った。やめておいた。枕に戻った。
壁の向こうから音がした。
火の爆ぜる音。鍋の湯気の音。人の声。一人ではない。何人かが低く話している。言葉までは聞き取れなかった。聞き取ろうとすると頭が重くなった。
裏庭だ、と思った。ギルドの裏で何かが動いている。
何が動いているのかわからなかった。
わからないまま、また、目を閉じた。
◇
「ケンジさん、起きてるかい」
戸が開いた。アンばあさんだった。盆を持っていた。湯気が立っている。
「……起きてます」
「まだ半分だね」
「……頭がまだ少し痛いです」
アンばあさんが笑った。盆を枕元に置いた。粥だった。やわらかく煮てある。噛まなくていいやつだった。
「食べな。熱にはこれがいい」
匙を取ろうとして手が少し遅れた。アンばあさんが匙を持たせてくれた。子供にするみたいに。
「裏、賑やかですね」
「聞き取りだよ」
アンばあさんが事も無げに言った。
「レモさんとミーデルちゃんが、捕虜の子らに話を聞いてる」
ケンジの手が、止まった。
「……聞き取り?」
「あんたが言ったんだろう。一人ずつ話を聞けって」
言ったか。
言った気がする。しない気もする。
熱の向こうに何か置いてきた気がした。手を伸ばせば届きそうで届かなかった。
「覚えてないのかい」
「……断片だけです」
「順番がうまく並ばなくて」
アンばあさんがまた笑った。
◇
粥を半分食べた頃、戸の外が騒がしくなった。
小さい足音が三つ。
「ケンジー!」
「起きてるー?」
戸の隙間から、頭が三つ覗いた。長屋の子供たちだった。オットーが一番上で、その下にペルー、一番下にジーナ。
「あんたたち、ケンジさんは病人だよ」
アンばあさんが言ったが、子供たちはもう中に入っていた。
「ケンジ、寝てるのー?」
ジーナが枕元に来た。顔を覗き込んでくる。
「……起きてます」
「目、変だよ」
「……まだ、ぼんやりしてるので」
「ぼんやり?」
ジーナが首を傾げた。
オットーが横から言った。
「熱だよ。頭がぼーっとしてんだ。馬鹿になってんの」
「馬鹿じゃないです」
「でもぼんやりなんでしょ」
「……それは、そうです」
否定になっていなかった。子供たちが笑った。
◇
ペルーが部屋の隅のザックを見つけた。
「これ、ケンジの変な道具のやつ!」
「あああ、触らないでください」
「あの椅子は?ぺしゃんこになるやつ」
「ローチェアです」
「出してー!」
「今日は出せません」
「えー」
三人が口を揃えて不満を言った。普段ならケンジは理由を説明する。今日は無理に動くと熱が上がる、と。でも言葉を組み立てるのが面倒だった。頭が回らなかった。
「……今日は、半分なので」
それで済ませた。
子供たちには通じなかったが、なぜか納得したようだった。半分だから仕方ない、ということになったらしい。
アンばあさんが空いた皿を下げに来た。
ついでのように、もう一皿置いていった。
串に刺した肉だった。焼いてある。いい匂いがした。
「これも食べな。精をつけな」
ケンジはその肉を見た。
見覚えがあった。色。焼き加減。脂の滴り方。
——これだ。
最初の休日に食べた。祭りでも食べた。何の肉かわからないまま、うまかった、あの肉だ。
長いことわからなかった。
「アンばあさん、これ——」
聞こうとした。でもアンばあさんはもう戸の外に出ていた。
代わりにジーナが串を一本取って、かじった。
「あ、ポポだ!」
ケンジの頭が止まった。
「……ポポ?」
「ポポだよ。おいしいよね」
「ポポ、というのは」
「ポポはポポだよ」
ジーナが当たり前のことを聞かれた顔をした。オットーが横から得意げに言った。
「森にいる鳥だよ。ポポって鳴くから、ポポ」
ポポって鳴くから、ポポ。
ケンジはぼんやりとした頭でそれを受け取った。
長いこと追いかけていた。屋台のおじさんは「森の鳥」としか言わなかった。肉屋でもわからなかった。祭りでもわからなかった。
それが、ポポ。
「……そうか。ポポか」
妙に、納得した。
子供たちは、もう次の話をしていた。
◇
昼を過ぎた頃子供たちは飽きて帰っていった。
「ケンジ、はやくなおせよー」
「またくるね!」
戸が閉まって、部屋が静かになった。
ケンジは起き上がってみた。
さっきより頭が軽かった。天井の木の節が一つに見えた。二つに割れなかった。
午前よりは戻っている。半分から、六割か、七割か。
机の上に帳面があった。いつも持ち歩いているあの帳面だった。誰かが枕元に置いておいてくれたらしい。
開いた。
最後のほうのページに字があった。
自分の字だった。
でも、書いた覚えがほとんどなかった。
乱れた字だった。普段のケンジの字ではなかった。急いで、力を振り絞って書いたような字で、線が震えていた。
捕虜、聞き取り。名前、村、家族。
やりたい未来を聞く。
戦う/帰る/平穏。どれも選ばせる。罰しない。
選り分けではなく、帰す順番。
ケンジはその字を読んだ。他人の書いたメモのようだった。でも自分の字だった。
塀の上の後、ギルドに戻ったのだと思った。戻って、倒れる前にこれを書いた。頭が焼き切れる寸前に、最低限の骨組みだけ紙に残した。
書いた記憶はない。でも書いてあった。
裏でレイモンドさんとミーデルがこれをやっている。ケンジが覚えていない指示を、ケンジの字の通りに進めている。
ケンジはしばらくその字を見ていた。
台帳を作った。ボードを作った。アンピークを、ベルを、研修制度を。
全部自分がいなくても回るように、と思って作ってきた。
倒れた自分の代わりに、街が回っていた。自分が忘れた指示で。
「……そうか」
口の中で言った。
ちゃんと、回っていた。
◇
夕方になった。
ケンジは長屋の外に出た。頭はだいぶ戻っていた。八割か、九割。まだ奥のほうが少し鈍い。でも考えられたし言葉も組み立てられた。
ギルドの裏に回った。火が燃えていた。鍋が湯気を上げていた。聞き取りはもう終わったのか、捕虜たちが静かに火を囲んでいた。
その火の外側に、人影が一つ立っていた。
カーラだった。
「起きたの」
「起きました」
カーラがケンジを上から下まで見た。初めて魔力を教わった時、こちらを値踏みした、あの目だった。
「……ひどい顔ね」
「自分では見えないので」
「丸一日、寝込んだんだってね」
「はい」
カーラが腕を組んだ。
「あたし、なんて言った」
ケンジは少し考えた。半分戻った頭で、ずっと前を手繰った。
「……無理して使うと、消耗する、と」
「もう一個」
「限界を超えたら、何日も響く、と」
「言ったわよね」
「言いました」
カーラが息を吐いた。怒っているのか、呆れているのか、わからない吐き方だった。
「で、やったわけだ」
「やりました」
「素直に認めるじゃない」
「事実なので」
カーラがまた調子を狂わされた顔をした。あの時も同じことを言われた気がする。
「一日で済みました」
ケンジが言うと、カーラの眉が動いた。
「済んでないでしょ。今もぼんやりしてるくせに」
「だいぶ戻りました」
「だいぶって何よ」
「八割くらいです、今は」
「……もういいわ」
カーラがこめかみを押さえた。
◇
カーラが火の方を見た。捕虜たちの輪をしばらく見てから、声を少し落とした。小言の声ではなくなっていた。
「ケンジ」
「はい」
「あんた、次も使う気でしょ。あの頭のやつ」
ケンジはすぐには答えなかった。
「……使わずに済むのが一番だと思っています」
「答えになってない」
「はい」
カーラがケンジを見た。
「言っておく。次やったら一日じゃ済まないかもしれない。あんたの魔力は少ない。少ない器に無理を通してる。今回は一日で戻った。でもそれは運がよかっただけかもしれない」
声が静かだった。
「次は戻らないかもしれない。半分でも、八割でもなく。戻らないかもしれない」
火が爆ぜた。
ケンジは黙っていた。カーラの言っていることが正しいのはわかった。魔力のことは、カーラのほうがずっと詳しい。
「……覚えておきます」
「覚えるだけじゃ、足りないんだけどね」
カーラが小さく言った。
それから思い出したように言った。声がまた変わった。今度は斥候の声だった。
「それと。報告がある。あんたが寝てる間のことだから、まだ知らないだろうけど」
ケンジが顔を上げた。
「川向こう、じゃない。東のほう」
「……東?」
「王都が、動いた」
ケンジの鈍っていた頭の奥が、ひとつ鳴った。
「正規の援軍。イレーナさんが先に来たのは手続きを飛ばしたからでしょ。その手続きが追いついた」
カーラが東の方角を見た。
「来るわよ。ベルタに」
ケンジはその言葉を、半分戻った頭で受け止めた。
王都が、来る。
味方のはずだった。改革派が動いた。捕虜の毛布まで運ばせた。なのに何かが引っかかった。
うまく言葉にならなかった。まだ頭の奥が鈍い。引っかかりの正体が掴めない。掴めないままそれが確かに引っかかった。
捕虜が百人。寝返った敵の部隊。偽りの戦。それを王都が見る。
「……いつ、来ますか」
「わからない。でも遠くない」
カーラが踵を返した。レイクロークの黒が、夕闇に溶けていく。
「あんたはまず治しなさい。八割じゃ足りないでしょ。そろそろ頭がいる気がするから」
それだけ言って、影が消えた。
◇
ケンジは一人火のそばに残った。
捕虜たちが静かに火を囲んでいた。誰も欠けていなかった。
頭はまだ八割だった。王都が来るという報せに何かが引っかかっている。でもその何かが掴めない。
普段なら帳面を開いて、書き出して、整理する。今日はそれができなかった。頭の奥が鈍かった。
明日には戻る。カーラが言った通り、しっかりしなければ。
ケンジは火を見ていた。
謎の肉の正体が今日わかった。ポポ、というらしい。子供がそう呼んでいた。長いことわからなかったものが子供の一言で解けた。
なぜかそれが今日いちばんの収穫だった気がした。
王都のことは明日考えればいい。
今日は、半分で——いや、八割で。
それでも前には進んでいた。
火が、静かに燃えていた。




