第五十三話:未来を聞く
同じ朝、裏庭の火は落ちていなかった。
夜のうちに誰かが薪を足したのだろう。ミーデルが来た時には炭が静かに赤かった。
鍋が一つ火にかかっていた。アンばあさんの鍋だった。昨日と同じで、一昨日と同じだった。捕虜が増えても減っても、鍋だけは同じ場所で湯気を上げていた。
いつもの木箱に腰を下ろし、膝の上に名簿を開いた。三冊目の途中だった。
名前、出身の村、家族の有無。それだけを聞いて書く。橋で五十、森で五十五、あわせて百を超えた。
半分以上はもう書き終えている。言葉の通じる者から、先に済ませた。
国境に近い村の出は、こちらの言葉を多少わかる。
残ったのは、奥地の出が多く、言葉の通じにくい組だった。残りを今日やるつもりで来た。
◇
捕虜たちは火を囲んでいた。
縄はほとんどの者についていない。逃げる体力が戻っていなかった。戻ってきた者から椀を持っていた。
ミーデルはその輪を見た。昨日より顔が緩んでいる。湯と飯と眠りだけで、人は少し人に戻る。戦っていた顔がほどけていく。
それでもまだ目だけが緩んでいない者がいた。椀を持ったまま飲まない者、火を見ているようで出入り口を見ている者。それも書いておこうと思った。名前と村と家族の横に、小さく、緩んでいない、と。
◇
レイモンドが来たのは火がもう一度足された頃だった。
役場の人間が裏庭に来るのは珍しい。でもレイモンドは珍しそうな顔をされない歩き方をしていた。普段着だった。査察の日の品のある身なりではなく、祭りの日に一人で屋台を見て回っていた時の格好に近かった。
ミーデルの隣に木箱をもう一つ引いて座った。
「ミーデルさん」
「はい」
「ケンジさんは」
「熱です。今日は起きられないと」
レイモンドが少しだけ笑った。
「知恵熱、でしたねえ」
「そう聞いています」
「では今日は、私たちだけですか」
名簿に目を落とした。ケンジは昨夜のうちに、これだけ言い置いていったらしい。マーサ伝てに聞いた。
——名前で、一人ずつ。やりたい未来を聞いてください。どの答えも、誰かの危険にならない形で。
何をどう聞くかは書いていなかった。書かずに倒れた。
「設計図だけ置いていかれました」
ミーデルが言うと、レイモンドはふっと息を吐いた。
「あの人らしい」
◇
一人目を呼んだ。
若い兵だった。森で捕らえられた組だ。足首に布が巻いてある。落ちる時に挫いた、とルウの報告にあった者だろう。火のそばに座らせた。
レイモンドが口を開いた。
「名前を、聞いていいですか」
兵がミーデルとレイモンドを交互に見た。それから喋った。
長かった。
ミーデルの耳にはひと続きの音だった。単語の切れ目がわからない。訛りではなく、言葉そのものが、自分たちのものと違った。途中で音の調子が変わった。最初は硬く、次に少し高くなり、最後はまた硬く短く切れた。
何かを言っている。たぶん名前もその中にある。でもどの音が名前なのか、わからなかった。
名前を書く欄の一文字目を、どこから取ればいいのかわからなかった。
兵が言い終えてこちらを見ていた。答えた、という顔だった。答えてくれているのはわかる。わからないのはこちらだった。
困った、とは思わなかった。
ミーデルは商家の娘だった。言葉の通じない行商人を何人も見てきた。意味が取れない時、人は顔を見て、間を読む。
兵の顔を見た。警戒はしていたが、敵意ではなかった。聞かれたから答えた、答えたのに相手が書かない、なぜ書かないのか、という顔になり始めていた。
このままでは、答えたのに通じなかったという事実だけが残る。それはよくなかった。名乗ったのに書かれなかったというのは、本国でなら無視されたのと同じかもしれなかった。
ペンを置きかけた。せめてもう一度、と思った。
その時、火の反対側で音がした。
椀を傾ける音だった。
捕虜の一人が椀の底を空に向けていた。具はもう食べ終えている。残った汁を一滴も残さず飲んでいた。喉が鳴っていた。時間をかけて最後の一滴まで飲み、それから椀を膝に置いて、口元を手の甲で拭った。
男だった。三十は過ぎている。捕虜の中では若くない方だ。痩せてはいたが、目が他の者と違った。緩んでいない、のとも違う。見ている目だった。さっきから、こちらを見ていた。聞き取りの一部始終を。
男が口を開いた。ガルディアの言葉だった。たどたどしく、一語ずつ置くように。
「トーレ」
ミーデルが顔を上げた。
「名前は、トーレ。さっきのは、名前と、礼と、質問だ」
男が続けた。
「礼は、飯の礼。質問は、名前を書いて、どうするのか、と」
ペンを動かした。トーレ、と書いた。一人目の名前が埋まった。
さっきのひと続きの音。その中から男は名前だけを抜き出した。どの音が名前か、切り出せなかったものを、男は一語で抜いた。
この男は本当に両方の言葉がわかる。
◇
男はミーデルの手元を見ていた。トーレと書かれた文字を最後まで見届けてから言った。
「で。あんたら、名前を聞いて、どうする」
ガルディア語のままだった。たどたどしく、でも要点は外していなかった。
レイモンドが答えた。
「未来の話を、聞きたいんです」
男が片眉を上げた。
「未来」
「戦争が終わったあと。この人たちが、どう生きたいか」
男は少し黙った。火を見て、鍋を見て、最後にレイモンドを見た。
「それを聞いて、どうする」
さっきと同じ問いだった。でも今度は少し違う重さがあった。
◇
レイモンドはすぐには答えなかった。
「どう、というのは」
「未来を聞いて、それをどう使う」
男の声が低くなっていた。たどたどしさは変わらないが、一語ずつ置く間隔がさっきより慎重だった。言葉を選んでいるのではなく、相手を測っていた。
「使い道のない話を、わざわざ聞く人間はいない。聞いて、選り分けるんだろう。役に立つ奴と、立たない奴を。戦える奴と、戦えない奴を」
レイモンドは答えなかった。
「未来を聞く、ってのは、聞こえはいい」
男は空の椀を火のそばに置いた。
「俺のいた所では、聞かれたことがない」
ミーデルはその一言を書かなかった。書く欄がなかった。
名前、村、家族、緩んでいるかいないか。それだけの帳面に、その言葉を入れる場所はない。でも聞いた。聞かれたことがない、と。
その一言だけが、
妙に長く耳に残った。
「あなたの所では」
レイモンドが口を開いた。
「兵に、未来を聞かなかったんですか」
男が笑った。声は出さず、口の端だけが動いた。
「兵に未来はない。次の命令が、未来だ」
ミーデルの手の中でペンが止まったままだった。
「畑に帰りたいと言えば、その口を塞がれる。家族に会いたいと言えば、その家族が人質になる。だから誰も言わない。思っても言わない。思うことすら——」
男はそこで止まった。言いかけて、やめた。
火がはぜた。
「やめだ。喋りすぎた」
男は目を逸らした。
◇
思うことすら。その先を男は言わなかった。思うことすら危ない、思うことすら許されない、たぶんそういう続きだった。
ミーデルは商家で育った。帳簿をつけ、仕入れを覚え、正解のある問いに正解を返して生きてきた。未来は考えるものだった。家業を継げない次女が自分の居場所をどう作るか、考えて、悩んで、ここに来た。
考えられた。悩めた。
それが当たり前ではない場所がある。考えることそのものを潰される場所が。
その男の前で、自分の帳面が少しだけ軽く思えた。名前と村と家族、それだけを書いてきた。でもこの男にとっては、名前を書かれることすら、本国では消される側の印だったのかもしれない。
◇
レイモンドが静かに言った。
「ここでは、聞きますよ」
男が火から目を上げた。
「使い道はあります。隠しません。あなたの言う通り、選り分けます」
「戦える者を選ぶためじゃない。帰りたい者を、帰す順番を考えるためです。戦いたくないと言った者を罰する場所じゃない。畑に帰りたい者は帰す。平穏でいたい者は平穏にする。そのために聞きます。それも未来の話の、使い道です」
レイモンドの声は低かった。よそ行きのペコペコした声ではなかった。
「あなたの所と、逆のことをします」
火が静かに燃えていた。男は長いことレイモンドを見ていた。それから、ぽつりと言った。
「信じられると、思うか」
◇
レイモンドはすぐに答えなかった。火を見て、それから鍋を見た。湯気がまっすぐ上がっていた。
「信じてくれ、とは言いません」
男がわずかに眉を動かした。
「言ったところで、あなたは信じないでしょう。信じろと言う人間を、一番警戒する所から来たのだから」
男は答えなかった。図星を否定しない種類の沈黙だった。
「だから言いません」
レイモンドは火の向こうの捕虜たちをゆっくり見渡した。椀を持つ者、眠っている者、足の傷に布を巻かれた者。百を超えて、まだ一人も欠けていない百人を。
「見て、決めてください。今日も明日も、ここにいればいい。誰がどう扱われるか、自分の目で数えればいい」
男の肩がかすかに動いた。言葉に反応したのを、ミーデルは見た。
「言葉で信じさせようとしたら、それはあなたの所と同じになる。約束も命令も、本国がさんざんやってきたはずだ。私たちがそれをやったら信じる理由がない」
木箱から少し腰を浮かせて、火に薪を一本足した。
「だから何もしません。飯を出して、聞いて、書く。それだけをあなたの前で続けます。信じるかどうかは、それを見てから決めてくれればいい」
火の粉が短く上がった。男は長いこと黙っていた。
◇
ミーデルはその沈黙を書かなかった。書けなかった、が近い。
レイモンドは説き伏せなかった。むしろ信じなくていいと言った。それがこの男にいちばん効いているのが、横から見ていてわかった。
押せば退く人だ。引けば自分から覗き込む人だ。本国でさんざん押されてきたから、押されることには身構えができている。でも引かれることには慣れていない。
商家にもそういう客がいた。売り込むほど財布を閉じて、放っておくと自分から戻ってくる客が。父はそういう相手には何も言わず、茶を出して待った。
レイモンドは茶の代わりに、飯を出していた。
◇
男が口を開いた。
「シバだ」
ミーデルは顔を上げた。
「あんたら、名前を聞いて回ってるんだろう。なら俺のも書いておけ。シバ。村はない。家族もない」
ペンを持ち直し、シバ、と書いた。村の欄に何を書くか一瞬迷った。ないと言った。でも生まれた場所がない人間はいない。
「生まれた村も、ないんですか」
シバが少し笑った。声のない笑いだった。
「あったが、もうない。ランバルトが大きくなる時に飲まれた。だから、村はない、で合ってる」
村の欄に線を引こうとして、やめた。代わりに書いた。故郷、消滅。
書いてから、その四文字がゴルドと同じだと気づいた。リアと、ブロンと、同じだと。この街には故郷を失った人間が何人もいる。火を挟んだ向こう側にも、一人いた。
◇
シバはミーデルの手元をまた見ていた。書かれた自分の名前を見ていた。
本国では名前を書かれることが消される印だったかもしれない、と前に言っていた。でも今、シバの名前は誰も死なせないための帳面に書かれた。シバはそれを長いこと見ていた。
それから、配給のパンに手を伸ばした。
一口かじるのかと思った。違った。シバはそのパンを半分に割り、片方を口に入れ、もう片方を上着の内側に入れた。
ごく自然な手つきだった。隠したのでも、惜しんだのでもない。そうするのが当たり前の体の動きだった。次にいつ食えるかわからない者の手だった。
ミーデルは、それを見た。
シバの名前は、もう帳面にあった。
故郷を失った者として。誰も死なせないための帳面に。
その半切れのパンが、
まだ埋まっていない距離だった。
ミーデルは書かなかった。書く欄がなかったし、書いてはいけない気もした。
◇
聞き取りは続いた。
シバが訳した。ミーデルが顔と手と間を読み、シバが言葉を渡した。二人がかりで、一人ずつの未来が立ち上がっていった。
トーレは、畑に帰りたいと言った。兄が一人でやっている、と。シバが訳す間、トーレは自分の両手を見ていた。鍬を握る手だった。剣はあとから持たされた手だった。ミーデルは、帰郷希望、と書いた。
次の男は、戦いたい、と言った。
ミーデルが顔を上げた。シバも一瞬、訳すのを止めた。
男はまだ若かった。村をランバルトに焼かれた、と言った。志願ではなく徴集だったが、同じ国に焼かれた村の出だった。だから、終わらせる側に立ちたい、と。
シバが訳し終えて、付け足した。
「こいつのは、本物だ。恨みじゃない。村を焼かれた人間が、もう焼かれる村を出したくないと言ってる」
ペンを止めた。
ケンジの言葉が頭をよぎる。
——やりたい未来を聞いてください。
ミーデルは書いた。
終わらせたい、と。
◇
三人目は長く黙っていた。
何も言わなかった。レイモンドが待った。シバも急かさなかった。火が燃える音だけがしていた。
やがて男が短く何か言った。
シバが訳さなかった。
「シバさん」
ミーデルが言うとシバは少し間を置いてから口を開いた。
「……わからない、と言ってる」
「わからない」
「未来が、わからない。考えたことがない。考えていいと、思ったことがない」
シバの声がさっきより低かった。他人の言葉を訳しているはずなのに、自分のことを言っているような間があった。
ミーデルはその欄に何を書けばいいのか迷った。
帰郷でも、戦闘でも、平穏でもない。わからない。
少し考えて書いた。保留、とは書かなかった。
考える時間が、必要、と書いた。
この男に必要なのは答えではなく、考えていいと思える時間なのだ、と。それは今日この場で引き出すものではなかった。飯と、湯と、誰も死なない日々が、いつか勝手に引き出すものだった。
シバがその帳面の文字を見ていた。読めないはずの文字を長いこと見ていた。
◇
昼が近づいた頃、ミーデルはふと、帳面の別のページを開いた。
数字のページだった。
捕虜百余名。一日の鍋の数。一人あたりの椀。アンばあさんの食材の残り。イレーナが運んできた食料は十日分、ただしそれはベルタの人数での十日であって、捕虜百人を足した数では、もっと早く尽きる。
ミーデルは数えた。
このまま全員を食わせ続けて、何日保つか。
答えは、長くなかった。
誰も死なせない、というのは毎日の鍋の数で支えられていた。綺麗事ではなく、食材の残量という現実の上にかろうじて乗っていた。その数字を小さく書きつけた。誰にも見せないつもりだった。でも、いつか誰かに見せなければならない数字だった。
◇
その時、裏庭の入り口に人が来た。
役場の若い使いだった。息を切らしていた。レイモンドのところへ駆け寄り耳元で何か告げた。
レイモンドの動きが、止まった。
ほんの一瞬だった。すぐにいつもの顔に戻った。でもミーデルはその一瞬を見た。聞き取りの間、一度も崩れなかったレイモンドの表情が、そこだけ、動いた。
使いが下がった。レイモンドはしばらく火を見ていた。
「ミーデルさん」
「はい」
「聞き取りは続けてください。急がなくていい。でも止めないでください」
「何かありましたか」
レイモンドは少し間を置いた。
「王都が動きました」
ミーデルはペンを止めた。
「援軍ですか」
「正規の、ね。イレーナさんが先に来たのは手続きを飛ばしてのことでした。その手続きがようやく追いついた」
「来るんですか。ベルタに」
「来ます」
レイモンドは火に目を戻した。
「味方が来る、と言えればいいんですがねえ」
それきり、何も言わなかった。
ミーデルにはその含みの意味が半分しかわからなかった。王都は味方のはずだった。改革派のイレーナが動き、捕虜の毛布まで運んできた。なのにレイモンドは味方が来るとは言わなかった。
言えなかった。
王都が一枚岩ではないことを、行政の人間であるレイモンドは知っていた。そしてベルタが今何を抱えているかも。捕虜百人。寝返った敵の部隊。偽りの戦。そのどれもが、見せ方を間違えれば、味方の手で壊れかねないものだった。
◇
シバがレイモンドを見ていた。
王都、という言葉に反応していた。たどたどしいベルタ語で、ぽつりと聞いた。
「あんたらの、後ろの国か」
「そうです」
シバは少し考えてから言った。
「味方でも、油断するな」
レイモンドがシバを見た。
「俺は伝令だった。いろんな所を回った。国を滅ぼすのは、いつも、隣からじゃない。後ろからだ」
それだけ言って、シバはまた口を閉じた。
ミーデルはその言葉を書かなかった。でも忘れないでおこうと思った。
火が静かに燃えていた。鍋はまだ湯気を上げていた。捕虜は誰も欠けていない。
その火を囲んでいられる時間が、借り物であることを、ミーデルは数字のページで知っていた。そしてレイモンドは別のところで知っていた。
王都が、来る。
ミーデルは数字のページを閉じた。
未来を聞く帳面の隣に、足りない食材の数が残っていた。




