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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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第五十二話:声の答え合わせ

偽りの戦、二日目の朝が来た。

川向こうの本陣には、まだ篝火が燃えている。


攻めあぐねる軍の火。嘘の火。

その嘘を、今日も誰かが書き続ける。



本陣の一番粗末な天幕。

アデルは紙の前に座っていた。


書きかけの報告書が一枚。本国へ送る戦況報告だった。

筆を執る。


『ベルタ、防備堅し。橋を失いし後も、抵抗衰えず。仮橋による再攻、図るも、損耗大きく、進展なし』


一行目から嘘だった。

二行目も。

最後まで。


アデルは静かに筆を置いた。

この報告書を、本国は疑わない。

書いたのが、アデルだからだ。



十年、そうだった。


滅びた国の宰相の息子。父を殺した国に、能力を買われて生かされた男。

ヴァルクはアデルを信用していなかった。だから戦場を転々とした。本国の目として。


兵はアデルの横を通るたびに距離を空けた。

誰も肩を並べない。

誰も冗談を言わない。

あれは、本国の目だ、と。


その目が、今、嘘を書いている。


本国はまだ気づいていない。

自分で送り込んだ目が、

もう本国を見ていないことを。


アデルは報告書を折った。

蝋を垂らし、封をした。



天幕の入口にヴォルスが立っていた。

「……書いたのか」


「書いた」


ヴォルスが報告書を見た。

「本国は、信じるか」


「信じる。俺が書いている限り」


ヴォルスが少し黙った。

「いつまで保つ」


アデルは指先で机を二度叩いた。

「わからん。本国が督促を送ってくるまでは保つ。督促が来たらまた書く。攻めている、もう少しだ、と」


「それで騙し続けられるのか」


「騙し続けるんじゃない」

アデルがヴォルスを見た。


「時間を稼ぐんだ。家族を逃がし終えるまで」


ヴォルスが口を閉じた。


「一人ずつだ。焦れば露見する。露見すれば全部終わる。だからゆっくり、確実に」


アデルが、封をした報告書を伝令に渡すために立ち上がった。


「お前は兵を頼む。揺れている者がいる。当然だ。一晩で信じられる話じゃない」


「……ああ」


「売る理由のない場所だと、わからせろ。ここには抜け駆けの餌がない。それを一人ずつ」


ヴォルスが頷き、天幕から出ていった。


机の上にもう一枚紙があった。

そこには報告書とは違う字が並んでいた。


百五十人分の兵の名前。

その横に小さく印がついていた。


家族が生きているかもしれない者。死んだと聞かされていた者。


アデルはその名簿をずっと作っていた。

監視役として、兵の素性を誰よりも知る立場にいた。

その目を今は別のことに使っていた。


誰を、どの家族と引き合わせられるか。

数える相手が、敵から家族に変わっていた。



鍛冶場から鉄を打つ音がした。

市場では魚が並び始めていた。

いつもの朝の音、匂い。

戦は続く。表向きは。

でもベルタの街中は、おかしいくらい穏やかだった。


捕虜を銭湯に、という話が出たのはその朝。

まだ頭は半分ぼんやりしていたケンジが、それだけは、はっきり言った。

「入れて、あげてください」


「冬の川に、落ちた人たちなので」

誰も反対しなかった。



ただ見張りは要る。

捕虜を湯に入れるなら、誰かが見ていなければならない。

ゲッツが人選を始めた。

「戦力は出せん。昨日の今日だ。皆、湯に入りたい」

腕を組んだ。


「見張りだけして、自分は入らんなんて、誰がやる」


その時ゴルドが手を挙げた。

「ゴルド?」


ゴルドが口を開けた。

何も出なかった。

自分の喉を指さした。

それから見張りの真似をした。立って見ている、という仕草だった。


「……声が出ないなら、見張りには困らんか」


ゴルドが頷いた。


「助かる。お前なら任せられる」


ブロンが横から言った。

「ゴルド見張りでもしてろ! お前湯に入っても、どうせ喋れねえんだ!」


ゴルドがブロンの足を踏んだ。

「いてっ」


それでもゴルドは見張りを引き受けた。

声の出ない男にちょうどいい仕事だ、と皆が軽く笑った。



夕方。

捕虜たちが順番に男湯に入った。

縄は最小限だった。逃げる体力はもう誰にも残っていなかった。


ゴルドは服を着たまま湯気の向こうに立っていた。

湯に浸かる者たちをただ見ていた。


濡れて震えていた男たちが、湯の中で少しずつほどけていく。丸まっていた背中が伸びていく。長く食っていなかった顔が、湯気の中で緩んでいく。


ゴルドはそれを見ていた。

敵だった男たちだ。

でも、湯の中では、ただの疲れた人間だった。



湯気が揺れた。

一人の老兵が湯の縁に腰を下ろした。

足を湯に入れた。

その、ふくらはぎが見えた。


ゴルドの目が止まった。

古い傷だった。

爪痕。魔獣の。ふくらはぎの外側から内側へ、四本。

ゴルドはその傷を知っていた。

知っているはずがなかった。

でも知っていた。


灰色熊だった。ミューベルの、北の沢で。追い込んだ獲物が最後に暴れた。前を行く者が足をやられた。

ゴルドはその時まだ子供だった。

後ろにいた。

足をやられた男がゴルドを庇った。


その傷だった。



世界が止まった。

湯気の音も、ブロンの声も、遠くなった。


ゴルドは動けなかった。


何十年も前だ。


その男は、あの日、街が落ちた日に散った。

逃げろ、と誰かが叫んでいた。こっちだ、と別の誰かが叫んでいた。声が、ばらばらだった。


ゴルドも叫んだ。

こっちにまとまれ、と。


届かなかった。


人が散った。

その中にいた。

足に傷のある、あの男も。

それきり会っていなかった。


死んだと、思っていた。



ゴルドの足が動いた。

ゆっくり、だった。

湯気の中を、一歩、また一歩。

老兵に近づいていく。


老兵が気づいた。

見張りが、こちらに来る。

老兵の顔が強張った。

何をされるのか。

捕虜にとって、見張りが近づいてくることは恐怖でしかなかった。湯から上がろうとした。逃げ場はなかった。震えていた。


ゴルドが、その前で止まった。

何もしなかった。


ただ、首を横に振った。

違う、と。

何もしない、と。


そして、ゴルドの顔が歪んだ。

泣きそうな顔だった。

老兵には意味がわからなかった。

敵の見張りが。

なぜ、泣く。



老兵がゴルドの顔を見た。

湯気の向こうのその顔を。

最初はただの敵の顔だった。

でも。

見ているうちに。

何かが引っかかった。


その目の形。眉の寄せ方。泣きそうなのに、泣くのをこらえている、その表情。

どこかで見た。

ずっと、昔に。


雪が溶けるように、少しずつ、記憶が今の顔に重なっていく。

まだ子供だった、誰か。後ろにいた、小さな影。狩りを覚え始めたばかりの。自分の後を、ついて回っていた。兄貴、兄貴と呼んでいた。


老兵の口が開いた。

「……ゴルド、か?」



ゴルドが息を吸った。

喉が潰れていた。

声は出ない、はずだった。

でも。

絞り出した。


呼ぼうとしたのは、「ラグ」だった。

子供の頃からそう呼んでいた。

でも、潰れた喉では、ラの音が、濁った。


「……ぁ、ぐ」


それ以上は出なかった。

間違えた、と思った。

違う、ラグだ、と言い直したかった。


でも、もう、音にならなかった。


ダグの顔が、ぐしゃり、と崩れた。

ゴルドが間違えたことに気づいて、苦しそうに口を動かしていた。ラ、と言おうとして、また濁った。

ラグがその口を見ていた。


それから笑った。

泣きながら笑った。

「そうだ……ラグだ」


湯から立ち上がろうとして、よろけた。

ゴルドが支えた。


ラグがゴルドの顔を両手で挟んだ。

「声が……でねえんだな」


ゴルドが頷いた。


ラグがゴルドの喉を見た。

潰れた喉を。


「……励まし続けてたよな。お前」

ゴルドの目が揺れた。


「聞いてたぞ。この街の中で。何言ってるかは、わからなかった。言葉が違うからな。でも」


ラグが笑った。

泣きながら、笑った。


「守れ、って言ってた。だろう。あの声。お前の声だったんだろう」


ゴルドが頷いた。

何度も頷いた。


潰れるまで叫び続けた、あの声を。ラグは敵陣で聞いていた。

あの日、届かなかった声が。何十年も経って。川を越えて。

届いていた。


「ごめんな」

ラグが言った。


ゴルドが止まった。

「早く気づいてやれなくて」


ゴルドの目から、こぼれた。

謝るのはどっちか。

あの日まとめられなかった、と。散らせてしまった、と。ゴルドは何十年もそれを背負ってきた。

なのに。

謝るのはラグの方だった。

「気づいてやれなくて」と。


ゴルドがずっと一人で抱えてきたものに、ラグは気づきもせず。逆に自分が謝った。


それで。


溶けた。


ゴルドがラグの肩に顔をうずめた。


声は出なかった。

潰れた喉から嗚咽だけが漏れた。

湯気が、二人を包んでいた。



見張りはゴルド一人だった。

だから、その場を見ていた者はいなかった。


ただ湯気だけが揺れていた。

何十年分の、答え合わせを。

誰にも聞かれずに。

声の出ない男と、死んだはずの兄貴が。

湯の中で、ようやく再会していた。


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