第五十二話:声の答え合わせ
偽りの戦、二日目の朝が来た。
川向こうの本陣には、まだ篝火が燃えている。
攻めあぐねる軍の火。嘘の火。
その嘘を、今日も誰かが書き続ける。
◇
本陣の一番粗末な天幕。
アデルは紙の前に座っていた。
書きかけの報告書が一枚。本国へ送る戦況報告だった。
筆を執る。
『ベルタ、防備堅し。橋を失いし後も、抵抗衰えず。仮橋による再攻、図るも、損耗大きく、進展なし』
一行目から嘘だった。
二行目も。
最後まで。
アデルは静かに筆を置いた。
この報告書を、本国は疑わない。
書いたのが、アデルだからだ。
◇
十年、そうだった。
滅びた国の宰相の息子。父を殺した国に、能力を買われて生かされた男。
ヴァルクはアデルを信用していなかった。だから戦場を転々とした。本国の目として。
兵はアデルの横を通るたびに距離を空けた。
誰も肩を並べない。
誰も冗談を言わない。
あれは、本国の目だ、と。
その目が、今、嘘を書いている。
本国はまだ気づいていない。
自分で送り込んだ目が、
もう本国を見ていないことを。
アデルは報告書を折った。
蝋を垂らし、封をした。
◇
天幕の入口にヴォルスが立っていた。
「……書いたのか」
「書いた」
ヴォルスが報告書を見た。
「本国は、信じるか」
「信じる。俺が書いている限り」
ヴォルスが少し黙った。
「いつまで保つ」
アデルは指先で机を二度叩いた。
「わからん。本国が督促を送ってくるまでは保つ。督促が来たらまた書く。攻めている、もう少しだ、と」
「それで騙し続けられるのか」
「騙し続けるんじゃない」
アデルがヴォルスを見た。
「時間を稼ぐんだ。家族を逃がし終えるまで」
ヴォルスが口を閉じた。
「一人ずつだ。焦れば露見する。露見すれば全部終わる。だからゆっくり、確実に」
アデルが、封をした報告書を伝令に渡すために立ち上がった。
「お前は兵を頼む。揺れている者がいる。当然だ。一晩で信じられる話じゃない」
「……ああ」
「売る理由のない場所だと、わからせろ。ここには抜け駆けの餌がない。それを一人ずつ」
ヴォルスが頷き、天幕から出ていった。
机の上にもう一枚紙があった。
そこには報告書とは違う字が並んでいた。
百五十人分の兵の名前。
その横に小さく印がついていた。
家族が生きているかもしれない者。死んだと聞かされていた者。
アデルはその名簿をずっと作っていた。
監視役として、兵の素性を誰よりも知る立場にいた。
その目を今は別のことに使っていた。
誰を、どの家族と引き合わせられるか。
数える相手が、敵から家族に変わっていた。
◇
鍛冶場から鉄を打つ音がした。
市場では魚が並び始めていた。
いつもの朝の音、匂い。
戦は続く。表向きは。
でもベルタの街中は、おかしいくらい穏やかだった。
捕虜を銭湯に、という話が出たのはその朝。
まだ頭は半分ぼんやりしていたケンジが、それだけは、はっきり言った。
「入れて、あげてください」
「冬の川に、落ちた人たちなので」
誰も反対しなかった。
◇
ただ見張りは要る。
捕虜を湯に入れるなら、誰かが見ていなければならない。
ゲッツが人選を始めた。
「戦力は出せん。昨日の今日だ。皆、湯に入りたい」
腕を組んだ。
「見張りだけして、自分は入らんなんて、誰がやる」
その時ゴルドが手を挙げた。
「ゴルド?」
ゴルドが口を開けた。
何も出なかった。
自分の喉を指さした。
それから見張りの真似をした。立って見ている、という仕草だった。
「……声が出ないなら、見張りには困らんか」
ゴルドが頷いた。
「助かる。お前なら任せられる」
ブロンが横から言った。
「ゴルド見張りでもしてろ! お前湯に入っても、どうせ喋れねえんだ!」
ゴルドがブロンの足を踏んだ。
「いてっ」
それでもゴルドは見張りを引き受けた。
声の出ない男にちょうどいい仕事だ、と皆が軽く笑った。
◇
夕方。
捕虜たちが順番に男湯に入った。
縄は最小限だった。逃げる体力はもう誰にも残っていなかった。
ゴルドは服を着たまま湯気の向こうに立っていた。
湯に浸かる者たちをただ見ていた。
濡れて震えていた男たちが、湯の中で少しずつほどけていく。丸まっていた背中が伸びていく。長く食っていなかった顔が、湯気の中で緩んでいく。
ゴルドはそれを見ていた。
敵だった男たちだ。
でも、湯の中では、ただの疲れた人間だった。
◇
湯気が揺れた。
一人の老兵が湯の縁に腰を下ろした。
足を湯に入れた。
その、ふくらはぎが見えた。
ゴルドの目が止まった。
古い傷だった。
爪痕。魔獣の。ふくらはぎの外側から内側へ、四本。
ゴルドはその傷を知っていた。
知っているはずがなかった。
でも知っていた。
灰色熊だった。ミューベルの、北の沢で。追い込んだ獲物が最後に暴れた。前を行く者が足をやられた。
ゴルドはその時まだ子供だった。
後ろにいた。
足をやられた男がゴルドを庇った。
その傷だった。
◇
世界が止まった。
湯気の音も、ブロンの声も、遠くなった。
ゴルドは動けなかった。
何十年も前だ。
その男は、あの日、街が落ちた日に散った。
逃げろ、と誰かが叫んでいた。こっちだ、と別の誰かが叫んでいた。声が、ばらばらだった。
ゴルドも叫んだ。
こっちにまとまれ、と。
届かなかった。
人が散った。
その中にいた。
足に傷のある、あの男も。
それきり会っていなかった。
死んだと、思っていた。
◇
ゴルドの足が動いた。
ゆっくり、だった。
湯気の中を、一歩、また一歩。
老兵に近づいていく。
老兵が気づいた。
見張りが、こちらに来る。
老兵の顔が強張った。
何をされるのか。
捕虜にとって、見張りが近づいてくることは恐怖でしかなかった。湯から上がろうとした。逃げ場はなかった。震えていた。
ゴルドが、その前で止まった。
何もしなかった。
ただ、首を横に振った。
違う、と。
何もしない、と。
そして、ゴルドの顔が歪んだ。
泣きそうな顔だった。
老兵には意味がわからなかった。
敵の見張りが。
なぜ、泣く。
◇
老兵がゴルドの顔を見た。
湯気の向こうのその顔を。
最初はただの敵の顔だった。
でも。
見ているうちに。
何かが引っかかった。
その目の形。眉の寄せ方。泣きそうなのに、泣くのをこらえている、その表情。
どこかで見た。
ずっと、昔に。
雪が溶けるように、少しずつ、記憶が今の顔に重なっていく。
まだ子供だった、誰か。後ろにいた、小さな影。狩りを覚え始めたばかりの。自分の後を、ついて回っていた。兄貴、兄貴と呼んでいた。
老兵の口が開いた。
「……ゴルド、か?」
◇
ゴルドが息を吸った。
喉が潰れていた。
声は出ない、はずだった。
でも。
絞り出した。
呼ぼうとしたのは、「ラグ」だった。
子供の頃からそう呼んでいた。
でも、潰れた喉では、ラの音が、濁った。
「……ぁ、ぐ」
それ以上は出なかった。
間違えた、と思った。
違う、ラグだ、と言い直したかった。
でも、もう、音にならなかった。
ダグの顔が、ぐしゃり、と崩れた。
ゴルドが間違えたことに気づいて、苦しそうに口を動かしていた。ラ、と言おうとして、また濁った。
ラグがその口を見ていた。
それから笑った。
泣きながら笑った。
「そうだ……ラグだ」
湯から立ち上がろうとして、よろけた。
ゴルドが支えた。
ラグがゴルドの顔を両手で挟んだ。
「声が……でねえんだな」
ゴルドが頷いた。
ラグがゴルドの喉を見た。
潰れた喉を。
「……励まし続けてたよな。お前」
ゴルドの目が揺れた。
「聞いてたぞ。この街の中で。何言ってるかは、わからなかった。言葉が違うからな。でも」
ラグが笑った。
泣きながら、笑った。
「守れ、って言ってた。だろう。あの声。お前の声だったんだろう」
ゴルドが頷いた。
何度も頷いた。
潰れるまで叫び続けた、あの声を。ラグは敵陣で聞いていた。
あの日、届かなかった声が。何十年も経って。川を越えて。
届いていた。
「ごめんな」
ラグが言った。
ゴルドが止まった。
「早く気づいてやれなくて」
ゴルドの目から、こぼれた。
謝るのはどっちか。
あの日まとめられなかった、と。散らせてしまった、と。ゴルドは何十年もそれを背負ってきた。
なのに。
謝るのはラグの方だった。
「気づいてやれなくて」と。
ゴルドがずっと一人で抱えてきたものに、ラグは気づきもせず。逆に自分が謝った。
それで。
溶けた。
ゴルドがラグの肩に顔をうずめた。
声は出なかった。
潰れた喉から嗚咽だけが漏れた。
湯気が、二人を包んでいた。
◇
見張りはゴルド一人だった。
だから、その場を見ていた者はいなかった。
ただ湯気だけが揺れていた。
何十年分の、答え合わせを。
誰にも聞かれずに。
声の出ない男と、死んだはずの兄貴が。
湯の中で、ようやく再会していた。




