休日2:英雄たちの、ひどい朝
朝が来た。
戦の翌朝だった。
広場には、昨日の火の燃え残りがあった。誰かが片付け始めていた。樽が転がっていて、それを起こしている者がいた。
街はゆっくりと、いつもの形に戻ろうとしていた。
戦争は終わっていない。川向こうには、まだ嘘の火がある。
でも、昨日でひとつ、区切りがついた。
街の誰もがそれを知っていた。
◇
アンばあさんの食堂に、ケンジが来なかった。
朝は必ず来る。来て、お茶を一杯飲んで、それからカウンターに座る。毎日そうだった。
来なかった。
アンばあさんはお玉を置いた。
ケンジの部屋に行った。
戸を叩いた。
返事がなかった。
開けた。
ケンジが寝台の上で起き上がっていた。
天井を見ていた。
「ケンジさん」
返事がなかった。
額に手を当てた。
熱かった。
「……まったく」
アンばあさんは外に出て、通りかかった子供を捕まえた。
「ギルドに行っとくれ。ケンジさんが熱を出した。今日は出てこないと。ガドさんに伝えてくれるかい」
子供が走っていった。
◇
ガドが来た。
レイモンドが来た。
イレーナも来た。昨日の旅装のままだった。少しは眠ったらしい。土は落ちていた。
三人でケンジの部屋に入った。
ケンジは寝台に座っていた。
顔が赤かった。
目がとろんとしていた。
「ケンジ」
ガドが言った。
ケンジがガドを見た。
しばらく見ていた。
「……ガドさん、二人、いますね」
ガドが止まった。
「一人だ」
「二人、います」
「一人だ」
ケンジが首を傾げた。
子供のような傾げ方だった。
イレーナが口に手を当てた。笑いをこらえていた。
レイモンドが小声で言った。
「これは……知恵熱、ですねえ」
アンばあさんがお茶を持って入ってきた。
「頭の使いすぎだよ。昨日いっぱい考えたんだろうね。湯気を上げてるのさ」
ケンジの枕元にお茶を置いた。
「一日寝てれば治る。賢い分だけ、ひどく出るんだろうね」
◇
ガドが寝台の横に腰を下ろした。
「無茶をしたな」
ケンジがガドを見た。
熱で潤んだ目だった。
「……こわかった」
ぽつり、と言った。
ガドが止まった。
「橋。落ちる音。あれ、こわかった。人が、いっぱい、落ちて」
ケンジが膝を抱えた。
「ぜんぶ、自分で、考えたのに。落とそうって、言ったのに。こわいって、思っちゃ、だめなのに」
熱のせいだった。
考えてから喋るという順番が外れていた。思ったことがそのままこぼれていた。
「でも、にげたく、なかったから」
ケンジが言った。
「にげたら、もっと、人が、死ぬから。だから、にげなかった」
それだけ言って、ケンジはお茶に手を伸ばした。
熱くて手を引っ込めた。
子供のような引っ込め方だった。
イレーナの手が止まっていた。
ガドがイレーナを見た。
レイモンドがガドを見た。
アンばあさんがお盆を持ったまま動かなくなっていた。
四人が目を合わせた。
誰も何も言わなかった。
驚きがあった。
それからゆっくり笑顔になった。
困ったような。
懐かしいような。
少し泣きそうな。
そういう笑顔だった。
ガドが小さく息を吐いた。
イレーナが奥歯を噛んだ。崩れる前に噛んだ。査察の日のあの顔だった。
レイモンドが目を逸らした。天井を見た。
アンばあさんだけがにこにこしていた。
知っていた、という顔だった。
最初から。
◇
ケンジは気づかなかった。
四人の目の交わりにも。
止まった空気にも。
自分がこぼした言葉にも。
ただ熱い手を、ふうふう吹いていた。
「……ケンジ」
ガドが言った。
「今日は寝てろ」
「はい」
素直だった。
ケンジが寝台に横になった。
横になってすぐ目を閉じた。
子供のように眠った。
四人が部屋を出た。
戸を閉める時、イレーナがもう一度ケンジを見た。
何か言いかけてやめた。
戸が閉まった。
◇
昼を過ぎた。
ケンジが目を覚ました。
熱は少し引いていた。
でも、頭はまだぼんやりしていた。
食堂に降りた。
最初に気づいたのはティナだった。
「あ、ケンジさん」
声で何人かが振り返った。
昼の食堂に人がいた。普段なら昼は出払っている時間だった。でも今日は戻ってきた者がまだ残っていた。戦の翌日だった。誰も急いでどこかへ行く気になれなかった。
ケンジが、ふらり、とした。
カウンターに座った。
ひとり、またひとりと、近くに寄ってきた。様子を見に来た、という風だった。
ティナが横にしゃがみ込んだ。
帳面を抱えていた。
「ケンジさん! もう、いいんですか」
「……だれの、はなしですか」
「ケンジさんのです」
「あ、そうだ」
ティナがしゃがみ込んだ。
「……戻ってるような、戻ってないような」
「半分だね」
アンばあさんが笑った。
「朝よりは賢いよ」
ティナが帳面を開いた。
「あの、捕虜の方の食事の数なんですけど、ケンジさんに聞いた方がいいかなって」
「……いくつ、でしたっけ」
「百を超えてます」
「……たくさん、ですね」
「知ってます」
ティナが笑った。
「今日は私たちでやっておきます。ケンジさんは座っててください」
「……はい」
素直だった。
ティナが帳面を抱えて走っていった。
走りながら少し笑っていた。
ケンジがぼんやりしているのが、嬉しいようだった。
昨日までケンジはずっと張り詰めていた。
それがゆるんでいた。
戦がひと区切りついた、ということだった。
◇
ゴルドが来た。
口を開けた。
何も出なかった。
もう一度開けた。
「…………」
声が出なかった。
昨日全戦線に声を届け続けた喉が、潰れていた。
ブロンが横にいた。
「ゴルド、なんか言え!」
ゴルドがブロンを見た。
口を動かした。
息だけが出た。
ブロンが笑い出した。
「声出ねえのか! あんだけ叫んでおいて!」
ゴルドがブロンの足を踏んだ。
「いてっ」
それが返事だった。
リアが入ってきた。
「ゴルドさん、声は?」
ゴルドが首を振った。
「……お大事に」
トールがケンジの顔を覗き込んだ。
「ケンジさん、もう大丈夫ですか」
「……はんぶん、です」
「半分?」
「アンばあさんが、そう、言いました」
トールが笑った。
ジンが笑った。マーサが笑った。ベックが口元を緩めた。
ひとしきり笑った。
笑えるということが、嬉しいようだった。
昨日まで笑えなかった。誰も。
戦がひと区切りついた。
その実感が笑いの中にあった。
ブロンが「俺の活躍を聞け!」と言い出して、ゴルドがまた足を踏んだ。「いてっ」。それでまた皆が笑った。
◇
ジンが顔を上げた。
「……足音」
全員が止まった。
ジンが戦の前のことを思い出させた。あの時もジンが最初に気づいた。
でもジンは笑っていた。
「ルードさんです。走ってます。嬉しそうな足音」
戸が開いた。
ルードだった。
息を切らしていた。でも顔は明るかった。
「できたぞ!」
全員が見た。
「長屋の向こうだ! 湯が沸いた! 銭湯ができた!」
◇
ケンジが顔を上げた。
「……ゆ?」
「お前が言い出したやつだ! 寒い夜に湯船に浸かりたいって、アンばあさんに言ったろう!」
ケンジが考えた。
考えて、考えて。
「……あ」
「思い出したか!」
「……なんか、お湯の、話を、した気が、します」
「した! ずいぶん前にした!」
ルードが笑った。
それから、少し声を落とした。
「ミゲルさんの公衆浴場を建て直す形でな。あの人が腰をやって、もう湯を運べんと言うから。お前が、それなら湯船にしましょうと言ったんだ」
ケンジがぼんやり頷いた。
「……ミゲルさん」
「覚えてるか」
「……お湯の、人、ですか」
「そうだ。お湯の人だ」
ルードが笑った。
「設計は戦の前に終わってた。ミゲルさんと、ゲオルクと、三人でな。材料も揃えてた」
少し間があった。
「でも戦が始まった。鉄も人手もぜんぶ、橋と防柵に回った」
ルードが肩をすくめた。
「だから延びてた。ずっと、湯船だけ空っぽで待ってた」
ケンジがぼんやり聞いていた。
「戦が終わった。昨日な。だから今朝から最後の仕上げをやった。ミゲルさんも腰をさすりながら来た」
ルードがケンジを見た。
「お前が言い出したやつだ。来い」
◇
街の外れだった。
長屋の向こう。
煙突から湯気が上がっていた。
戦の傷を癒すため、というのは後からついた理由だった。
元々は寒い夜のただの思いつきだった。
湯船に浸かりたい。
それだけだった。
ミゲルの公衆浴場は古かった。
腰を痛めた老人が、一人で湯を運んでいた。
それを建て直した。
湯船を張った。
釜を増やした。
設計は、橋の細工と同じ頃だった。
先に使われたのは橋だった。
遅れて湯船ができた。
人を守るためのものは、少しだけ後になった。
入口が二つあった。
右と、左。
ルードが指した。
「右が男湯。左が女湯だ」
ティナが後ろでほっとした顔をした。
「ちゃんと分かれてるんですね」
「当たり前だ。ケンジが最初にそれを言った。混ざったら戦より騒ぎになるって」
ケンジがぼんやり頷いた。
「……言った、気が、します」
入口の前に老人が立っていた。
腰に手を当てていた。
ミゲルだった。
「来たか」
ケンジがミゲルを見た。
「……お湯の、人」
ミゲルが笑った。
「お湯の人だ。よく覚えてたな」
「……はんぶん、です」
ミゲルが笑った。
「半分で十分だ」
◇
男湯ではトールが肩まで湯に沈んでいた。
動かなかった。
「トール、生きてるか!?」
ブロンが言った。
「……生きてます。でも、腕が」
トールが片腕をそろそろと上げた。途中で止まった。
「上がりません。昨日、槍を何本も流したので」
「ははっ! 筋肉痛か!」
ブロンが笑って自分の肩を回した。回して止まった。
「……いてっ」
「ブロンさんも、じゃないですか」
「滑っただけだ!」
湯が揺れた。
トールがもう一度腕を沈めた。
「……でも効きます。これ」
痛むところに熱がしみていく。昨日の強張りが、ほどけていく感じがした。
「効くな!」
ブロンがまた肩を回して、また「いてっ」と言った。
◇
女湯にはティナとミーデルとマーサとリアがいた。
湯に浸かると冷えていた体が少しずつ戻っていった。
リアが足を伸ばした。
ふくらはぎに湯が当たった。
「……っ」
小さく声が漏れた。
「リアさん?」
「いえ。……ふくらはぎが」
リアが腿を押した。指が沈むと奥が鈍く痛んだ。
「昨日何度も腰を落としたので。橋の抜くやつで」
いい踏み込みで、一気に。あの一回のために、前の晩から何度も同じ動きを繰り返していた。体は忘れていなかった。
でも湯の中だと、その痛みが悪くなかった。
「……効く」
ぽつりと言った。
「ルウさんにこれも教わったんですか」
ティナが聞いた。
「いえ。これは、たぶん、自分で覚えました」
リアが少し笑った。
壁の向こうから、ブロンの「あちぃ!」という声が聞こえてきた。
マーサが笑った。
「元気だねえ」
◇
捕虜たちも入った。
順番に。
見張りつきで。
長く戦っていた顔が、湯に入ると少しだけ緩んでいた。
それだけだった。
◇
ケンジは最後に入った。
男湯にミゲルと二人だった。
なぜ二人なのか、ケンジにはうまく言えなかった。
ただ、皆が上がった後、ミゲルがまだ腰をさすっていた。
それを見てなんとなく自分も最後にしようと思った。
理由はそれだけだった。
湯に浸かった。
ミゲルが隣で長い息を吐いた。
「……ああ」
腰に手を当てた。
「楽になる。何年ぶりかな。自分の湯に、自分で浸かるのは」
ケンジがぼんやり天井を見た。
熱はもう少しだけ残っていた。
「……いい、お湯ですね」
「お前が作らせたんだ」
ケンジが少し考えた。
それから、小さく頷いた。
「……そう、でした」
ミゲルが笑った。
「ちゃんと覚えてるじゃないか」
湯気が二人の間で揺れていた。
昨日のことは、少し遠かった。
橋の音も。
塀の上の、嘘の火も。
でも。
湯の中でケンジは思った。
なにか、いいことをした気がした。
誰かが楽になることを、した気がした。
それだけ、覚えていた。
◇
湯気が煙突から立ち上っていた。
戦の翌日だった。
男湯から、笑い声。
女湯から、笑い声。
川向こうでは、まだ嘘の火が焚かれていた。
戦争は終わっていない。
明日からまた長い戦いが始まる。
でも今日だけは。
誰もそのことを考えなかった。
湯が、あたたかかった。
だから、その日は十分だった。




