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バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

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休日2:英雄たちの、ひどい朝

朝が来た。

戦の翌朝だった。

広場には、昨日の火の燃え残りがあった。誰かが片付け始めていた。樽が転がっていて、それを起こしている者がいた。


街はゆっくりと、いつもの形に戻ろうとしていた。

戦争は終わっていない。川向こうには、まだ嘘の火がある。

でも、昨日でひとつ、区切りがついた。

街の誰もがそれを知っていた。



アンばあさんの食堂に、ケンジが来なかった。

朝は必ず来る。来て、お茶を一杯飲んで、それからカウンターに座る。毎日そうだった。

来なかった。


アンばあさんはお玉を置いた。


ケンジの部屋に行った。

戸を叩いた。

返事がなかった。


開けた。

ケンジが寝台の上で起き上がっていた。

天井を見ていた。


「ケンジさん」


返事がなかった。

額に手を当てた。

熱かった。


「……まったく」


アンばあさんは外に出て、通りかかった子供を捕まえた。


「ギルドに行っとくれ。ケンジさんが熱を出した。今日は出てこないと。ガドさんに伝えてくれるかい」


子供が走っていった。



ガドが来た。

レイモンドが来た。

イレーナも来た。昨日の旅装のままだった。少しは眠ったらしい。土は落ちていた。

三人でケンジの部屋に入った。


ケンジは寝台に座っていた。

顔が赤かった。

目がとろんとしていた。


「ケンジ」

ガドが言った。


ケンジがガドを見た。

しばらく見ていた。

「……ガドさん、二人、いますね」


ガドが止まった。

「一人だ」


「二人、います」


「一人だ」


ケンジが首を傾げた。

子供のような傾げ方だった。


イレーナが口に手を当てた。笑いをこらえていた。


レイモンドが小声で言った。

「これは……知恵熱、ですねえ」


アンばあさんがお茶を持って入ってきた。

「頭の使いすぎだよ。昨日いっぱい考えたんだろうね。湯気を上げてるのさ」


ケンジの枕元にお茶を置いた。

「一日寝てれば治る。賢い分だけ、ひどく出るんだろうね」



ガドが寝台の横に腰を下ろした。

「無茶をしたな」


ケンジがガドを見た。

熱で潤んだ目だった。


「……こわかった」

ぽつり、と言った。


ガドが止まった。


「橋。落ちる音。あれ、こわかった。人が、いっぱい、落ちて」

ケンジが膝を抱えた。


「ぜんぶ、自分で、考えたのに。落とそうって、言ったのに。こわいって、思っちゃ、だめなのに」

熱のせいだった。


考えてから喋るという順番が外れていた。思ったことがそのままこぼれていた。


「でも、にげたく、なかったから」

ケンジが言った。


「にげたら、もっと、人が、死ぬから。だから、にげなかった」

それだけ言って、ケンジはお茶に手を伸ばした。


熱くて手を引っ込めた。

子供のような引っ込め方だった。


イレーナの手が止まっていた。


ガドがイレーナを見た。


レイモンドがガドを見た。


アンばあさんがお盆を持ったまま動かなくなっていた。


四人が目を合わせた。

誰も何も言わなかった。

驚きがあった。


それからゆっくり笑顔になった。

困ったような。

懐かしいような。

少し泣きそうな。

そういう笑顔だった。


ガドが小さく息を吐いた。

イレーナが奥歯を噛んだ。崩れる前に噛んだ。査察の日のあの顔だった。

レイモンドが目を逸らした。天井を見た。

アンばあさんだけがにこにこしていた。

知っていた、という顔だった。


最初から。



ケンジは気づかなかった。

四人の目の交わりにも。

止まった空気にも。

自分がこぼした言葉にも。


ただ熱い手を、ふうふう吹いていた。


「……ケンジ」


ガドが言った。

「今日は寝てろ」


「はい」

素直だった。


ケンジが寝台に横になった。

横になってすぐ目を閉じた。

子供のように眠った。


四人が部屋を出た。

戸を閉める時、イレーナがもう一度ケンジを見た。

何か言いかけてやめた。


戸が閉まった。



昼を過ぎた。


ケンジが目を覚ました。

熱は少し引いていた。


でも、頭はまだぼんやりしていた。

食堂に降りた。


最初に気づいたのはティナだった。

「あ、ケンジさん」


声で何人かが振り返った。

昼の食堂に人がいた。普段なら昼は出払っている時間だった。でも今日は戻ってきた者がまだ残っていた。戦の翌日だった。誰も急いでどこかへ行く気になれなかった。


ケンジが、ふらり、とした。

カウンターに座った。


ひとり、またひとりと、近くに寄ってきた。様子を見に来た、という風だった。

ティナが横にしゃがみ込んだ。

帳面を抱えていた。


「ケンジさん! もう、いいんですか」


「……だれの、はなしですか」


「ケンジさんのです」


「あ、そうだ」


ティナがしゃがみ込んだ。

「……戻ってるような、戻ってないような」


「半分だね」

アンばあさんが笑った。


「朝よりは賢いよ」


ティナが帳面を開いた。

「あの、捕虜の方の食事の数なんですけど、ケンジさんに聞いた方がいいかなって」


「……いくつ、でしたっけ」


「百を超えてます」


「……たくさん、ですね」


「知ってます」


ティナが笑った。

「今日は私たちでやっておきます。ケンジさんは座っててください」


「……はい」

素直だった。

ティナが帳面を抱えて走っていった。

走りながら少し笑っていた。

ケンジがぼんやりしているのが、嬉しいようだった。

昨日までケンジはずっと張り詰めていた。

それがゆるんでいた。


戦がひと区切りついた、ということだった。



ゴルドが来た。

口を開けた。

何も出なかった。

もう一度開けた。

「…………」


声が出なかった。

昨日全戦線に声を届け続けた喉が、潰れていた。


ブロンが横にいた。

「ゴルド、なんか言え!」


ゴルドがブロンを見た。

口を動かした。

息だけが出た。

ブロンが笑い出した。

「声出ねえのか! あんだけ叫んでおいて!」


ゴルドがブロンの足を踏んだ。

「いてっ」


それが返事だった。


リアが入ってきた。

「ゴルドさん、声は?」


ゴルドが首を振った。

「……お大事に」


トールがケンジの顔を覗き込んだ。

「ケンジさん、もう大丈夫ですか」


「……はんぶん、です」


「半分?」


「アンばあさんが、そう、言いました」


トールが笑った。

ジンが笑った。マーサが笑った。ベックが口元を緩めた。

ひとしきり笑った。


笑えるということが、嬉しいようだった。


昨日まで笑えなかった。誰も。

戦がひと区切りついた。


その実感が笑いの中にあった。

ブロンが「俺の活躍を聞け!」と言い出して、ゴルドがまた足を踏んだ。「いてっ」。それでまた皆が笑った。



ジンが顔を上げた。

「……足音」


全員が止まった。

ジンが戦の前のことを思い出させた。あの時もジンが最初に気づいた。

でもジンは笑っていた。

「ルードさんです。走ってます。嬉しそうな足音」


戸が開いた。

ルードだった。

息を切らしていた。でも顔は明るかった。


「できたぞ!」


全員が見た。


「長屋の向こうだ! 湯が沸いた! 銭湯ができた!」



ケンジが顔を上げた。

「……ゆ?」


「お前が言い出したやつだ! 寒い夜に湯船に浸かりたいって、アンばあさんに言ったろう!」


ケンジが考えた。

考えて、考えて。

「……あ」


「思い出したか!」


「……なんか、お湯の、話を、した気が、します」


「した! ずいぶん前にした!」

ルードが笑った。


それから、少し声を落とした。

「ミゲルさんの公衆浴場を建て直す形でな。あの人が腰をやって、もう湯を運べんと言うから。お前が、それなら湯船にしましょうと言ったんだ」


ケンジがぼんやり頷いた。

「……ミゲルさん」


「覚えてるか」


「……お湯の、人、ですか」


「そうだ。お湯の人だ」

ルードが笑った。


「設計は戦の前に終わってた。ミゲルさんと、ゲオルクと、三人でな。材料も揃えてた」


少し間があった。

「でも戦が始まった。鉄も人手もぜんぶ、橋と防柵に回った」


ルードが肩をすくめた。


「だから延びてた。ずっと、湯船だけ空っぽで待ってた」


ケンジがぼんやり聞いていた。

「戦が終わった。昨日な。だから今朝から最後の仕上げをやった。ミゲルさんも腰をさすりながら来た」


ルードがケンジを見た。

「お前が言い出したやつだ。来い」



街の外れだった。

長屋の向こう。

煙突から湯気が上がっていた。


戦の傷を癒すため、というのは後からついた理由だった。


元々は寒い夜のただの思いつきだった。


湯船に浸かりたい。

それだけだった。


ミゲルの公衆浴場は古かった。

腰を痛めた老人が、一人で湯を運んでいた。

それを建て直した。

湯船を張った。

釜を増やした。

設計は、橋の細工と同じ頃だった。

先に使われたのは橋だった。

遅れて湯船ができた。

人を守るためのものは、少しだけ後になった。


入口が二つあった。

右と、左。


ルードが指した。

「右が男湯。左が女湯だ」


ティナが後ろでほっとした顔をした。

「ちゃんと分かれてるんですね」


「当たり前だ。ケンジが最初にそれを言った。混ざったら戦より騒ぎになるって」


ケンジがぼんやり頷いた。

「……言った、気が、します」


入口の前に老人が立っていた。

腰に手を当てていた。

ミゲルだった。


「来たか」


ケンジがミゲルを見た。

「……お湯の、人」


ミゲルが笑った。

「お湯の人だ。よく覚えてたな」


「……はんぶん、です」


ミゲルが笑った。

「半分で十分だ」



男湯ではトールが肩まで湯に沈んでいた。


動かなかった。


「トール、生きてるか!?」

ブロンが言った。


「……生きてます。でも、腕が」

トールが片腕をそろそろと上げた。途中で止まった。


「上がりません。昨日、槍を何本も流したので」


「ははっ! 筋肉痛か!」


ブロンが笑って自分の肩を回した。回して止まった。

「……いてっ」


「ブロンさんも、じゃないですか」


「滑っただけだ!」


湯が揺れた。

トールがもう一度腕を沈めた。

「……でも効きます。これ」


痛むところに熱がしみていく。昨日の強張りが、ほどけていく感じがした。

「効くな!」


ブロンがまた肩を回して、また「いてっ」と言った。



女湯にはティナとミーデルとマーサとリアがいた。

湯に浸かると冷えていた体が少しずつ戻っていった。

リアが足を伸ばした。

ふくらはぎに湯が当たった。


「……っ」

小さく声が漏れた。


「リアさん?」


「いえ。……ふくらはぎが」


リアが腿を押した。指が沈むと奥が鈍く痛んだ。

「昨日何度も腰を落としたので。橋の抜くやつで」


いい踏み込みで、一気に。あの一回のために、前の晩から何度も同じ動きを繰り返していた。体は忘れていなかった。

でも湯の中だと、その痛みが悪くなかった。

「……効く」

ぽつりと言った。


「ルウさんにこれも教わったんですか」

ティナが聞いた。


「いえ。これは、たぶん、自分で覚えました」

リアが少し笑った。


壁の向こうから、ブロンの「あちぃ!」という声が聞こえてきた。


マーサが笑った。

「元気だねえ」



捕虜たちも入った。


順番に。

見張りつきで。


長く戦っていた顔が、湯に入ると少しだけ緩んでいた。

それだけだった。



ケンジは最後に入った。


男湯にミゲルと二人だった。

なぜ二人なのか、ケンジにはうまく言えなかった。

ただ、皆が上がった後、ミゲルがまだ腰をさすっていた。

それを見てなんとなく自分も最後にしようと思った。


理由はそれだけだった。

湯に浸かった。

ミゲルが隣で長い息を吐いた。

「……ああ」

腰に手を当てた。

「楽になる。何年ぶりかな。自分の湯に、自分で浸かるのは」


ケンジがぼんやり天井を見た。

熱はもう少しだけ残っていた。

「……いい、お湯ですね」


「お前が作らせたんだ」


ケンジが少し考えた。

それから、小さく頷いた。

「……そう、でした」


ミゲルが笑った。

「ちゃんと覚えてるじゃないか」


湯気が二人の間で揺れていた。


昨日のことは、少し遠かった。

橋の音も。

塀の上の、嘘の火も。


でも。

湯の中でケンジは思った。


なにか、いいことをした気がした。

誰かが楽になることを、した気がした。


それだけ、覚えていた。



湯気が煙突から立ち上っていた。

戦の翌日だった。


男湯から、笑い声。

女湯から、笑い声。


川向こうでは、まだ嘘の火が焚かれていた。

戦争は終わっていない。


明日からまた長い戦いが始まる。

でも今日だけは。

誰もそのことを考えなかった。


湯が、あたたかかった。

だから、その日は十分だった。


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