表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バタフライエフェクトギルド〜異世界のギルド、書類が山積みだったので全部やっておきました〜  作者: くろかっぱ
三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
54/78

第五十一話:終わらせる準備

正面は持ちこたえていた。

ゴルドの声がまだ全戦線を繋いでいた。嗄れていた。それでも、新人の列は崩れなかった。


でも、それだけだった。


守れている。けれど押し返せない。百五十は引かなかった。引けないのだ、と二階のケンジは思った。捕虜たちが言っていた。帰れば、死ぬ。家族も。だから彼らは死ぬまで前に来る。


膠着だった。

このまま日が暮れれば夜には人が死ぬ。守り続けるだけでは、終わらない。


ケンジは魔石を置いた。

号令は出さなかった。

合図はもう決めてある。


窓の外、南の森を見た。



南の森がざわめいた。

鳥が一斉に飛び立った。

それから地鳴りがした。

木々の間から、影が溢れ出た。


魔獣だった。灰牙狼の群れ。鉄級の猪。森に押し込められ、行き場を失っていた獣たちが、何かに追い立てられるように戦場へなだれ込んだ。


追い立てていたのは二つの影だった。

木の上を枝から枝へ。

ルウとポウだった。


獣の退路だけを塞いで、戦場へ、戦場へと流していく。森で生きてきた一家にしかできない仕事だった。けしかけられた獣をけしかけ返す。


ランバルトが森に放った魔獣が、戦場へ還っていった。



ベルタ側は知っていた。

魔獣が来る。それが作戦だった。

新人たちは、ゲッツの指示ですでに陣形を変えていた。漁師は川際で身を低くしていた。冒険者は、獣の通り道を空けて壁際に退いた。誰も慌てなかった。来るとわかっているものは、怖くない。


ランバルトは違った。

魔獣が隊列の横腹に突っ込んだ。

ベルタ兵と向き合っていたところに横から獣の群れ。前は人、横は牙。どちらに剣を向ければいいのか、わからなくなった。叫び声が上がった。隊列が二つの脅威の間で裂けた。


混乱が生まれた。

それが合図だった。


号令はなかった。



川際でマルコが顔を上げた。

戦場の混乱を見た。


「今だ」


声は低かった。

漁師衆が川へ入った。

混乱に背を向けていた本陣の側面へ、川を渡って回り込む。敵の目は戦場の獣に向いていた。背後の川を誰も見ていなかった。


漁師が本陣のすぐ側まで来て初めて声を上げた。


「上がれ!」


本陣の守りが振り返った。

戦場では魔獣とベルタ兵。背後からは突然現れた漁師の一団。


守りが揺れた。どちらを向けばいいのか、一瞬、迷った。


その一瞬だった。


森の縁から一騎が出た。

赤い目の馬だった。


ヴェタ。

ジャウが乗っていた。


揺れた本陣の守りの、迷った一瞬の隙へ、まっすぐ。


ヴェタが駆けた。

重装の兵が槍を構えた。間に合わなかった。馬が槍ごと壁を割った。荒れた馬の膂力だった。一頭で討伐依頼が出る魔馬が、味方として、敵陣を切り裂いていく。


ジャウは馬上でただ腕を一閃した。


剣を持った兵が三人、ほとんど同時に宙を舞った。

何が起きたのか、誰も見えなかった。


老人の腕が動いたと思った時には、もう兵が転がっていた。斬られてはいなかった。打たれて、投げられて、地に伏していた。立てなくなっていた。それだけだった。それで十分だった。


ジャウが通った後に道ができていた。

兵が自分から退いた。あの老人の間合いに入ること自体が、死に近いと、本能でわかった。誰も近づけなかった。


その道を三騎が続いた。


ガドとカーラとフィン。

三人は戦わなかった。

ジャウが空けた道をただ駆けた。ジャウが薙いだ後ろを、誰も追えないように、塞ぎながら進んだ。ジャウが暴れるための三方の壁だった。先頭の老人が一人で道を作り、後ろの三騎がその道を閉じていく。


四騎が本陣の喉元に届いた。


ヴォルスの、目の前に。



突破した穴を塞ぐ者たちがいた。


ソルだった。


斧を担いで橋の入口に立った。


ブロンが横に並んだ。盾を構えた。

その後ろに頑丈な冒険者が数人。


本陣に駆け戻ろうとする敵兵を止めた。橋を渡って逃げようとする者を受け止めた。増援が来ようとする道を塞いだ。


ソルは斧を振らなかった。


立って塞いだ。それだけで誰も通れなかった。一歩でも踏み込もうとした兵が、斧の間合いを感じて足を止めた。


ブロンが盾で受けた。

押してくる兵を押し返した。倒さなかった。盾の壁が一歩も下がらなかった。


「ここは通さん!」

ブロンが吠えた。

声がでかかった。

その声が壁になっていた。本陣の中と外が、断たれた。


箱になった。



その箱へもう一つの隊が進んでいた。

イレーナ軍だった。

王都の兵が固まって進む。その中心にケンジがいた。


前を二人が開いていた。

リアとトールだった。


リアの双剣が立ち塞がる兵の武器を弾いた。斬らなかった。弾いて、体を入れて、道を空けて進んだ。ゾーンに入っていた。世界がゆっくりだった。どこに刃を入れれば、相手が剣を取り落とすだけで済むのか、見えていた。


トールがその逆側を開いた。

神経に魔力を纏わせて反応だけで動いた。向かってくる槍の柄を掴み、流し、兵の体勢を崩した。倒れた兵を踏まずに避けて進んだ。


「リアさん、右!」


「見えてる」


二人で道を作った。


イレーナ軍がその道を進んだ。

ケンジを囲んで。



イレーナが馬上からケンジを見下ろした。


「離れないでください」


「離れません」


「死んだら、承知しない」


声が、少し、訛っていた。


ケンジは前を見ていた。

リアとトールが開く道の、その先。

本陣の、天幕を。



本陣は混乱の只中にあった。

魔獣に裂かれ、側面を漁師に突かれ、喉元に四騎が届き、退路を塞がれた。


ヴォルスは、剣を抜いていた。

部下が膝をついていた。武器を取り落とす者が出ていた。


「立て! 隊列を組み直せ!」


ヴォルスの声はよく通った。

兵がそれでも立とうとした。立てない者を引き起こそうとした。混乱の中で、ヴォルスの声だけが隊を繋ぎ止めていた。


崩れかけて、なお、崩れきらない。

それは、恐怖で固められた規律だった。崩れれば、終わる。終われば、家族が死ぬ。だから、崩れられない。



そこへイレーナ軍が着いた。

兵の壁が割れて、中から一人の男が前に出た。


武器を持っていなかった。


鎧も着ていなかった。


ケンジだった。


ヴォルスが剣を向けた。


「……何だ、貴様は」


ケンジは答える前に、ひとつ息を吸った。


手の中にあるものを並べた。捕虜百人の証言。ミーデルの名簿。誰も死んでいないという事実。カーラの観測。ヴォルスの今の声、兵の膝のつき方、退路の状況。確かなものだけを、組み上げる。


ケンジは最初の一手を選んだ。


「ベルタ冒険者ギルドの、受付です」


ヴォルスが止まった。


「……何だと」


「武器は持っていません。戦えません。だから戦いに来たんじゃありません」


剣を向けられたまま、ケンジは続けた。


「捕虜から話を聞きました。百人います。全員生きています」


懐から帳面を出した。開いた。ミーデルの名簿の写しだった。


「名前、出身の村、家族。一人ずつ、書いてあります。橋で川に落ちた人も、森で動けなくなった人も、全員、ここで生きています。一人も死んでいません」


ヴォルスの目が名簿に向いた。


「……それが、どうした」


「彼らが同じことを言いました」


ケンジは名簿を見たまま言った。


「帰れば、死ぬと。負けて帰れば、自分も、家族も、殺されると」


本陣が、静かになった。

魔獣の咆哮も、剣戟も、遠くなった。

敵が、彼らの言えなかったことを口にしていた。


「これは聞いた話です。私の想像じゃない。百人が、別々に、同じことを言いました。だから事実だと思っています」


ケンジは顔を上げた。


「あなたたちは勝ちに来たんじゃない。負ければ死ぬから、来た。違いますか」


ヴォルスは答えなかった。


答えないことが、答えだった。


「だから、降伏しろとは言いません」


ヴォルスの剣先がわずかに動いた。


「降伏すれば、本国があなたたちを殺す。家族も。だから降伏はしない。今日も戦争は続けます。表向きは。ベルタは攻略できず、苦戦している。そう報告し続けてください。その間に家族を逃がします。逃がし終わってから、動く」


ここまでは用意してきた言葉だった。


塀の上で倒れる前に、組んでおいた筋書きだった。


ヴォルスの剣先が下がった。


下がって——それから、また、上がった。



「……いい話だ」

笑いは、すぐ消えた。


「だが、お前は、何もわかっていない」

ヴォルスが、剣を握り直した。


「家族を逃がす、と言ったな。何百人分だ。一人ずつ、国境を越えさせるのにどれだけかかる。ひと月か。半年か」


ケンジは答えられなかった。


「その間に、一人でいい。一人が怖くなって本国に駆け込めばいい。『ヴォルス隊は寝返った』と。それで終わりだ。まだ逃げていない家族が、全部、殺される」


ヴォルスの声が、低くなった。

「恐怖がどれだけ人を裏切らせるか、お前は知らん。俺は十年見てきた。一人だ。たった一人が耐えきれずに走る。それをお前はどう止める」


剣先が震えていた。

味方への不信だった。

逃がし終わるまでの空白。その間に走る一人。それがヴォルスの見ている穴だった。


ケンジの用意してきた筋書きには、その穴があった。

——ここから先は、用意していない。


ケンジは息を吸った。


脳に、魔力を回した。



世界が、ゆっくりになった。


音が、遠くなった。剣戟も、魔獣の咆哮も、ヴォルスの息遣いも、全部が、薄い膜の向こうに引いた。

その引き伸ばされた時間の中で、ケンジは手の中の材料を、ぜんぶ床にぶちまけるように広げた。


捕虜百人。名簿。逃がす順番。空白の期間。一人の密告。連座。家族。

ばらばらの破片だった。


普通の速さなら、一つずつ拾って、繋いで、組むのに何分もかかる。その時間が今はない。剣は目の前にある。

だから、速さで繋いだ。

ヴォルスが恐れているのは、連座だ。一人が裏切れば全員の家族が死ぬ。その仕組みが兵を動けなくしている。

——その仕組みは誰が作った。

ヴァルクだ。裏切れば家族も殺す。十年その恐怖で兵を縛ってきた。


連座。


ケンジの中で、破片が、一つの形に組み上がった。

それは新しい理屈ではなかった。ヴァルクの作った仕組みを、向きだけ変えたものだった。


世界の速さが、戻った。



「ヴォルスさん」

ケンジは、言った。


「あなたが恐れているのは、一人の抜け駆けですね。逃がし終わる前に、誰かが本国に駆け込む。それで、全員の家族が死ぬ」


「……そうだ」


「逆です」


ヴォルスの眉が、動いた。


「一人が密告すれば、『ヴォルス隊は寝返った』と本国に伝わる。その瞬間、まだ逃がし終わっていない家族が、全員、殺される。違いますか」


「だから、それを言っている」


「その家族の中には、密告した本人の家族も、いる」


ヴォルスが止まった。


「逃がす順番はこちらで決めます。一人ずつ。そして、誰の家族も、まだ全員は逃がし終わっていない状態を、ずっと保つ。最後の一人が逃げ終わるまで」


ケンジは、少し間を置いた。


「抜け駆けを、成立させないためです」


「順番は公開しません。誰が次か、本人にも伝えません。全員が終わるまで、自分の家族が最後かもしれない状態を維持します」


ケンジは続けた。


「その間、誰かが密告すれば、寝返りが本国に伝わる。伝われば、まだ残っている家族が殺される。その中には、密告した本人の家族もいる。つまり——密告した者が、自分の家族を、真っ先に殺すことになる」


ヴォルスの剣先が止まったまま動かなくなった。


「ヴァルクは、連座であなたたちを縛りました。裏切れば、家族も殺す、と。その仕組みをそのまま使います。ただし、向きを変える。ここでは、密告が裏切りになる。密告すれば、自分の家族が死ぬ。だから、誰も、密告できない」


少し、間を置いた。


「あなたたちは、もう、お互いを信じなくていい。信じられないままで、いい。誰も裏切れない仕組みの中にいるだけだ。十年、あなたたちを縛ってきた鎖が、今度は、あなたたちを守ります」



ヴォルスはケンジを見ていた。

長い沈黙だった。


それは、信じる、という顔ではなかった。

理解した、という顔だった。


ケンジの言っていることが、自分の知っている仕組みと同じで、ただ向きが逆なだけだと、わかった顔だった。十年、その鎖に縛られてきた男にしか、本当の意味はわからない理屈だった。


だからこそ、届いた。


ヴォルスの剣先が、ゆっくりと、下がっていった。

でも、ゼロにはならなかった。

最後の一寸が、下がりきらなかった。


理屈はわかった。わかっても、十年の恐怖は、理屈一つでは消えなかった。


その、下がりきらない剣先の前に。

一人の男が、進み出た。


アデルだった。


戦う格好をしていなかった。武器もなかった。兵が、道を空けた。避けるように。

ヴォルスの前に立って、アデルは言った。


「ヴォルス。俺だ」


ヴォルスの目がアデルに向いた。

「……アデル。お前、この話」


「乗っている」

短かった。


「お前が今、考えていることを当ててやる」


アデルの声は平らだった。


「『アデルが裏切るかもしれない』。違うか。俺が本国に駆け込んで、お前が寝返ったと告げれば、俺だけが助かる。お前は、それを一番に疑っている」


ヴォルスは答えなかった。

図星だった。


「当然だ」


アデルは続けた。

「俺は滅ぼされた国の宰相の息子だ。父を殺した国に、能力を買われて、生かされている。お前たちが俺を避けるのは知っている。何を考えているかわからない男だからだ。寝返るとしたら真っ先に俺だ。お前は、そう思っている」


アデルが、ヴォルスに、一歩近づいた。


「だが考えろ。俺が裏切って得をするか? 俺の家族はもういない。父は殺された。守る者がいない俺が、なぜ今さら本国に媚びる。俺が十年、何のためにお前たちを一人でも多く生かそうとしてきたか」


ヴォルスの息が止まった。


「軍議で俺が何を数えていたか、知っているか。戦果じゃない。生きている兵の数だ。一人でも減らさないように。お前たちを生かすためだけに、俺は、あの男の下で、頭を下げ続けてきた」


アデルの声が初めて揺れた。

抑えてきた、十年分が。


「俺は裏切らない。裏切る理由が、俺には、ない。守る家族もいない俺の、ただ一つの望みが、お前たちをこれ以上、死なせないことだからだ」


ヴォルスの剣が止まっていた。


アデルが、ヴォルスからケンジに目を移した。

それから、また、ヴォルスに戻した。

「お前はこれを罠だと思っている。話がうますぎる、と。当然だ。俺も最初はそう思った」


少し、間を置いた。


「だから数えた。俺はそれしかできん男だからな」


アデルの声は平らだった。


「魔獣を狩られた。川で止められた。橋で沈められた。森で溶かされた。今日もこうして本陣まで攻め込まれている。こちらの武力は、一度も通じなかった。知力も、最初から最後まで、読まれ続けた。五度数えて、五度とも負けだ」


ヴォルスは黙っていた。


「だが、見ろ」

アデルが戦場の方を指した。剣戟の音が、もう、まばらになっていた。


「これだけ攻め込まれて、俺たちは、まだ生きている。お前も、俺も、そこの兵も。本陣の喉元を取られて、誰一人、殺されていない。攻め込んだ側が、殺さずにここに立っている」


アデルがケンジを見た。それから、ケンジの後ろの——名簿を、見た。


「あの男は、捕虜が百人、一人も死んでいないと言った。俺はその帳面の中身を見ていない。だが、今、ここで見ている。喉元を取って、剣を抜かせて、それでも誰も殺さない。あの男のやることは、たぶん嘘じゃない」


声がわずかに、揺れた。


「しかも、これが国じゃない。軍でもない。街だ。その街が、我らに味方すると言っている」


「数えてきた俺が断言する。こんな好機は二度と来ない。これを蹴るのは、負けるよりも、愚かだ」


アデルはケンジの差し出した名簿を指した。


「もう一人じゃない。お前も、俺も、この百人も。耐えられる人間はここにいる」



ヴォルスの剣が地に落ちた。


音がした。


握っていられなかった。


ヴォルスの膝が折れた。


地面に両手をついた。


肩が震えていた。


十年だった。


兵を死なせないために、誰よりも厳しく、誰よりも強硬に、振る舞ってきた。弱みを見せればつけ込まれる。希望を持てば裏切りを招く。だから、ずっと、張り詰めていた。誰も信じず、誰にも頼らず、一人で隊を縛り続けてきた。


それが、今、切れた。


「……守れる、のか」


掠れた声だった。


「俺の兵を。あいつらの家族を。本当に」


「すぐには無理です」

ケンジが言った。


「時間がかかります。一人ずつです。失敗もするかもしれない。でも、やります。あなたが戦っているふりを続けてくれる限り」


ヴォルスは地面に手をついたまま、顔を上げた。

涙が出ていた。

武断派の指揮官が、敵の前で泣いていた。


恥ではなかった。

ずっと、泣けなかった男が、初めて、泣けるようになっただけだった。


「……頼む」


地面に、額がついた。


「頼む。守ってくれ。あいつらを。家族を。俺は、もうどうなってもいい。あいつらだけは」


それが、武断派の鎧の下に、ずっといた男だった。


家族を、兵を、守りたかっただけの、一人の男だった。



ケンジは脳の魔力を止めた。


世界が、元の速さに戻った。


どっと疲れが来た。視界の端がにじんだ。


でも、今日は。


今日だけは、間に合った。



戦場が静かになっていった。

魔獣はルウとポウが森へ戻し始めていた。漁師は川から上がった。橋の入口でソルが斧を下ろした。ブロンが盾を下ろし大きく息を吐いた。


正面ではゴルドが岩に腰を下ろしていた。声がもう出なかった。それでも最後まで、繋いだ。


ベルタ側は、誰も死んでいなかった。

向こうはそうではなかった。


この世界の人間は根が頑丈だ。誰もが身を守る力をうっすらと纏っている。打たれても、踏まれても、たいていは死なない。気を失い、骨を折り、それでも息はある。戦に出される者なら、なおさらだった。


それでも、十人ほどが、動かなくなっていた。魔獣に巻かれた者。矢の当たりどころが悪かった者。


頑丈さは、死を減らす。なくしはしない。


ケンジは、それを後で知ることになる。今日の作戦で、こちらは誰も失わなかった。向こうから、十人を奪った。誰も殺さないように組んだ戦で。


イレーナが馬を降りて、ケンジの横に立った。


地面で泣いているヴォルスを、しばらく見ていた。

それから、川の向こうを見た。


「……これで、終わったの」


「終わっていません」


ケンジが言った。


「今日、始まっただけです。長くなります。家族を逃がして、時を待って、あの一人を終わらせるまで」


イレーナが少し笑った。


「あなた、本当にレントンに似ている」


ケンジが振り返った。

「レントン?」


「昔、いたんです。戦わない人が。頭で戦って、終わらせるんじゃなく、始める人だった」


イレーナは川を見ていた。


「その人も、こういう無茶を、平気な顔でやりました」


それ以上は言わなかった。

ケンジは聞かなかった。聞いてはいけない名前だと、なんとなく、わかった。



その夜、戦争はまだ続いていた。


表向きは。


川向こうの本陣で、規則正しく篝火が焚かれていた。攻略中の軍の、火だった。


嘘の火だった。

その嘘が、何百もの家族を守っていた。


ベルタの塀の上から、ケンジはその火を見ていた。


戦えない男に、戦争は終わらせられない。

でも、終わらせる準備を、始めることなら。


塀の風が冷たかった。


明日は、たぶん、何も考えられない。


それでも、今日のことだけは、覚えていたかった。


たぶん、忘れるのだけれど。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ