第五十一話:終わらせる準備
正面は持ちこたえていた。
ゴルドの声がまだ全戦線を繋いでいた。嗄れていた。それでも、新人の列は崩れなかった。
でも、それだけだった。
守れている。けれど押し返せない。百五十は引かなかった。引けないのだ、と二階のケンジは思った。捕虜たちが言っていた。帰れば、死ぬ。家族も。だから彼らは死ぬまで前に来る。
膠着だった。
このまま日が暮れれば夜には人が死ぬ。守り続けるだけでは、終わらない。
ケンジは魔石を置いた。
号令は出さなかった。
合図はもう決めてある。
窓の外、南の森を見た。
◇
南の森がざわめいた。
鳥が一斉に飛び立った。
それから地鳴りがした。
木々の間から、影が溢れ出た。
魔獣だった。灰牙狼の群れ。鉄級の猪。森に押し込められ、行き場を失っていた獣たちが、何かに追い立てられるように戦場へなだれ込んだ。
追い立てていたのは二つの影だった。
木の上を枝から枝へ。
ルウとポウだった。
獣の退路だけを塞いで、戦場へ、戦場へと流していく。森で生きてきた一家にしかできない仕事だった。けしかけられた獣をけしかけ返す。
ランバルトが森に放った魔獣が、戦場へ還っていった。
◇
ベルタ側は知っていた。
魔獣が来る。それが作戦だった。
新人たちは、ゲッツの指示ですでに陣形を変えていた。漁師は川際で身を低くしていた。冒険者は、獣の通り道を空けて壁際に退いた。誰も慌てなかった。来るとわかっているものは、怖くない。
ランバルトは違った。
魔獣が隊列の横腹に突っ込んだ。
ベルタ兵と向き合っていたところに横から獣の群れ。前は人、横は牙。どちらに剣を向ければいいのか、わからなくなった。叫び声が上がった。隊列が二つの脅威の間で裂けた。
混乱が生まれた。
それが合図だった。
号令はなかった。
◇
川際でマルコが顔を上げた。
戦場の混乱を見た。
「今だ」
声は低かった。
漁師衆が川へ入った。
混乱に背を向けていた本陣の側面へ、川を渡って回り込む。敵の目は戦場の獣に向いていた。背後の川を誰も見ていなかった。
漁師が本陣のすぐ側まで来て初めて声を上げた。
「上がれ!」
本陣の守りが振り返った。
戦場では魔獣とベルタ兵。背後からは突然現れた漁師の一団。
守りが揺れた。どちらを向けばいいのか、一瞬、迷った。
その一瞬だった。
森の縁から一騎が出た。
赤い目の馬だった。
ヴェタ。
ジャウが乗っていた。
揺れた本陣の守りの、迷った一瞬の隙へ、まっすぐ。
ヴェタが駆けた。
重装の兵が槍を構えた。間に合わなかった。馬が槍ごと壁を割った。荒れた馬の膂力だった。一頭で討伐依頼が出る魔馬が、味方として、敵陣を切り裂いていく。
ジャウは馬上でただ腕を一閃した。
剣を持った兵が三人、ほとんど同時に宙を舞った。
何が起きたのか、誰も見えなかった。
老人の腕が動いたと思った時には、もう兵が転がっていた。斬られてはいなかった。打たれて、投げられて、地に伏していた。立てなくなっていた。それだけだった。それで十分だった。
ジャウが通った後に道ができていた。
兵が自分から退いた。あの老人の間合いに入ること自体が、死に近いと、本能でわかった。誰も近づけなかった。
その道を三騎が続いた。
ガドとカーラとフィン。
三人は戦わなかった。
ジャウが空けた道をただ駆けた。ジャウが薙いだ後ろを、誰も追えないように、塞ぎながら進んだ。ジャウが暴れるための三方の壁だった。先頭の老人が一人で道を作り、後ろの三騎がその道を閉じていく。
四騎が本陣の喉元に届いた。
ヴォルスの、目の前に。
◇
突破した穴を塞ぐ者たちがいた。
ソルだった。
斧を担いで橋の入口に立った。
ブロンが横に並んだ。盾を構えた。
その後ろに頑丈な冒険者が数人。
本陣に駆け戻ろうとする敵兵を止めた。橋を渡って逃げようとする者を受け止めた。増援が来ようとする道を塞いだ。
ソルは斧を振らなかった。
立って塞いだ。それだけで誰も通れなかった。一歩でも踏み込もうとした兵が、斧の間合いを感じて足を止めた。
ブロンが盾で受けた。
押してくる兵を押し返した。倒さなかった。盾の壁が一歩も下がらなかった。
「ここは通さん!」
ブロンが吠えた。
声がでかかった。
その声が壁になっていた。本陣の中と外が、断たれた。
箱になった。
◇
その箱へもう一つの隊が進んでいた。
イレーナ軍だった。
王都の兵が固まって進む。その中心にケンジがいた。
前を二人が開いていた。
リアとトールだった。
リアの双剣が立ち塞がる兵の武器を弾いた。斬らなかった。弾いて、体を入れて、道を空けて進んだ。ゾーンに入っていた。世界がゆっくりだった。どこに刃を入れれば、相手が剣を取り落とすだけで済むのか、見えていた。
トールがその逆側を開いた。
神経に魔力を纏わせて反応だけで動いた。向かってくる槍の柄を掴み、流し、兵の体勢を崩した。倒れた兵を踏まずに避けて進んだ。
「リアさん、右!」
「見えてる」
二人で道を作った。
イレーナ軍がその道を進んだ。
ケンジを囲んで。
◇
イレーナが馬上からケンジを見下ろした。
「離れないでください」
「離れません」
「死んだら、承知しない」
声が、少し、訛っていた。
ケンジは前を見ていた。
リアとトールが開く道の、その先。
本陣の、天幕を。
◇
本陣は混乱の只中にあった。
魔獣に裂かれ、側面を漁師に突かれ、喉元に四騎が届き、退路を塞がれた。
ヴォルスは、剣を抜いていた。
部下が膝をついていた。武器を取り落とす者が出ていた。
「立て! 隊列を組み直せ!」
ヴォルスの声はよく通った。
兵がそれでも立とうとした。立てない者を引き起こそうとした。混乱の中で、ヴォルスの声だけが隊を繋ぎ止めていた。
崩れかけて、なお、崩れきらない。
それは、恐怖で固められた規律だった。崩れれば、終わる。終われば、家族が死ぬ。だから、崩れられない。
◇
そこへイレーナ軍が着いた。
兵の壁が割れて、中から一人の男が前に出た。
武器を持っていなかった。
鎧も着ていなかった。
ケンジだった。
ヴォルスが剣を向けた。
「……何だ、貴様は」
ケンジは答える前に、ひとつ息を吸った。
手の中にあるものを並べた。捕虜百人の証言。ミーデルの名簿。誰も死んでいないという事実。カーラの観測。ヴォルスの今の声、兵の膝のつき方、退路の状況。確かなものだけを、組み上げる。
ケンジは最初の一手を選んだ。
「ベルタ冒険者ギルドの、受付です」
ヴォルスが止まった。
「……何だと」
「武器は持っていません。戦えません。だから戦いに来たんじゃありません」
剣を向けられたまま、ケンジは続けた。
「捕虜から話を聞きました。百人います。全員生きています」
懐から帳面を出した。開いた。ミーデルの名簿の写しだった。
「名前、出身の村、家族。一人ずつ、書いてあります。橋で川に落ちた人も、森で動けなくなった人も、全員、ここで生きています。一人も死んでいません」
ヴォルスの目が名簿に向いた。
「……それが、どうした」
「彼らが同じことを言いました」
ケンジは名簿を見たまま言った。
「帰れば、死ぬと。負けて帰れば、自分も、家族も、殺されると」
本陣が、静かになった。
魔獣の咆哮も、剣戟も、遠くなった。
敵が、彼らの言えなかったことを口にしていた。
「これは聞いた話です。私の想像じゃない。百人が、別々に、同じことを言いました。だから事実だと思っています」
ケンジは顔を上げた。
「あなたたちは勝ちに来たんじゃない。負ければ死ぬから、来た。違いますか」
ヴォルスは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「だから、降伏しろとは言いません」
ヴォルスの剣先がわずかに動いた。
「降伏すれば、本国があなたたちを殺す。家族も。だから降伏はしない。今日も戦争は続けます。表向きは。ベルタは攻略できず、苦戦している。そう報告し続けてください。その間に家族を逃がします。逃がし終わってから、動く」
ここまでは用意してきた言葉だった。
塀の上で倒れる前に、組んでおいた筋書きだった。
ヴォルスの剣先が下がった。
下がって——それから、また、上がった。
◇
「……いい話だ」
笑いは、すぐ消えた。
「だが、お前は、何もわかっていない」
ヴォルスが、剣を握り直した。
「家族を逃がす、と言ったな。何百人分だ。一人ずつ、国境を越えさせるのにどれだけかかる。ひと月か。半年か」
ケンジは答えられなかった。
「その間に、一人でいい。一人が怖くなって本国に駆け込めばいい。『ヴォルス隊は寝返った』と。それで終わりだ。まだ逃げていない家族が、全部、殺される」
ヴォルスの声が、低くなった。
「恐怖がどれだけ人を裏切らせるか、お前は知らん。俺は十年見てきた。一人だ。たった一人が耐えきれずに走る。それをお前はどう止める」
剣先が震えていた。
味方への不信だった。
逃がし終わるまでの空白。その間に走る一人。それがヴォルスの見ている穴だった。
ケンジの用意してきた筋書きには、その穴があった。
——ここから先は、用意していない。
ケンジは息を吸った。
脳に、魔力を回した。
◇
世界が、ゆっくりになった。
音が、遠くなった。剣戟も、魔獣の咆哮も、ヴォルスの息遣いも、全部が、薄い膜の向こうに引いた。
その引き伸ばされた時間の中で、ケンジは手の中の材料を、ぜんぶ床にぶちまけるように広げた。
捕虜百人。名簿。逃がす順番。空白の期間。一人の密告。連座。家族。
ばらばらの破片だった。
普通の速さなら、一つずつ拾って、繋いで、組むのに何分もかかる。その時間が今はない。剣は目の前にある。
だから、速さで繋いだ。
ヴォルスが恐れているのは、連座だ。一人が裏切れば全員の家族が死ぬ。その仕組みが兵を動けなくしている。
——その仕組みは誰が作った。
ヴァルクだ。裏切れば家族も殺す。十年その恐怖で兵を縛ってきた。
連座。
ケンジの中で、破片が、一つの形に組み上がった。
それは新しい理屈ではなかった。ヴァルクの作った仕組みを、向きだけ変えたものだった。
世界の速さが、戻った。
◇
「ヴォルスさん」
ケンジは、言った。
「あなたが恐れているのは、一人の抜け駆けですね。逃がし終わる前に、誰かが本国に駆け込む。それで、全員の家族が死ぬ」
「……そうだ」
「逆です」
ヴォルスの眉が、動いた。
「一人が密告すれば、『ヴォルス隊は寝返った』と本国に伝わる。その瞬間、まだ逃がし終わっていない家族が、全員、殺される。違いますか」
「だから、それを言っている」
「その家族の中には、密告した本人の家族も、いる」
ヴォルスが止まった。
「逃がす順番はこちらで決めます。一人ずつ。そして、誰の家族も、まだ全員は逃がし終わっていない状態を、ずっと保つ。最後の一人が逃げ終わるまで」
ケンジは、少し間を置いた。
「抜け駆けを、成立させないためです」
「順番は公開しません。誰が次か、本人にも伝えません。全員が終わるまで、自分の家族が最後かもしれない状態を維持します」
ケンジは続けた。
「その間、誰かが密告すれば、寝返りが本国に伝わる。伝われば、まだ残っている家族が殺される。その中には、密告した本人の家族もいる。つまり——密告した者が、自分の家族を、真っ先に殺すことになる」
ヴォルスの剣先が止まったまま動かなくなった。
「ヴァルクは、連座であなたたちを縛りました。裏切れば、家族も殺す、と。その仕組みをそのまま使います。ただし、向きを変える。ここでは、密告が裏切りになる。密告すれば、自分の家族が死ぬ。だから、誰も、密告できない」
少し、間を置いた。
「あなたたちは、もう、お互いを信じなくていい。信じられないままで、いい。誰も裏切れない仕組みの中にいるだけだ。十年、あなたたちを縛ってきた鎖が、今度は、あなたたちを守ります」
◇
ヴォルスはケンジを見ていた。
長い沈黙だった。
それは、信じる、という顔ではなかった。
理解した、という顔だった。
ケンジの言っていることが、自分の知っている仕組みと同じで、ただ向きが逆なだけだと、わかった顔だった。十年、その鎖に縛られてきた男にしか、本当の意味はわからない理屈だった。
だからこそ、届いた。
ヴォルスの剣先が、ゆっくりと、下がっていった。
でも、ゼロにはならなかった。
最後の一寸が、下がりきらなかった。
理屈はわかった。わかっても、十年の恐怖は、理屈一つでは消えなかった。
その、下がりきらない剣先の前に。
一人の男が、進み出た。
アデルだった。
戦う格好をしていなかった。武器もなかった。兵が、道を空けた。避けるように。
ヴォルスの前に立って、アデルは言った。
「ヴォルス。俺だ」
ヴォルスの目がアデルに向いた。
「……アデル。お前、この話」
「乗っている」
短かった。
「お前が今、考えていることを当ててやる」
アデルの声は平らだった。
「『アデルが裏切るかもしれない』。違うか。俺が本国に駆け込んで、お前が寝返ったと告げれば、俺だけが助かる。お前は、それを一番に疑っている」
ヴォルスは答えなかった。
図星だった。
「当然だ」
アデルは続けた。
「俺は滅ぼされた国の宰相の息子だ。父を殺した国に、能力を買われて、生かされている。お前たちが俺を避けるのは知っている。何を考えているかわからない男だからだ。寝返るとしたら真っ先に俺だ。お前は、そう思っている」
アデルが、ヴォルスに、一歩近づいた。
「だが考えろ。俺が裏切って得をするか? 俺の家族はもういない。父は殺された。守る者がいない俺が、なぜ今さら本国に媚びる。俺が十年、何のためにお前たちを一人でも多く生かそうとしてきたか」
ヴォルスの息が止まった。
「軍議で俺が何を数えていたか、知っているか。戦果じゃない。生きている兵の数だ。一人でも減らさないように。お前たちを生かすためだけに、俺は、あの男の下で、頭を下げ続けてきた」
アデルの声が初めて揺れた。
抑えてきた、十年分が。
「俺は裏切らない。裏切る理由が、俺には、ない。守る家族もいない俺の、ただ一つの望みが、お前たちをこれ以上、死なせないことだからだ」
ヴォルスの剣が止まっていた。
アデルが、ヴォルスからケンジに目を移した。
それから、また、ヴォルスに戻した。
「お前はこれを罠だと思っている。話がうますぎる、と。当然だ。俺も最初はそう思った」
少し、間を置いた。
「だから数えた。俺はそれしかできん男だからな」
アデルの声は平らだった。
「魔獣を狩られた。川で止められた。橋で沈められた。森で溶かされた。今日もこうして本陣まで攻め込まれている。こちらの武力は、一度も通じなかった。知力も、最初から最後まで、読まれ続けた。五度数えて、五度とも負けだ」
ヴォルスは黙っていた。
「だが、見ろ」
アデルが戦場の方を指した。剣戟の音が、もう、まばらになっていた。
「これだけ攻め込まれて、俺たちは、まだ生きている。お前も、俺も、そこの兵も。本陣の喉元を取られて、誰一人、殺されていない。攻め込んだ側が、殺さずにここに立っている」
アデルがケンジを見た。それから、ケンジの後ろの——名簿を、見た。
「あの男は、捕虜が百人、一人も死んでいないと言った。俺はその帳面の中身を見ていない。だが、今、ここで見ている。喉元を取って、剣を抜かせて、それでも誰も殺さない。あの男のやることは、たぶん嘘じゃない」
声がわずかに、揺れた。
「しかも、これが国じゃない。軍でもない。街だ。その街が、我らに味方すると言っている」
「数えてきた俺が断言する。こんな好機は二度と来ない。これを蹴るのは、負けるよりも、愚かだ」
アデルはケンジの差し出した名簿を指した。
「もう一人じゃない。お前も、俺も、この百人も。耐えられる人間はここにいる」
◇
ヴォルスの剣が地に落ちた。
音がした。
握っていられなかった。
ヴォルスの膝が折れた。
地面に両手をついた。
肩が震えていた。
十年だった。
兵を死なせないために、誰よりも厳しく、誰よりも強硬に、振る舞ってきた。弱みを見せればつけ込まれる。希望を持てば裏切りを招く。だから、ずっと、張り詰めていた。誰も信じず、誰にも頼らず、一人で隊を縛り続けてきた。
それが、今、切れた。
「……守れる、のか」
掠れた声だった。
「俺の兵を。あいつらの家族を。本当に」
「すぐには無理です」
ケンジが言った。
「時間がかかります。一人ずつです。失敗もするかもしれない。でも、やります。あなたが戦っているふりを続けてくれる限り」
ヴォルスは地面に手をついたまま、顔を上げた。
涙が出ていた。
武断派の指揮官が、敵の前で泣いていた。
恥ではなかった。
ずっと、泣けなかった男が、初めて、泣けるようになっただけだった。
「……頼む」
地面に、額がついた。
「頼む。守ってくれ。あいつらを。家族を。俺は、もうどうなってもいい。あいつらだけは」
それが、武断派の鎧の下に、ずっといた男だった。
家族を、兵を、守りたかっただけの、一人の男だった。
◇
ケンジは脳の魔力を止めた。
世界が、元の速さに戻った。
どっと疲れが来た。視界の端がにじんだ。
でも、今日は。
今日だけは、間に合った。
◇
戦場が静かになっていった。
魔獣はルウとポウが森へ戻し始めていた。漁師は川から上がった。橋の入口でソルが斧を下ろした。ブロンが盾を下ろし大きく息を吐いた。
正面ではゴルドが岩に腰を下ろしていた。声がもう出なかった。それでも最後まで、繋いだ。
ベルタ側は、誰も死んでいなかった。
向こうはそうではなかった。
この世界の人間は根が頑丈だ。誰もが身を守る力をうっすらと纏っている。打たれても、踏まれても、たいていは死なない。気を失い、骨を折り、それでも息はある。戦に出される者なら、なおさらだった。
それでも、十人ほどが、動かなくなっていた。魔獣に巻かれた者。矢の当たりどころが悪かった者。
頑丈さは、死を減らす。なくしはしない。
ケンジは、それを後で知ることになる。今日の作戦で、こちらは誰も失わなかった。向こうから、十人を奪った。誰も殺さないように組んだ戦で。
イレーナが馬を降りて、ケンジの横に立った。
地面で泣いているヴォルスを、しばらく見ていた。
それから、川の向こうを見た。
「……これで、終わったの」
「終わっていません」
ケンジが言った。
「今日、始まっただけです。長くなります。家族を逃がして、時を待って、あの一人を終わらせるまで」
イレーナが少し笑った。
「あなた、本当にレントンに似ている」
ケンジが振り返った。
「レントン?」
「昔、いたんです。戦わない人が。頭で戦って、終わらせるんじゃなく、始める人だった」
イレーナは川を見ていた。
「その人も、こういう無茶を、平気な顔でやりました」
それ以上は言わなかった。
ケンジは聞かなかった。聞いてはいけない名前だと、なんとなく、わかった。
◇
その夜、戦争はまだ続いていた。
表向きは。
川向こうの本陣で、規則正しく篝火が焚かれていた。攻略中の軍の、火だった。
嘘の火だった。
その嘘が、何百もの家族を守っていた。
ベルタの塀の上から、ケンジはその火を見ていた。
戦えない男に、戦争は終わらせられない。
でも、終わらせる準備を、始めることなら。
塀の風が冷たかった。
明日は、たぶん、何も考えられない。
それでも、今日のことだけは、覚えていたかった。
たぶん、忘れるのだけれど。




