第五十話:届く声
夜が、明けた。
東の空が白むと同時に、川向こうで角笛が鳴った。
総攻撃の合図だった。
百五十の重装が、仮橋を渡り始めた。
◇
ベルタの後方、ギルドの二階。
ケンジは窓辺に魔石を並べていた。
四組。正面、川側、森、それと予備。
各所から報告が上がってくる。
『正面来ます。重装。数、百以上』
ゲッツの声だった。
『川側動きなし。こっちには来ません』
カーラの声。
正面に集中している。挟撃を当てにした動きだった。分遣隊が森から出てくると、まだ信じている。
出てこないことを向こうは知らない。
帳面を開いた。
正面に厚みを置く。森のヴェタ家は、まだ伏せたまま。敵が森の異変に気づく前に——
『ゲッツさん、左に寄ってます』
新人の声が別の石から入ってきた。
『右も来てます、こっちも』
『後ろの隊が、分かれた』
報告が重なり始めた。
二つ、三つ、同時に。
ペンが追いつかなかった。
左に寄せろ、いや右も、後ろの分岐はどっちに——
考えている間に次が来る。
『新人の列、押されてます』
止まった。
◇
正面は橋の時とは違った。
逃げ場がなかった。
百五十がまっすぐ来る。重装の壁だった。矢が刺さっても止まらない者がいた。
新人の列が後ろへずれ始めた。
一人が、矢をつがえたまま、手が動かなくなっていた。
「……来る」
「放て!」
ゲッツが叫んだ。
矢がばらけた。狙いが揃わない。
橋の時は川という壁があった。逃げ場のない敵を上から撃つだけでよかった。
今は敵が来る。こちらに向かって。
新人の一人が、半歩下がった。
それが伝染した。
列が崩れかけた。
◇
二階でケンジは魔石を握っていた。
報告が渋滞していた。
四つの石が同時に震える。左、右、後ろ、正面。全部に答えようとして全部が遅れた。
一人の頭では足りない。
普通の速さでは戦線の全部は捌けない。
——使うか。
懐の感触が頭をよぎった。
脳に魔力を回せば見える。全部間に合う。
指が動きかけた。
その時。
魔石の一つが震えた。
ケンジの指示ではなかった。
◇
岸の高台にゴルドはいた。
崩れかけた新人の列が見えていた。
ゴルドは知っていた。あの動きを。
半歩下がる。それが伝染する。声がばらける。
——あの日と同じだ。
人が散る前の動きだった。
ゴルドは喉に魔力を集めた。
これまで合図にしか使わなかった力だった。「今だ」の二文字を、遠くまで届けるためだけの。
今日は違う。
ありったけを喉に込めた。
魔石を握った。全戦線に繋がる石を。
声が出た。
「乗り越えろ」
◇
その声はベルタの全部に届いた。
魔石を通して正面に。川に。森に。裏庭にまで。
「矢を取れ、槍を構えろ、剣を握り直せ」
新人の止まっていた手が、動いた。
弦をつがえた。狙いが揃った。
「大丈夫だ」
半歩下がっていた足が止まった。
声が震えを上書きしていた。恐怖が消えたわけではなかった。恐怖を抱えたまま、手が動く声だった。
「俺たちは、守れる」
矢が放たれた。
今度は揃っていた。
◇
声は川にも届いていた。
マルコが網を構え直した。
漁師衆がそれに続いた。
「……いい声だ」
マルコが誰にともなく言った。
◇
声は森にも届いていた。
南の森の木の上。
ルウとポウが顔を上げた。
「……ゴルドの声だ」
ルウが言った。
ポウがにこにこした。
「とどいたねー」
森の中まで届いていた。
ジャウが目を開けた。
「いい街だ」
もう一度言った。
◇
声は裏庭にも届いていた。
捕虜たちが火を囲んだまま、顔を上げた。
何を言っているかはわからなかった。言葉が違った。
でも声の意味はわかった。
守れ、と言っていた。
ドルフはそれを聞いていた。
ランバルトの号令はいつも「進め」だった。
「殺せ」だった。
「奪え」だった。
守れ、と兵を鼓舞する声をドルフは初めて聞いた。
椀を握る手に力が入った。
◇
二階でケンジは指を止めていた。
懐に手を伸ばしかけたまま。
魔石からゴルドの声がまだ続いていた。
新人へ。漁師へ。各隊へ。一人ずつ、名前を呼ぶように、指示が飛んでいた。ケンジが捌ききれなかった四つの戦線を、一つの声が束ねていた。
ケンジは手を引いた。
懐から離した。
帳面を閉じた。
自分が全部を読んで、全部に指示する必要はなかった。
声が、いた。
魔石を置いて窓の外を見た。
崩れかけていた列が揃っていた。
「……ゴルドさん」
呟いた。
二階には誰もいなかった。
聞いている者はいなかった。
それでよかった。
◇
正面の圧が止まった。
揃った矢が重装の足を止めた。崩れなかった列が押し返し始めた。
ブロンが前に出た。
「おおおおおっ!」
盾で重装の先頭を受けた。動じなかった。
その後ろで新人たちが矢を継いだ。
ゴルドの声がまだ全戦線を繋いでいた。
少しずつ嗄れ始めていた。
それでも、止まらなかった。
一声ごとに声が削れていく。
それでもゴルドは、声を出し続けた。
届かせ続けた。
あの日、届かなかった声を。
◇
川向こうの本陣でヴォルスが歯を噛んでいた。
正面が止められていた。崩れるはずの新兵の列が崩れなかった。
「分遣隊はまだか」
誰も答えなかった。
天幕の隅でアデルがベルタの方角を見ていた。
風に乗って、かすかに、声が届いていた。
何を言っているかは聞こえなかった。
でも、わかった。
あれは守る声だ。
アデルは目を閉じた。
——まだ詰んでいない。
そう思う自分がどちら側にいるのか。
もうわからなくなっていた。




