第四十九話:前夜
夜明けに、来る。
それを街の全員が知っている夜だった。
広場に歌はなかった。
火は焚かれていた。でも、囲む顔が静かだった。勝った夜の火とは、違う火だった。
◇
新人たちが弓の弦を確かめていた。
一人が何度も同じ弦を弾いていた。
「……ティナさん、これ、緩んでませんか」
「さっきも見たけど、大丈夫だったよ」
「もう一回、いいですか」
ティナが弦を見た。
「……うん。大丈夫」
新人の手が少し震えていた。
弦のせいではなかった。
ゲッツが離れた樽に腰かけてそれを見ていた。
止めなかった。
確かめたいだけ確かめさせていた。震える手で何度でも弦を弾けるならそれでいい、という顔だった。
◇
ヴェタ家は森へ戻る前の飯を食っていた。
アンばあさんの食堂の一番端の席だった。
ポウがいつも通り三杯目をおかわりしていた。
「ポウ、明日は森だ。食えるうちに食え」
「たべてるよー!」
ルウは黙って食べていた。
ソルも黙って食べていた。
ジャウが汁を飲み干して椀を置いた。
「アン」
「なんだい」
「うまかった」
アンばあさんが手を止めた。
それから笑った。
「明日も食べに来な。作っておくよ」
「うむ」
ジャウが立ち上がった。
四人が夜の街道へ出ていった。森へ戻る。明日の朝、敵は森を通る。そこで待つために。
ポウが振り返って手を振った。
「いってきまーす!」
行ってきます、だった。
行ってらっしゃい、と誰かが返した。
戦に行く挨拶ではなかった。
◇
ケンジはカウンターで帳面を開いていた。
配置は書き終えている。
矢の残り、捕虜の見張りの人数、各所の担当、ゴルドの合図の段取り。全部書いた。
最後のページだけ、白かった。
書かない計算がそこにある。
脳に魔力を回す。一時的に思考が速くなる。普通なら見落とす速さで全部が見える。
代償は翌日だ。頭がぼんやりする。一日まともに考えられなくなる。
戦いの最中に使えばその日は保つ。翌日が消えるだけだ。
——いつ使うか、ではない。
使わずに済むか、だ。
ペンを持った。
白いページに何も書かず閉じた。
まだだ。
◇
ゴルドは火喰鳥の三人といた。
ブロンが斧を磨いていた。珍しく無言だった。
リアが双剣の手入れをしていた。腰をときどき落としていた。明日のための最後の確認だった。
ゴルドは火を見ていた。
三人とも故郷を失っている。
ブロンとリアは同じ街だった。ゴルドだけが別の街だ。同じ国に奪われた。
ブロンとリアはたまに故郷の話をする。ゴルドは混じらない。
同じ痛みのようで出所が違う。並べれば、どちらかが軽くなる気がした。
だから黙って火を見ていた。
火がはぜた。
ゴルドは自分の街が落ちた日のことを考えていた。
人が散っていく日だった。
逃げろ、と誰かが叫んでいた。こっちだ、と別の誰かが叫んでいた。声がばらばらだった。誰の声も届いていなかった。
ゴルドも叫んだ。
こっちにまとまれ、と。
届かなかった。
声が小さかったわけではない。
ばらばらの恐怖の中で、一人の声は届かない。
人が散った。
それきり会っていない者がほとんどだった。
「ゴルド」
ブロンだった。
「明日、合図お前だな」
「ああ」
「頼むぞ」
それだけだった。
ゴルドは頷いた。
それから、喉にそっと手を当てた。
明日、声を出す。
魔石を通して全戦線に。新人にも、漁師衆にも、ヴェタ家にも。
ばらばらの七十人に、一つの声を。
今度は。
届かせる。
火を見たまま、ゴルドはそう決めた。
口には出さなかった。
◇
夜が更けた頃、北の門が騒がしくなった。
蹄の音だった。
数頭ではなかった。十数頭。荷を引いている音も混じっていた。重い車輪が石畳を鳴らしていた。
南ではない。北だ。敵ではない。
門に人が集まった。
門が開いた。
馬の列だった。先頭に、荷駄。その後ろに、騎馬。さらに後ろに荷車が続いていた。
先頭の騎馬から女が降りた。
イレーナだった。
査察の日以来だった。
旅装だった。あの日の品のある身なりではなく、土と埃にまみれていた。馬を休みなく飛ばしてきた者の姿だった。
「王都顧問、イレーナ」
息が、上がっていた。
「正規の援軍は、間に合わない。手続きが遅い。だから、先に来た」
ケンジが前に出た。
「物資は」
「矢を、千二百。食料、十日分。薬。それと——」
イレーナが後ろの荷車を指した。
「毛布も。多めに積みました」
ケンジが荷車を見た。守備隊の数より明らかに多い。
「……多いですね」
「足りないよりは、いいでしょう。凍えは防げます」
ケンジは少し考えた。
「では、余りは別に回します」
「別?」
「投降兵を生かしています」
短い沈黙が落ちた。
イレーナがケンジを見た。査察の日と同じ、確かめる目だった。
「……生かして、どうするのです」
「凍えさせて死なせては、生かした意味がないので」
イレーナが少しだけ目を細めた。
「……変わった街」
「よく言われます」
◇
イレーナが顔を上げた。
門の内側にガドが立っていた。
イレーナが口を開きかけて、やめた。
ガドも何も言わなかった。
長い、沈黙だった。
先に動いたのはアンばあさんだった。
人をかき分けて前に出てきた。
イレーナを見上げてにこにこした。
「おかえり」
イレーナの顔が崩れかけた。
崩れる前に、奥歯を噛んだのがわかった。
「……ただいま、戻りました」
それだけ言うのが、精一杯のようだった。
アンばあさんがイレーナの手を取った。
土と埃のついた手を両手で包んだ。
「冷たいねえ。中で温まりな」
ガドがようやく口を開いた。
「……来たか」
「来ました」
「無茶を」
「あなたに言われたくありません」
ガドが少し黙った。
それから、ごく短く言った。
「助かる」
イレーナがケンジを見た。
査察の日と同じ目だった。でもあの日より、揺れていた。
「あなたは、戦うんですか」
「戦いません。私は受付なので」
少し間があった。
「……前にも、そう言った人がいました」
声が、低かった。少し、訛っていた。
「その人も戦わない人でした。頭で戦う人でした。それで——」
止まった。
言わなかった。言えなかった。
「無事でいてください」
それだけ言った。
命令のような言い方だった。命令にしないと言葉にならないようだった。
イレーナがガドを見た。
何か言おうとして、またやめた。
代わりに門の外の川の方角を見た。南だった。明日、夜明けに、二百が来る方角だった。
「……あの国に、またこんな夜を作らせるんですか」
誰にともなく言った。
返事はなかった。
返事の代わりに、東の空がほんの少しだけ白み始めていた。
夜明けが近かった。




