第四十七話:森
仮橋は、いい橋だった。
ドルフは渡りながら、足元の板を確かめた。揺れない。軋まない。工兵が四日かけた仕事だ。
前の橋は、落とされたという。
百五十人ごと。
ドルフは五十人の分遣隊を率いて、本隊と別れた。任務は単純だ。森を抜け、ベルタの横腹に出る。正面が街道の防柵に張り付いた頃、横から入る。
森の入り口で、先遣隊が待っていた。
十五人。ひと月近くこの森に潜んでいた連中だ。
先遣隊長のマルツが言った。
「ご安心を。この森は知り尽くしています。獣道も、水場も、全部」
日に焼けて、痩せていた。でも目は生きていた。ひと月、誰にも見つからなかった男たちの目だった。
六十五人で、森に入った。
◇
最初の半日は、何もなかった。
マルツの案内は確かだった。歩きやすい道を選び、水場で休ませ、ぬかるみを避けた。
「ベルタは森を警戒していません。ひと月、こちらに兵が来たことは一度もない」
ドルフは頷いた。
正面の報告とも合う。旗ばかり多い防柵。妨害ひとつ来なかった仮橋。あの街はもう、限界なのだ。
それでも、とドルフは思う。
あの街は、橋で百五十人を沈めた街だ。
楽に見えるものほど、確かめろ。
「斥候を先に。本隊は間隔を詰めろ」
◇
最初の一人は、昼過ぎに消えた。
最後尾の荷持ちだった。
気づいたのは休憩の人数確認だ。六十五が、六十四だった。
「脱走か」
副長が言った。
「荷物ごとです」
「なら脱走だ」
そう処理した。徴集兵の脱走は珍しくない。
ただ、マルツが妙な顔をしていた。
「どうした」
「……いえ」
マルツが森の奥を見ていた。
「最後尾は、一番安全な位置です。逃げるなら、夜です。昼の行軍中に、列から消えるのは——」
言葉を選んでいた。
「消え方が、静かすぎます」
◇
夕方までに、あと二人消えた。
今度は脱走では説明がつかなかった。
二人組の斥候だった。先行させて、戻らなかった。捜索に出した三人が、斥候の槍だけを見つけてきた。
槍は、木に立てかけてあった。
丁寧に。
争った跡はなかった。血もなかった。叫び声を聞いた者もいなかった。
ただ、槍だけが、行儀よく木に立てかけてあった。
兵たちが、それを囲んで黙っていた。
「……魔獣ですか」
若い兵が言った。
「魔獣は槍を立てかけない」
ドルフは言ってから、後悔した。
言わない方がよかった。
兵たちの顔色が、変わった。
◇
夜営は、火を増やした。
見張りを倍にした。
それでも、朝の点呼で二人足りなかった。
見張りに立っていた二人だった。
交代の兵が持ち場に行ったら、誰もいなかった。武器は残っていた。今度は地面に、並べて置いてあった。
剣と、弓。
並べて。
「数えろ」
ドルフは言った。
五十九。
六十五で入った森で、まだ敵の顔を一度も見ていない。
マルツが地面を見ていた。長いこと見ていた。それから、立ち上がった。顔が白かった。
「足跡がありません」
「消したんだろう」
「違います。消した跡もないんです」
マルツの声が、初めて揺れた。
「自分はひと月この森にいました。獣の道も、鳥の声も、全部憶えました。ここは、知っている森のはずなんです」
森を見た。
「……今は、知らない森です」
◇
三日目、行軍が遅れ始めた。
兵が、列を詰めすぎるからだ。
前の男の背中に張り付くように歩く。誰も最後尾を歩きたがらない。小川を渡る順番で、押し合いが起きた。
昼、また一人消えた。
夜、今度は消える前に音がした。
短い、息を呑む音。
全員が武器を取って、音の方を照らした。
誰もいなかった。
仲間が一人、減っていただけだった。
その夜、夜の闇に自分から消える者が出始めた。
朝の点呼で、四人足りなかった。武器が残っていたのは一人分だけだった。残り三人は、武器ごと消えていた。
それが脱走だと、今度は誰にもわかった。
呪われた任務から、夜が逃がしてくれるなら。
ドルフは止める言葉を持っていなかった。
「数えろ」
「……四十六です」
◇
四日目の朝、マルツが進言してきた。
「引き返すべきです」
「任務がある」
「隊長」
マルツの目は、もうひと月生き延びた男の目ではなかった。
「我々は、ひと月見ていたんです。見ていたつもりだった。でも」
声を落とした。
「向こうは、我々を見ていた。最初から。ひと月、ずっと。そうとしか考えられない」
ドルフは答えなかった。
答えられなかった。
同じ結論に、昨夜のうちに着いていた。
それでも進んだのは、戻る橋の向こうに、本隊があるからだ。任務を捨てた隊長を、ランバルトは生かさない。
前に進むしか、なかった。
それすらも、と歩きながらドルフは思った。
それすらも、読まれているとしたら。
◇
昼前、急に、木が途切れた。
光だった。
森を抜けた。
開けた草地だった。その先に、ベルタの北壁が遠く見える。
兵たちが、光の中によろめき出た。何人かが膝をついた。泣き出す者がいた。森を出られた。それだけのことが、救いだった。
ドルフは数えた。
三十。
六十五で入って、三十で抜けた。
そして、顔を上げた。
草地の真ん中に、二人、立っていた。
老人と、男だった。
老人は、武器を持っていなかった。腰が少し曲がっていた。白髪だった。
男は、斧を地面に置いて、その柄に手を載せていた。
二人だけだった。
伏兵を探した。草の高さ、岩、森の縁。何もない。本当に、二人だけだった。
なのに。
足が、出なかった。
三十人の隊列が、誰に命じられたわけでもなく、止まっていた。
森で消えた三十五人の、答えがそこに立っている。
理屈ではなく、全員がそう理解した。
「た……隊長、あれ、ただの爺さんですよ」
若い兵だった。確かまだ十七の。森の四日間で、目の焦点が合わなくなっていた兵だ。
「爺さん一人じゃないですか……!」
恐怖が、限界を越える音がした。
「うわあああっ!」
剣を振り上げて、走り出した。
恐怖から逃げるための、突撃だった。
「待て——!」
ドルフは叫んだ。遅かった。
楽に見えるものほど、危ない。この街では。だからあの老人は、この戦場で一番——
若い兵の剣が、届く前に。
終わっていた。
何が起きたか、ドルフには見えなかった。
若い兵は、地面に転がっていた。生きていた。咳き込んでいた。
その剣だけが、老人の手元にあった。
老人が、剣を眺めた。
それから、転がっている兵を見下ろして、言った。
「若いの、いい踏み込みだ」
誰も、意味がわからなかった。
老人が剣を、地面に置いた。丁寧にだった。
森で、槍が木に立てかけてあったのと、同じ丁寧さだった。
ああ、とドルフは思った。
同じだ。
森の中も、ここも、最初から最後まで、同じ一つの手の中だった。
音がした。
誰かの武器が、地面に落ちた音だった。
一つ。
二つ。
止まらなかった。
ドルフは、自分の剣の重さを、初めて感じていた。
握っているのか、握らされているのか、わからなくなる重さだった。
指が、開いた。




