第四十四話:勝った夜に
夜のベルタは、明るかった。
広場に火がいくつも焚かれていた。樽が開いていた。誰かが歌っていた。下手だった。誰も止めなかった。
橋が落ちた夜だった。
街は、勝った夜の中にいた。
◇
広場の端で、ブロンが新人たちに囲まれていた。
「で、俺が正面で受けたわけだ!!」
「網はマルコさんでしたよね」
「俺も受けた!!」
「ブロンさん、途中で転んでませんでした?」
「転んでない!! 滑った!!」
新人たちが笑った。ブロンも笑った。声がでかかった。
今夜だけは、誰も「声がでかい」と言わなかった。
◇
ゲッツは樽の近くにいた。
新人が一人ずつ、酌をしに来ていた。
「手、まだ震えてます」
弓を持っていた新人が言った。
「そうか」
「……俺、人に向けて放ったの、初めてで」
ゲッツが杯を置いた。
「覚えとけ。震えなくなった時の方が問題だ」
新人が少し止まった。
「……はい」
「飲め。今夜は飲んでいい」
新人が頷いた。目が少し赤かった。
ゲッツは次の新人の酌を受けた。二十人、全員の杯を受けるつもりらしかった。
◇
ティナは泣いていた。
もう何度目かわからなかった。
「だってぇ……誰も、死ななかったんですよ……」
ミーデルが隣で帳面を開いていた。
「矢の消耗、石の補充、捕虜の食事の手配。明日やることを書き出しています」
「ミーデルさん、泣かないんですか」
「泣いています」
帳面の字が、少しだけ滲んでいた。
◇
広場の隅に、捕虜の一団がいた。
縄は最小限だった。逃げる体力が、そもそも残っていなかった。
トールが鍋を運んでいた。
「ほら、スープ。熱いから気をつけて」
捕虜たちが顔を上げた。
最初の一人が、椀を受け取った。
両手が、椀を包んだ。
飲んだ。
止まらなかった。
喉を鳴らして、一気に飲んだ。熱いはずだった。気にしていなかった。
隣の男も、その隣も、同じだった。
トールはお玉を持ったまま、見ていた。
椀の底まで飲み干して、男が小さく何か言った。
聞き取れなかった。でも、わかった。
トールはもう一杯よそった。
それから、近くにいたゴルドのところへ歩いていった。
「ゴルドさん」
「どうした」
「あの人たち……ずっと、食ってなかったんじゃないですか」
ゴルドが捕虜たちを見た。
「装備が軽いって、聞いてました。身軽なんだと思ってました。でも」
トールが言葉を探した。
「軽いんじゃなくて……持ってないんだ」
ゴルドはしばらく黙っていた。
「……かもな」
それだけ言った。
捕虜の一人が、スープの礼のつもりか、トールに向かって頭を下げた。
深かった。
敵の頭の下げ方じゃなかった。
◇
広場の灯りが届かない場所に、リアがいた。
一人だった。
ゆっくり、腰を落としていた。それから、立つ。また、落とす。
何度も、同じ動きを繰り返していた。
「リアさん」
リアが振り返った。
「飲まないんですか」
「あとで」
リアが手のひらを見た。
「……抜けたんです。考える前に、体が」
少し止まった。
「あの感じ、忘れたくなくて」
「ルウさんに報告ですね」
リアが少し笑った。
「次に会ったら、見せます」
◇
ケンジは広場を歩いていた。
声をかけられるたびに、立ち止まって、礼を返した。
「ケンジさんの作戦のおかげだ!」
「みなさんが動いたからです」
「飲んでますか!」
「少しだけ」
杯は持っていた。減っていなかった。
懐に、帳面があった。
開いていなかった。
昨日の夜から、一行も書けていない。
◇
その時、視界の端で、影が動いた。
カーラだった。
広場に、入ってこなかった。
縁を回って、ギルドの方へ歩いていく。レイクロークの黒が、火の明かりを避けていた。
足が、止まった。
カーラさんは、監視に出ていた。
戻る予定は、明日のはずだった。
杯を、近くの樽の上に置いた。
◇
執務室に、三人がいた。
ガド、カーラ、ケンジ。
窓の下から、歓声が聞こえていた。誰かの歌も聞こえていた。まだ下手だった。
カーラが立ったまま、話し始めた。
「川向こう、本隊です」
声が静かだった。
「数、二百」
窓の外で、誰かが笑った。
部屋の中では、誰も笑っていなかった。
「装備が違います。鎧が革じゃない。荷駄が後ろに続いています。天幕、糧食、攻城用の梯子も見えました」
帳面を、開いた。
手が、勝手に動いていた。
「昨日の百五十とは、別物です。あれは——」
カーラが少し止まった。
「あれは先触れです。本隊は、最初からこっちです」
書いた。
二百。重装。荷駄。梯子。
書きながら、わかっていた。
昨日の違和感の、答え合わせだった。
百五十は素直に罠に乗ったんじゃない。乗せられたんだ。こちらの手の内を全部使わせるために。
橋の罠。新人の弓。漁師の網。伏兵の位置。
全部、見せた。
全部、二百に伝わっている。
「もう一つ」
カーラが続けた。
「列の一番後ろに、変な男がいました」
ペンが止まった。
「戦う格好をしていません。武器も見えない。馬にも乗らずに、歩いていました」
「指揮官ではないんですか」
「指揮はとっていません。指揮官は先頭の馬です。でも」
カーラが少し考えた。
「……兵が、その男を避けて歩いていました」
部屋が静かになった。
「囚人ですか」
「縄はありません」
「客人ですか」
「天幕は一番粗末なのを使っていました」
わからなかった。
帳面に書いた。
後列。非武装。徒歩。兵が避ける。縄なし。粗末な天幕。
数えられない男が、一人いる。
◇
カーラが下がった後、ガドと二人になった。
帳面を開いたまま、数字を並べた。
鉄級以上、三十。新人、二十。漁師衆、二十。
矢、橋でほとんど使った。補充は数日かかる。
橋、もうない。あの仕掛けは、もう使えない。一回しか使えない仕掛けだった。
捕虜五十の見張りに、最低五人。
王都の援軍、早くてあと六日。
二百。重装。こちらの手の内は、割れている。
数字を、何度も組み替えた。
正面を厚くすれば、横が空く。横を守れば、街が薄くなる。新人を前に出せば——出せない。
どう組んでも、足りなかった。
ペンを置いた。
帳面を、閉じた。
音が、思ったより大きく響いた。
ガドが、こちらを見ていた。
「足りんか」
「……足りません」
初めて、その言葉を口に出した。
窓の下で、街はまだ笑っていた。
明日のことを、まだ誰も知らなかった。




