第四十三話:一回しか使えない
三日目の朝が来た。
霧が出ていた。
川も、橋も、白の中にあった。
◇
ギルドの執務室で、報告を待っていた。
ゲオルクさんとルードさんは、昨夜から橋にいる。終わったという知らせは、まだない。
ガドが地図の前に立っていた。
レイモンドが窓の外を見ていた。
誰も喋らなかった。
魔石が、震えた。
『終わった』
ゲオルクの声だった。
部屋の空気が、少しだけ動いた。
『寝てない』
別の声がした。
『俺もだ』
ルードだった。
「お疲れ様です。仕掛けの状態を教えてください」
『ルードが説明する』
少し間があった。
『梁は三本だ。二本は昨夜のうちに切り込みを入れた。残り一本に、ゲオルクの金具が噛ませてある』
ルードの声は、疲れていた。でも揺れていなかった。
『金具を抜けば、切り込みが開く。あとは橋が自分の重さで落ちる』
「人が乗っていても、ですか」
『人が乗っているほど早く落ちる』
少し止まった。
『重いほど、確実に落ちる仕掛けだ』
帳面に書いた。
敵の数が、敵を沈める。
「動くかどうか、試したのか」
ガドが言った。
『試せば落ちる』
ゲオルクの声だった。
『一回しか使えない仕掛けだ。試しは、本番だ』
誰も、何も言えなかった。
『それと、言っておく』
ゲオルクが続けた。
『金具は固い。狙って固くした。緩ければ、勝手に抜ける。抜くには、いい踏み込みで一気に引くことだ。迷った引き方だと、抜けん』
「わかりました」
『誰が抜く』
その質問の答えを、まだ誰も持っていなかった。
◇
火喰鳥が呼ばれた。
ゴルド、ブロン、リア、トール。四人が執務室に並んだ。
地図を見せた。橋、観測点、川。仕掛けの説明をした。
「合図はゴルドさんです。橋を見て、渡り切った瞬間を判断してください。魔石で伝えてください」
ゴルドが地図を見た。
「俺が見て、誰が抜く」
「それを、今から決めます」
少し止まった。
「条件は三つです。敵前の岸に隠れて待てること。合図から動くまでが速いこと。抜いた後、すぐ離れられること」
部屋が静かになった。
ブロンが手を挙げかけた。
ゴルドが言った。
「リア」
短かった。
全員がリアを見た。
「橋の下は狭い。ブロンは入らん。トールは魔力が揺れる、待ち伏せ向きじゃない。俺は合図を見る」
ゴルドが続けた。
「それに」
少し間があった。
「お前、変わっただろう。あの兄弟に習い始めてから」
リアが少し止まった。
「……はい」
「待てるか。冬の川の上で、声を出さずに」
「待てます」
「動けるか。合図で、迷わずに」
リアが頷いた。
「吐く前に、動きます」
ゴルドが少し目を細めた。
「……そうか」
それだけだった。
「決まりです。リアさん、ルードさんから金具の場所と抜き方を聞いてください。一度で覚えてください」
「わかりました」
ブロンが挙げかけた手を下ろした。
「……俺、入らないのか。橋の下」
「入りません」
「そうか!」
声がでかかった。少し、寂しそうだった。
「ブロンさんには正面があります。一番敵に近い場所です」
「……そうか!!」
声が戻った。
◇
昼前、カーラから魔石が来た。
『動きました』
部屋が止まった。
『川向こう、夜明け前から隊列。橋の方向です。数、百五十前後』
百五十。
前より増えている。
『速さからみて、橋に着くのは——』
少し間があった。
『今日の夕方です』
魔石が静かになった。
ガドが地図を見た。
「読み通りだな」
「読み通りすぎます」
帳面を開いた。
伝令が出たのが一昨日の夕方。本隊が動いたのが今朝。決断が早い。
まるで、紙が着く前から、行く気だったような速さだ。
引っかかった。
でも、考えている時間はなかった。
「配置につきます」
◇
夕方が近づいた。
霧は、晴れていた。
橋のたもとの茂みに、リアはいた。
橋の下、梁の陰。金具まで、三歩。
ルードの説明は一度だった。一度で覚えた。場所、角度、引く方向。
いい踏み込みで、一気に。
川の音がしていた。
冬の川だった。水面から、冷気が上がってくる。
足の先が冷えていた。
息を、細くした。
腰を、下げた。
おなかのしたに、おもいものがあるとおもって。
ポウの声を思い出して、少しだけ、口元が動いた。
橋の上から、音がした。
靴音だった。
一人じゃなかった。
百五十の靴音が、ゆっくり、橋に乗り始めた。
頭の上を、戦争が歩いていた。
リアは、待った。
世界が、ゆっくりになっていく。
◇
岸の高台に、ゴルドはいた。
橋が見えた。
兵が渡っていく。列が長い。先頭はもう、こちら側の岸が近い。
数えていた。
渡り切った数じゃない。
橋の上に残っている数を、数えていた。
多いほど、落ちる。
でも、欲をかけば、先頭がこちらの岸で展開する。展開されれば、新人たちが受けきれない。
引きつける。でも、引きつけすぎない。
その一点を、見ていた。
喉に、魔力を集めた。
声はまだ出さない。
ただ、いつでも出せるように。
隣でトールが魔石を両手で包んでいた。
「……ゴルドさん」
「まだだ」
先頭が、岸を踏んだ。
二十、三十。こちら側に降りていく。
橋の上には、まだ百近くが乗っている。
列の中ほどに、旗があった。
指揮官の位置だ。
旗が、橋の中央を過ぎた。
「今だ」
トールが魔石に叫んだ。
『今だ!!』
◇
世界が、ゆっくりだった。
リアは、声を聞いた。
聞いた時には、動いていた。
息は、まだ吸ったままだった。
一歩。二歩。三歩。
金具。
掴んだ。
いい踏み込みで、一気に。
腰から、引いた。
腕じゃなかった。体の中心が先に動いて、腕がついてきた。
金具が、抜けた。
音が変わった。
木が、悲鳴を上げた。
切り込みが開いていく音。梁が割れていく音。橋が、自分の重さを支えきれなくなっていく音。
リアは、もう走っていた。
吐いていなかった息を、岸で吐いた。
振り返った。
橋が、中央から折れた。
◇
音は、一拍遅れて来た。
百人分の悲鳴と、木材と、武具と、冬の川。
全部が、いっぺんに落ちた。
水柱が上がった。
ゴルドは見ていた。
橋の上にいた兵が、川にいた。
渡り切っていた先頭の集団が、振り返った。
帰り道が、消えていた。
「放て」
ゲッツの声が、高台の反対側から聞こえた。
矢が降った。石が降った。
岸に取り残された先頭の集団が、散った。後ろは川。前は矢。横は——
「おおおおおっ!!」
ブロンだった。
漁師衆と、火喰鳥の正面部隊が、岸を塞いだ。
マルコの網が飛んだ。
挟まれた兵が、武器を捨て始めた。
一人、また一人。
戦いに、ならなかった。
◇
川の中は、戦いどころではなかった。
兵が、流されていた。
掴まる橋が、もうなかった。
岸に這い上がった者から、膝をついた。冬の川だった。立てる者の方が少なかった。
ゴルドは高台から、全部を見ていた。
勝った、という言葉は、浮かばなかった。
ただ、終わった、と思った。
今日の分は。
◇
夕暮れの岸に、捕虜が並んでいた。
武器を捨てた兵が、五十あまり。濡れて、震えていた。
漁師衆が、火を焚き始めた。
マルコが言った。
「敵に火を貸すんですか」
ゴルドが答えた。
「凍え死なれても困る」
それだけだった。
トールが魔石をベルタに向けて言った。
「終わりました! 橋、落ちました! 全部、うまくいきました!」
魔石の向こうで、ケンジの声がした。
『お疲れ様です』
少し間があった。
『……全部、ですか』
トールが少し止まった。
「……はい! 多分!」
『指揮官は』
ゴルドが魔石を取った。
「捕虜の中にいない。川に落ちた組だ。今、漁師衆が引き上げてる」
『生きていますか』
「わからん」
魔石が、少し黙った。
『——生かしてください。聞きたいことがあります』
◇
ベルタのギルドで、ケンジは魔石を置いた。
執務室に、歓声が届いていた。
街が沸いていた。誰かが鐘を鳴らしていた。
帳面を開いた。
橋、落ちた。捕虜五十。指揮官、捜索中。こちらの死者、なし。
完璧に近い数字だった。
なのに。
ペンが止まったままだった。
百五十は、全部出てきた。陽動を疑う様子もなく、まっすぐ、罠の上に。
決断が早すぎた。動きが素直すぎた。
まるで——
惜しくない兵だったような。
帳面に書こうとして、止まった。
何を書けばいいのか、わからなかった。
違和感だけが、あった。
ペンを置いた。
窓の外で、街がまだ沸いていた。




