第四十二話:森の文法
夜明け前のギルドは、暗かった。
カウンターに灯りを一つだけ置いた。
ルウとポウ、ジン、フィン。それと帳面。
「始めます」
帳面を開いた。
「南の森に、人がいると思っています。ランバルトの先遣です。確かめてほしいのは四つです」
指を折った。
「一つ、人数。二つ、装備と食料の量。三つ、伝令の頻度。誰かが出入りするなら、どれくらいの間隔か。四つ——」
少し止めた。
「何を見ているか。橋なのか、街道なのか、街なのか。顔の向きでいいです」
ルウが黙って聞いていた。
ポウが指を折りながら復唱した。
「にんずう、にもつ、でんれい、かお!」
「そうです」
「おぼえた!」
「戦わないでください。近づきすぎないでください。確かめて、帰ってくる。それだけです」
「了解」
ルウが言った。
「ひとつ聞く」
「どうぞ」
「見つけた後、潰さなくていいのか」
「潰さないでください。いることを、こちらが知らないふりをしたいんです」
ルウが少し考えた。
「……罠の罠か」
少し止まった。
森の人間の理解は、早い。
「そうです」
「了解」
◇
ジンが紙を広げた。
橋と森の図だった。岩場、木の配置、鳥の声が消えた場所に印。
「ここです。橋から見て、森に三百歩くらい入ったあたり」
ルウが図を見た。
長く見ていた。
「水は」
ジンが少し止まった。
「……水?」
「人が居着くなら水がいる。近くに沢はあるか」
ジンが図を思い出すように目を閉じた。
「あります。印の場所から、もう少し奥に。音がしてました」
「なら本隊はそっちだ」
ルウが図の一点を指した。印より奥、沢の側。
「鳥が消えた場所は見張り台。寝るのは水の近くだ」
誰も喋らなかった。
帳面に書き込んだ。森の文法は、森の人間にしか読めない。
フィンが動いた。
図に指を置いた。
橋の観測点から森へ、一本、線を引いた。
何も言わなかった。
ルウが線を見た。
「……ここから先は、見るな」
フィンが頷いた。
「見れば、見返される」
もう一度、頷いた。
「了解」
それだけだった。
プロ同士の話は、早かった。
◇
二人を送り出す前に、包みを渡した。
「アンばあさんからです」
ポウが包みを開けた。
蜜の雫が入っていた。
「やったー!」
「声」
ルウが言った。
ポウが両手で口を押さえた。
「……やったー」
小さい声で言った。アハハ、と小さく笑った。
「夕方には戻る」
ルウが言った。
「お願いします」
二人が東の門へ歩いていった。
南には行かなかった。
東から回り込むのだろう。教えていないのに、そうした。
◇
朝の森に、霧が出ていた。
ルウは止まった。
風が変わる場所だった。谷の冷えた空気が、ここで尾根の風とぶつかる。匂いが流れてくる側に、立ってはいけない。
回り込んだ。
ポウが後ろにいた。
足音はなかった。霧の中で、気配だけが付いてくる。家の森と同じだった。
知らない森だ、と来る前にルウは思っていた。
歩いてみれば、同じだった。
木の癖が少し違う。土が少し軽い。それだけだった。風の読み方も、水の在り処も、獣の道も、森の文法は変わらなかった。
沢の音がした。
ルウは止まって、屈んだ。
ポウが隣に屈んだ。
匂いがした。
煙の、消し方を知っている煙の匂いだった。
ポウがルウを見た。
にこにこは、していなかった。
森の顔だった。
ルウは指を二本立てて、沢の方を指した。
ポウが頷いた。
二人の影が、霧に溶けた。
◇
沢に近づくほど、森が静かになった。
静かすぎた。
鳥がいない。獣の道に、新しい足跡がない。森の住人は、もう全員知っているのだ。ここに何かがいることを。
知らないのは、街の人間だけだった。
ルウは木の上に登った。
音はなかった。
ポウが別の木に登った。
音はなかった。
枝の間から、見えた。
天幕が三つ。低く張ってある。木の色に近い布だった。火の跡が一つ。煙は出ていない。昼は火を使わない連中だった。
人を数えた。
見えるだけで、八。
天幕の大きさから、寝ている数を足した。
十五前後。
——にんずう。
ポウが指を動かした。一、五。ルウと同じ数字だった。
頷き合った。
◇
装備は軽かった。
剣と弓。鎧は革だけ。荷が少ない。
ただ、奥の天幕の横に、木箱が積んであった。
四つ。
雨避けの布までかけてある。武器や食料の扱いではなかった。一番大事にされている荷物だった。
ルウは木箱を見続けた。
兵の一人が箱を開けた。
紙だった。
紙の束と、何かを書く台。男が台に紙を広げて、橋の方を見ながら、書いた。
——にもつ。
食料は少ない。紙は多い。
戦いに来た連中ではなかった。
書きに来た連中だった。
◇
昼を過ぎた。
見張りが交代した。
二人が森の縁へ歩いていく。鳥の消えた場所だ。入れ替わりに二人が戻ってくる。
戻った男が、書く台の男に何かを話した。
台の男が、書いた。
橋を見て、書く。街道を見て、書く。戻った見張りの話を聞いて、書く。
——かお。
橋だ。
連中はずっと、橋を見ていた。
ポウが枝の上で、指で字を書く真似をした。それから橋の方を指した。
ルウは頷いた。
妹も、同じものを見ていた。
◇
日が傾き始めた頃、動きが変わった。
書く台の男が、紙をまとめた。
折って、革の筒に入れた。蝋で封をした。
若い兵が一人、呼ばれた。
筒を受け取って、腰に提げた。荷を持たない。水と剣だけ。
走るための身軽さだった。
——でんれい。
若い兵が、川の方へ走り出した。
ルウは見送った。
追えば速さがわかる。どこで川を渡るかもわかる。
でも、追わなかった。
近づきすぎないでください。確かめて、帰ってくる。それだけです。
ケンジの声が、頭の中にあった。
代わりに、日の位置を覚えた。
伝令が出た時刻。これも「でんれい」のうちだ。頻度は、次に来る者がいつ出るかでわかる。今日はここまでだった。
ポウを見た。
ポウが頷いた。
二つの影が、来た時と同じように、霧のない夕方の森から消えた。
連中は最後まで、気づかなかった。
◇
夕方のギルドに、二人が戻ってきた。
執務室に五人が集まった。ガド、フィン、ケンジ。それとルウとポウ。
「報告する」
ルウが立ったまま言った。
「人数、十五前後。見えたのは八。天幕三つ」
帳面に書いた。
「装備、軽い。剣と弓、革鎧。食料は少ない」
書いた。
「荷物。木箱が四つ。中身は紙だ」
ペンが止まった。
「……紙、ですか」
「書く台もあった。橋を見て書く。街道を見て書く。見張りの話を聞いて書く。一日中だ」
部屋が静かになった。
ガドが口を開いた。
「兵じゃないな」
「目だ」
ルウが言った。
「あれは軍の目だ。森の獣と同じだ。狩る前に、見る」
ポウが手を挙げた。
「でんれいもいたよ! ゆうがたにはしってった! かわのほうに! つつをもってた!」
「封蝋の筒です……か」
「ろうのにおいがした!」
風下からの匂いまで覚えていた。
帳面に書いた。
伝令、夕刻発。革筒、封蝋。川方向。
書きながら、考えていた。
今日の紙が、本隊に届く。
橋は無事です。ベルタは橋を補修しています。守る気です——そう書いてあればいい。
でも、もし。
ゲオルクさんの細工に、気づいていたら。
「ルウさん。連中、橋の下を見ていましたか」
ルウが少し考えた。
「見張りは橋の上と、街道だ。下は」
止まった。
「……わからない。見える位置に、おれたちは行っていない」
正直だった。わからないことを、わからないと言う。
それが一番、助かる。
ガドが地図を見ていた。
「伝令が着くのに一日。本隊が読んで、決めて、動くのに一日」
顔を上げた。
「細工の残りは」
「二日です」
誰も喋らなかった。
計算は、全員ができた。
向こうの「動く」が今日の紙で決まったなら——
細工が終わる日と、本隊が来る日は、同じ日になる。
◇
二人を見送りに、門まで出た。
ポウが手を振った。
「またくるー! アハハ」
ルウが少し止まった。
「じいちゃんに、報告する」
「お願いします」
それだけだった。
二つの影が、夕暮れの街道に消えた。




