第四十話:橋を、落とすな
夜が深かった。
地図を広げたまま、動けなかった。
橋だ、とガドが言った。
レイモンドが落とします、と言った。
それだけだった。
ケンジにはわからなかった。
わからないまま、執務室を出た。わからないまま、食堂に戻った。わからないまま、地図を見ていた。
アンばあさんが隣に来た。
何も聞かなかった。
お茶を置いた。
「寝て、ケンジさん」
それだけ言って、去った。
地図から目が離せなかった。
◇
橋。
ベルタの南。ランバルトとの間にある橋。
なぜ今回、使わなかったのか。
ラルタ側の浅瀬から渡った。百人以上が、冬の川を渡った。橋を使えば楽だったはずだ。
なぜ。
帳面を開いた。
書いた。
橋を使えばベルタ狙いがバレる。
止まった。
だから使わなかった。
もう一行書いた。
本攻めで使う気だ。
帳面を閉じた。
窓の外が、少し白んでいた。
寝ていなかった。
◇
朝、ガドの執務室に向かった。
ノックして入った。
ガドがすでに地図を見ていた。
「橋を落とさないでください」
ガドが顔を上げた。
目が細くなった。
「理由を言え」
「今回、橋を使わなかった理由を考えました」
「言え」
「橋を使えばベルタを狙っているとわかる。だから浅瀬から渡った。ベルタの戦力を測りながら、狙いを隠した」
ガドが黙っていた。
「本攻めなら、橋を使う可能性があります」
「それがわかっていて、なぜ落とさない」
少し間があった。
「罠にします」
部屋が静かになった。
ガドがしばらくケンジを見ていた。
「続けろ」
◇
帳面を開いた。
「橋を使わせます」
帳面に一本線を引いた。
「渡り切る前に切ります」
ガドが言った。
「橋の上と、川の中か」
ケンジが頷いた。
ガドが腕を組んだ。
「その先は」
「身動きが取れなくなったところを三方向から」
ガドが続けた。
「橋を切るタイミングを誰が決める」
少し止まった。
「ゴルドさんです」
ガドが少し目を細めた。
「魔石通信で合図を送ってもらいます。川の両岸に人を置いて、渡り切った瞬間に落とす」
「橋を落とせるか」
「ゲオルクさんに聞きます」
ガドが地図を見た。
しばらく黙っていた。
「レイモンドを呼べ」
◇
三人が集まった。
レイモンドが地図を見た。
ケンジが説明した。
レイモンドがしばらく黙っていた。
「……橋を落とすのは同じですが」
少し間があった。
「渡らせてから落とす、ということですね」
「そうです」
レイモンドが地図の橋の印を指でなぞった。
「渡り切った兵が川に落ちる」
「はい」
「戻れない」
「戻れません」
レイモンドがしばらく天井を見ていた。
「……冬の川ですねえ」
静かな声だった。
ガドが「やれるか」と言った。
レイモンドが地図を見た。
「やりますよ」
◇
ゲオルクの鍛冶場に向かった。
扉を開けると、金属を叩く音がした。
「ゲオルクさん、少しいいですか」
「なんだ」
「橋を落としたいんですが」
少し考えた。
「落とせなくても、使えなくできれば十分です」
ゲオルクが手を止めた。
振り返った。
「橋を」
「渡り切ったところで、一瞬で」
ゲオルクがしばらくケンジを見ていた。
腕を組んだ。
「……面白いな」
少し間があった。
「見に行く」
◇
橋を見に行った。
ゲオルクが橋の下を確認した。柱を叩いた。石組みを見た。
しばらく黙っていた。
「できる」
「どれくらいかかりますか」
「三日あればいい」
「急いでもらえますか」
ゲオルクが「まあ、うまくやれ」と言った。
いつもの言葉だった。
でも今日は少し違って聞こえた。
◇
ギルドに戻る道で、カーラが来た。
「川向こう、また動いています」
止まった。
「増援ですか」
「まだわかりません。ただ」
カーラが少し間を置いた。
「人が増えています」
帳面を開いた。
三日。
ゲオルクに三日もらった。
「カーラさん、監視を続けてください」
「わかりました」
カーラが踵を返した。
レイクロークの黒が、朝の光の中に消えた。
◇
ギルドに戻った。
カウンターにジンがいた。
魔石を並べていた。
「増やしています」
「ペアは何組になりましたか」
「四組です。ゲオルクさんが割り方を教えてくれました」
「橋にも置きます。ゴルドさんに頼めますか」
ジンが少し止まった。
「……橋に」
少し考えた。
「帰ってくる合図ですよね」
ケンジを見る。
「そうです」
ジンが頷いた。
「わかった」
帳面に書き込んだ。
魔石四組。橋の細工三日。川向こうの動き、増援の可能性。
時間が足りないかもしれない。
でも、動ける。
◇
夜、アンばあさんの食堂だった。
全員が揃っていた。
誰も多くを語らなかった。
マレクが串を焼いていた。
炭火が静かに燃えていた。
トールが「ケンジさん、昨日寝ましたか」と聞いた。
「少し」
「少しってどれくらいですか」
「少しです」
ゴルドが「余計なことを聞くな」と言った。
トールが「すみません」と言った。
アンばあさんが隣に来た。
お茶を置いた。
何も言わなかった。
炭火が揺れた。
三日後が来る。
間に合うかどうか、まだわからない。
でも今夜は、ここにいる。




