第二十八話:種が、動き始める
朝、ガドの執務室に向かった。
ノックして入ると、ガドが地図を広げていた。
「少しよろしいですか」
「話せ」
帳面を開いた。
「アンピークは順調です。炭の取引が動き始めると、運搬の仕事が増えます。配送の仕組みが必要になります」
ガドが地図から顔を上げた。
「ジンか」
「空間把握と道順の把握は誰より早いです。適任だと思います」
ガドが黙って聞いていた。
「視察の備えはベックが数字をまとめています。問題ないと思います」
「そうか」
「以上です」
ガドが地図に視線を戻した。
◇
夕方、アンばあさんの食堂に人が集まっていた。
バッハ、エルミ、マレク、ルード。それぞれが席についていた。
マレクが布に包んだ何かを机の上に置いた。
「蜜の雫だ。試作が仕上がった」
アンばあさんが「もう名前まで決めてるじゃないか」と言った。
「決まってた」
「いつ決めたんだい」
「最初から」
「その割には時間かかったじゃないか」
マレクが少し黙った。
「……うるさい」
マレクは咳払いをひとつして、妙に丁寧に包み布の結び目を解き始めた。
布を開けた。黒みがかった四角い塊が出てきた。
マレクが一口分に切り分けた。
「食ってみろ」
アンばあさんが一口食べた。しばらく黙っていた。
「……甘い」
「甘い。でも後を引く甘さだ」
「旅人の一口の夏版か」とバッハが言った。
「そのつもりだ。保存が効く、携帯できる、栄養になる。夏の遠征にも持っていける」
エルミが一口食べた。
「悪くないわね」
「悪くないじゃ困る」
「……いいわよ」
マレクが「それでいい」と言った。
ルードが無言で一口食べた。しばらく考えた顔をしていた。それから黙って頷いた。
◇
バッハが懐から紙を出した。
「焚き火台の設計だ」
広げた。鉄で作った台の図だった。足が四本あって、上に鉄格子が渡されている。
「ゲオルクと話した。一番の問題は重さだ」
「重いですか」
「鉄だからな。ただ野営地の固定設置なら問題ない」
「それでいいです」
「携帯型は別の話だ。ゲオルクが面白そうな顔をしていた」
「ゲオルクさんが」
「あいつ、鉄板の図を見た時から何か考えてるらしい。俺には教えてくれなかったが」
バッハが少し口元を緩めた。
「職人ってそういうもんだ」
ルードが「それはそうだ」と言った。
エルミが「焚き火台の下に敷く布、素材を探しています」と言った。「耐熱性が必要で、今のところ心当たりがあるものを試しているところで」
「焦らなくていいです」
「わかってる。でも気になるから早くしたい」
アンばあさんが笑った。
マレクが「アンピーク屋台の食材の仕込み、来週から始める」と言った。「鉄板焼きの準備もしておく」
バッハが「屋台?」と言った。
エルミが「何の話ですか」と言った。
ルードが「聞いていない」と言った。
マレクが「屋台を出す話だ。知らなかったのか」と言った。
全員がこちらを見た。
「……すみません。うっかりしていました」
アンばあさんが「そんなこともあるんだねえ」とにこにこしながら言った。
「炭の使い道の一例です」
「真顔で言うな」とエルミが言った。
バッハが「で、何をやるんだ」と言った。
串焼きと鉄板焼きの説明をした。炭火で焼く仕組みも話した。
バッハが「……面白いな」と言った。ルードが「木の皿が必要だな、串もだ」と言った。エルミが「飾りも考えたい」と言った。
バッハが少し間を置いた。
「ゲオルクも入れた方がいいんじゃないか」
「組合にですか」
「鉄釜、焚き火台、鉄板。もうほとんど関わってるだろう」
全員が少し頷いた。
アンばあさんが「そうだねえ、声かけてみようか」と言った。
「お願いできますか」
「バッハさんから言った方が通りやすいんじゃないかい」
バッハが「まあ、そうだな」と言った。少し照れくさそうだった。
アンばあさんが「またみんなで動けるねえ」と言った。
マレクが蜜の雫をもう一口食べた。
「……うまいな、やっぱり」
「さっき悪くないって言ってましたよね」とエルミが言った。
「それとこれとは別だ」
全員が笑った。
◇
食堂を出た頃、夜が深くなっていた。
街が静かだった。
遠くに灯りが見えた。町長役場だった。
◇
役場の奥の部屋に、二人がいた。
ガドとレイモンドだった。
いつものペコペコはなかった。
レイモンドが椅子に深く座って、杯を傾けた。ガドが向かいで腕を組んでいた。
「視察、どう見る」
レイモンドが言った。
「レオンが来る分には問題ない。数字が出ている。書類も整っている」
「イレーナは」
ガドが少し黙った。
「あいつは別だ」
「そうだろうねえ」
レイモンドが杯を置いた。
「ケンジさん、イレーナが見たら放っておかないよ」
「わかっている」
「有能で、しかも——」
「わかっている」
ガドが短く言った。レイモンドは苦笑した。
「話せば話すほどにな」
ガドが窓の外を見た。
「あいつにそっくりだ」
レイモンドが黙った。
しばらく間があった。
「……声を聞いた時は驚いた」
レイモンドが小さく笑った。
「生きてたのかと思った」
静かに言った。
「はは。そんなわけないのにな」
笑い声は小さかった。でも少し滲んでいた。
ガドが何も言わなかった。
◇
しばらくして、レイモンドが机の引き出しを開けた。
書類を一枚取り出した。
「できてるよ」
ガドが受け取った。書類に目を落とした。
「……早かったな」
「視察が来る前に整えておきたかったから」
ガドが書類を返した。
「ケンジには言うか」
「言わなくていい」
ガドが即答した。
レイモンドが書類を引き出しに戻した。
ガドが少し間を置いた。
「レイ、ケンジのことこれからも頼む」
レイモンドが少し目を細めた。
「言われなくてもそのつもりだよ」
杯を持ち上げた。
「まあ、うまくいくよ」
ガドが少し間を置いた。
「……そうだな」
夜が深かった。




