第二話:ギルドの受付、始めました
スープを飲み終えた。
銅貨を二枚置いて立ち上がった。
さて。
問題を整理しよう。
今手元にあるのは銀貨九枚と銅貨九十六枚。
宿が必要だ。食事も必要だ。継続的な収入も必要だ。
テントはある。一晩くらいはどこかに張れるかもしれない。
でも魔獣がいる。
外は危険だと門番も言っていた。屋台の冒険者たちも同じことを言っていた。
野営で凌ぐのは得策じゃない。
となると今日中に、屋根のある場所を確保する必要がある。
そのためには収入が必要だ。
収入のためには仕事が必要だ。
仕事のためには情報が必要だ。
ギルド、というものが頭に浮かんだ。
依頼が積み上がっている。動いていない。
冒険者の仕事の受け口なら、人が集まる場所のはずだ。人が集まる場所には情報がある。求人があるかもしれない。この街の勢力図も見えてくる。
まず見に行こう。
決めるのはそれからだ。
ギルドはすぐに見つかった。
街で一番人の出入りが多い建物だった。
大きな看板が出ていた。
冒険者ギルド。
外から少し観察した。
出入りする人間のほとんどが革鎧か布鎧を着ている。腰に剣や斧をぶら下げている。荷物が多い者、少ない者、急いでいる者、だらだらしている者。
全員が冒険者というわけではないかもしれない。でも大半はそうだろう。
建物の造りは石造りで、見た目より広そうだ。扉が大きい。荷物を背負ったまま入れる設計だ。
合理的だ。中の様子は外からでは見えなかった。
扉を開けて中に入った。
……収拾がついていない。
積み上がった書類の山。
怒鳴り合う冒険者たち。
雑然とした掲示板。
誰も全体を把握していない。
同じ仕事が二重三重に走っている。
肝心なことが抜けている。
見ているだけで、直したくなる。
前の職場でもこういう状態の部署があった。誰に言われるでもなく手を出して、気づいたら全部やっていた。
職業病だな、と思った。
ただ——
ここで働けるかどうかは別の話だ。
冷静に考えよう。
言葉は通じる。
計算はできる。
書類の整理と管理なら問題なくできる。
問題は向こうが雇ってくれるかどうかだ。
この世界の常識がまだわからない。魔力とやらも持っていないはずだ。
でも——
書類の山は現実だ。機能していないのも現実だ。
改善できるのも、たぶん現実だ。
やってみる価値はある。
カウンターに近づいた。
受付には誰もいなかった。奥に声をかけた。
「すみません」
しばらくして、熊みたいな体格の男が出てきた。
面倒そうな顔をしていた。
「なんだ」
「仕事を探しています。ここで雇ってもらえますか」
男が私を上から下まで見た。
「冒険者登録か?」
「いいえ。受付の仕事です」
「受付?」
「この書類の山、放っておいたら来月には机が埋まります」
男の眉がわずかに動いた。
「先月まで計算担当がいたんだがな、急に辞めちまって」
ぼそっと言った。
独り言のようだった。
それから無言で一束の書類を取り出して、カウンターに置いた。
「これは今月の依頼記録だ。合計報酬を出してみろ」
試されている、とわかった。
書類を手に取った。数字を目で追う。暗算は得意だ。中小企業の総務をやっていると、電卓なしで計算するのが癖になる。
「銀貨四十二枚と銅貨十七枚です。ただ」
「ただ?」
「三件、重複しています」
該当の依頼書を三枚抜き出した。
「同じ区画で同じ魔獣の討伐が三回報告されています。しかも討伐証明の部位が右耳、左耳、角と分かれています」
男の目が少し変わった。
「……続けろ」
「一匹の魔獣から取れる部位を、三回に分けて別の依頼書で提出しています。提出者は全員同じ冒険者の名前です」
男が依頼書を受け取って、じっと見た。
長い間、見ていた。
「……名前は」
「申し上げてもいいですが、先に先月分も確認しますか」
「……見てみろ」
今度は別の束を渡された。
黙って数えた。
「銀貨三十八枚と銅貨十五枚。同じパターンが先月も四件ありました。全部同じ名前です。それと——」
別の一枚を抜き出した。
「これ、報酬の計算が間違っています。冒険者に銅貨三枚多く払っています」
沈黙が落ちた。
男はしばらく書類を見ていた。
「……わかった。後で調べる」
それから低い声で言った。
「給料は安いぞ」
「いくらですか」
男が少し止まった。
「……週に銀貨三枚だ」
週に銀貨三枚。
屋台のスープが銅貨二枚。部屋代の相場はまだわからないが、銀貨三枚あれば当面は持つはずだ。
「構いません」
「魔力は」
隣に立っていた中年男性が鑑定石を差し出した。
握ってみた。
何も起きなかった。
中年男性が困った顔をした。
「……これは」
「なんですか」
「魔力が、測定できないほど少ないです」
「魔力というのは」
男性が少し止まった。
「……知らないのですか」
「遠い故郷では、そういう概念がなかったので」
男性と熊みたいな男が顔を見合わせた。
熊みたいな男が短く言った。
「この世界の人間は誰でも持っている。体を強くしたり、回復を早めたりする力だ」
「なるほど」
つまり私にはそれがほぼない。
「……問題ありますか」
「受付の仕事には支障ない」
「では問題ないです」
男がしばらく私を見た。
何かを思い出すような目だった。
「……ガドだ。ここのギルド長をやっている」
「ケンジです。よろしくお願いします」
「明日から来い」
その瞬間、中年男性が前に出た。
「ちょっと待ってください」
早口だった。
「素性も確認していない人間をいきなり雇うんですか。出身地は、前職は、保証人は——」
「問題ないだろ」
「問題大ありです。ガドさん、いくら即戦力に見えても手順というものが——」
ガドが無言で中年男性を見た。
中年男性が少し止まった。
それでも引き下がらなかった。
「せめて身元の確認だけでも」
「見れば分かるだろ」
ガドが言った。
「そういう問題では——」
「書類の整理と計算なら今日すでに見せました。それ以上の保証が必要であれば、別の方法を考えます」
中年男性が口を開きかけた。
ガドが短く言った。
「ベック」
「……はい」
「いい」
ベックが渋い顔で一歩引いた。
それだけだった。
ガドがこちらに目を戻した。
一瞬、視線がザックに落ちた。
ほんの一瞬だった。
「テントはギルドの裏の空き地に張っていい。誰も使っていない」
「……ありがとうございます」
なぜわかったのか、とは聞かなかった。
聞かなくてもわかった。
この人はずっと見ていた。
書類を確認している間も、ベックがまくし立てている間も、ずっと。
「明日から来い」
それだけ言って、ガドは執務室に戻っていった。
採用されたのはそういう経緯だった。
ベックが隣に来た。
「……一応聞いておきますが、本当に身元を証明できるものは何もないんですか」
「何もないです」
「そうですか」
ベックがため息をついた。
「……まあ、ガドさんが言うなら」
渋い顔のままだった。
でもそれ以上は何も言わなかった。
この人は、納得はしていないが従う人間だ。
悪くない。
◇
その夜、ギルドの裏の空き地にワンポールテントを張った。
ランタンを点けた。
ローチェアを広げて座った。
いつものキャンプと変わらないな。
月が一つ、空に浮かんでいた。
星座は違った。
でも焚き火の匂いはいつもと同じだった。
問題はまだたくさんある。
魔力がない。この世界の常識を知らない。服も浮いている。お金も少ない。
でも今日一日で、言葉が通じることはわかった。お金の作り方もわかった。仕事も見つかった。寝る場所も確保できた。
なんとかなりそうだ。
寝袋に潜り込む。
この世界での初めての夜は、キャンプの夜に似ていた。




