第一話:異世界らしいが、なんとかなりそうだ
第一幕完結済みです。ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
音を聞いた。
鳥の声。風。
知っている音じゃない。
目を開けた。
見知らぬ森の中だった。
いつものキャンプ場と空気が違う。
湿度が違う。
土の匂いも違う。
枕元のスマホを確認する。
午前五時十二分。圏外。
昨日来た時も電波は入っていなかった。山ならそんなものだ。
ゆっくり起き上がって、周りを見る。
ソロキャンプ用具一式はある。ランタンは消えている。焚き火は完全に落ちていた。火消し壺に入れておいてよかった。
でも——
木が、おかしい。
幹の色が青みがかっている。葉の形が見たことがない。鳥の鳴き声はするが、知っている鳥じゃない。
昨夜と違う場所にいる。
テントごと移動した? いや、そんなことが起きるはずがない。
立ち上がる前に、耳を澄ます。
鳥の声。風の音。遠くに何かが動く気配はない。
嗅いだ。土の匂い、木の匂い。腐敗臭はない。獣の臭いもない。
今この瞬間は、とりあえず安全らしい。
立ち上がって、歩き始めた。
しばらく歩くと、森が開けた。
丘の上に出る。
そして——
遠くに街が見えた。
……塀だ。
石造りの高い塀に囲まれた街だった。日本にはない。ヨーロッパの古い城郭都市に似ているが、行ったことのある場所とも違う。
塀の上に旗が立っていた。見たことのない紋章だ。
その時、頭上で影が動く。
でかい鳥だ。
青黒い羽、ペリカンに似た嘴。翼を広げると五メートルはあるだろうか。
ゆっくりと旋回して、森の奥へ消えた。
ここがどこかわからない以上、この森に何がいるか予想もつかない。
だとすれば、森に留まるのは得策じゃない。人が暮らす場所へ移動した方がいい。まず近づいてみよう。
テントを畳んでザックに詰める。ソロキャンプ用具一式、全部ある。
歩き始めた。
◇
街に近づくにつれて、人が増えてきた。
畑を耕している老人がいる。
言葉が通じるかどうか、確かめておこう。
声をかけた。
「こんにちは」
老人が顔を上げた。
「……ああ、こんにちは」
通じた。
日本語じゃない。でも意味がわかる。自分の口から出た言葉も日本語じゃなかった。
不思議な感覚だ。でも深く考えても仕方ない。今は情報収集の方が先だ。
「少し聞いていいですか。あの街はなんという場所ですか」
老人が少し首を傾げた。
「ベルタだよ。旅人かい? 見慣れない格好をしてるねえ」
「はい、遠くから旅をして来ました。街は旅人でも入れますか」
「門番に話せば入れるよ。変なことさえしなければね」
「ありがとうございます」
「いいさ。気をつけてな」
老人が畑に戻りかけた。
「あと一つだけ。ニホンという場所をご存知ですか」
老人が振り返った。
「……なんだいそりゃ」
「いえ、いいです」
老人が畑に戻った。
言葉は通じる。しかしニホンという言葉は通じなかった。
つまり言語が違うのに意味がわかる、ということになる。
どちらにせよ、想像すら追いつかない何かが私に起きたことは、一旦受け入れなきゃならないようだ。
ベルタ。街の名前がわかった。
現実感がありすぎる。
夢だと思いたかった。
驚くほど冷静な自分に、少し笑えた。
とりあえず、今取るべき行動は森に帰ってキャンプの続きではない。どうにかしてこの街に入ることだ。
◇
石造りの門の前に、槍を持った男が二人立っている。
革鎧に鉄の胸当て。腰には短剣。
こちらを見る目が、明らかに警戒している。
そうだろう。
見慣れない服装に、大きなザック。どう見ても怪しい。
「止まれ」
門番の一人が手を上げた。
「どこから来た」
説明のしようがない。
「東の方からです」
嘘は言っていない。どこが東かは知らないが。
門番が眉をひそめた。
「東のどこだ」
当然だ、当然そう聞くだろう。
「かなり遠くでして。小さな集落だったので、名前を言っても伝わらないと思います」
門番がもう一人と顔を見合わせる。
「……訛りが変だな」
そういう風に聞こえるのか。助かる。
「旅の途中で荷を失いまして」
嘘ではない。元の世界を失っている。
門番の視線がザックに向いた。
「武器は」
「ナイフだけです。料理用の」
「見せろ」
少し迷ったが、素直に見せた。ここで拒否すると余計に怪しい。
門番がシースナイフを抜いて確認する。
「変わった形だな」
「故郷のものです」
ナイフが返ってきた。それでもまだ、踏み切れていない顔だ。
「所持金は」
「ありません。この街で何か持ち物を売って工面するつもりです」
門番が少し眉を上げた。
「……旅人か」
「はい」
もう一人と短く目が合う。それから、
「……最近、街道に魔獣が出てる。夜は外を歩くな」
魔獣。その言葉が頭の片隅に引っかかった。
「ありがとうございます」
門を通り過ぎようとした時、後ろから声が飛んだ。
「おい旅人」
振り返る。
「問題を起こすなよ」
「善処します」
門番が少しだけ笑った。
最悪の第一印象ではなかったらしい。
◇
重たい木門の横を通り抜ける。
その瞬間、空気が変わった。
人の声。
荷車の軋む音。
焼けた肉の匂い。
どこかで金属を叩く音。
思わず足を止める。
映画でもテーマパークでもない。
現実だ。
いい加減、私の頭にもその言葉が浮かぶ。
異世界、か。
街の中を歩いた。
石畳の道。石造りの建物。馬車。露店。
全部、初めて見る光景だ。
次の問題はお金だ。
財布を取り出した。日本円が少し入っている。
出さない方がいいな。見たことのない紙幣を出して偽造通貨と疑われても面倒だ。
売れそうで、かつ手放してもいいもの。
ザックの中身を見ながら、しばらく悩んだ。
この愛用の調味料だろうな。
お金がないのに何にこれをかけろというのだ。ギアは別だ。ギアは手放せない。
香辛料を扱っている店を探した。
すぐに見つかった。小さな店で、棚に瓶が並んでいる。岩塩、恐らくハーブ類。胡椒らしきものは見当たらない。
この調味料の価値は高そうだ。
店主の老人に声をかけた。
「これを買い取ってもらえますか」
瓶を出した。
老人が受け取って、蓋を開ける。
匂いを嗅いで、目が止まった。
「……なんだこれは」
「複数の香辛料を混ぜたものです」
「混ぜた?」
老人が少し指につけて舐めた。
長い沈黙が落ちた。
「どこで手に入れた」
「遠い故郷から持ってきました。一点ものです」
老人がこちらを見る。値踏みする目だ。
「買い取りたい。いくらで売る」
通貨の相場がわからない。
「いくらになりますか、と聞いてもいいですか。この街の相場を知らないので」
老人が少し驚いた顔をした。
「……正直な旅人だな」
「騙すより得だと思うので」
老人はしばらく考えた。
「銀貨十枚出そう。それでどうだ」
銀貨、という単位がわかった。手を出すと、丸くて薄い硬貨を十枚渡される。
多いのか少ないのか、まだわからない。
「ありがとうございます」
店を出た。
愛用の調味料の瓶がなくなったザックは、少し軽くなった気がした。
さよなら、愛用の調味料。キャンプ飯が旨かった。
心の中だけでそう思った。
◇
銀貨十枚を握りしめたまま、しばらくその場に立っていた。
……なんとかなりそうだ。
緊張が少し抜けた。
途端に、腹が鳴った。
そういえば今朝から何も食べていない。
いや、それよりもっと切実なことが先だった。
路地を一本入ったところに、木の小屋があった。においでわかった。
扉を開ける。
穴が開いた板があるだけだった。
拭くものは藁だった。
……そうか。
ここはそういう段階か。
ザックの中を確認する。
キャンプ用のペーパーがある。あとどのくらい持つか。
これが尽きたら困るな、と思った。
問題リストに一つ追加された。
用を済ませてから、屋台を探した。
すぐに見つかった。
鍋から湯気が上がっている。豆のスープらしい。
「これはいくらですか」
「銅貨二枚だよ」
銅貨。さっきもらったのは銀貨だ。
「銀貨しか持っていないのですが」
屋台のおじさんが少し眉をひそめた。
「銀貨一枚で銅貨九十八枚返すよ。それでいいかい」
銀貨一枚は銅貨百枚分、か。
「お願いします」
スープを受け取った。
近くの木のベンチに腰を下ろして、一口飲む。
温かかった。
塩が効いている。豆の甘みもある。
悪くない。
隣に革鎧を着た二人組が座っていた。
腰に剣を下げている。そういう類の人間だろうとは思った。
話し声が聞こえてくる。
「また東の区画か」
「ああ。今月だけで三件目だぞ」
「ギルドは動かないのか」
「動いてるとは言えないな。依頼が積み上がってるらしい」
ギルド、か。
あるんだな、この世界にも。
「魔獣が増えてる気がするんだよな。このままじゃ外も歩けない」
「先週、外で夜営したやつが一人やられたって話も聞いたぞ」
……なるほど。
外は危険か。
さっき門番も同じ言葉を使っていた。魔獣。
テントで凌ぐ選択肢が、静かに消えた。
それよりも——
ギルド、というものが気になった。
依頼が積み上がっている。
人が足りていないのかもしれない。
スープを飲みながら、考えた。
少し迷ってから、近くにいた男に声をかけた。
「あの、少し聞いてもいいですか」
「ん?」
「その、魔獣って……狼みたいなものなんですか?」
男が少し眉をひそめた。
「狼"みたい"っていうか、狼だな。ただ、魔力にあてられると荒れる。でかくなるやつもいるし、妙に頭が回るのもいる」
「最近は群れも増えてるしな」
別の冒険者が口を挟んだ。
「東の区画は今やべえぞ。灰牙狼が群れてる」
「この前、鉄級が片足やられてたな」
「ギルドも最近ずっと人足りてねえし」
慣れているだけで、危険じゃないわけではないらしい。
少し考えてから聞いた。
「ゴブリンとか、スライムみたいなのは?」
「……聞いたことねえな」
「スライムってなんだ?」
「いや、いないならいいです」
男が不思議そうな顔をした。
「変なこと聞くやつだな、お前」
そうか。
狼も猪も、この世界では最初から【危険なもの】なのだろう。
魔力で荒れた獣がいる。
それが当たり前に存在している。
そんな世界なのかもしれない。
そして、その世界では今、仕事が詰まっている。
依頼が積み上がっている。人が足りていない。
——書類の山なら、私の専門だ。




