第6話 神速の銀狼、幼馴染というポジションの脆弱性に気づく
夕暮れ時の訓練所。人影もまばらになった板張りの床に、レイは一人、木刀を抱えて座り込んでいた。
その蒼い瞳は虚空を見つめ、周囲には「近づくと呪われるぞ」と言わんばかりの、どす黒く重たいオーラが渦巻いている。
脳裏にこびりついて離れないのは、先ほどの光景だ。
楽しそうに、自分以外の男と笑い合っていたイリス。
この国では、十六歳になれば結婚が認められる。自分もイリスも、とっくにその年齢には達しているのだ。
もし、イリスに恋人ができたら?
もし彼女が、自分以外の誰かと結婚して、あの隣の部屋からいなくなってしまったら?
(……嫌だ。絶対に、嫌だ)
心臓を冷たい手で握りつぶされるような、激しい焦燥感と拒絶感がせり上がってくる。
レイはこれまで、『幼馴染』という特別で強固なポジションに完全に胡坐をかき、満足しきっていた。毎日一緒にご飯を食べ、隣にいるのが当たり前だと思っていた。しかし、幼馴染という枠組みは、法的な繋がりでもなんでもない。いつか別々の道を歩む日が来るかもしれないという当たり前の事実に、今更ながら直面して絶望していたのだ。
「おい、レイ。お前、さっきから顔が死んでるぞ。どうしたんだよ」
背後から呆れたような声をかけてきたのは、ヘイズだった。
「……ヘイズか」
「なんだよ、悩み事か? 『神速の銀狼』様がそんな湿っぽいオーラ出してたら、後輩たちが怯えるぜ」
レイは縋るような目で親友を見上げると、ぽつりと問いかけた。
「……なあ、ヘイズ。もしイリスが誰か別の奴と結婚して、俺のそばからいなくなっちゃったらどうしよう。俺、イリスが誰かのものになるなんて絶対に考えられない。ずっとイリスの匂い嗅ぎたい。美味しいご飯を作ってほしい。……どうすればいいんだろ」
真剣そのものの表情で、悲痛なほどの執着を口にするレイ。
ヘイズはしばし目を丸くしていたが、やがて心底アホを見るような目で後頭部を掻いた。
「お前なぁ……。そんなにずっとイリスちゃんにそばにいてほしいなら、お前がイリスちゃんと結婚すればいいじゃねえか」
「――――ッ!!」
ヘイズの何気ない一言が、レイの脳天に雷を落とした。
(……そ、その手があったか……!!)
幼馴染という絶対不可侵だと思い込んでいた脆い地位に代わる、最強のポジション。
『夫』。
そうか、夫婦になれば、法的に一生彼女を独占できる。誰にも文句は言われないし、毎日堂々と一緒にご飯を食べられるし、匂いも嗅ぎたい放題だ。
「……って言っても、お前どうせ『結婚』の意味なんかよく分かってないんだろ? ただの独占欲丸出しのガキっていうか……」
ヘイズは、レイが「結婚」という言葉の重みや、男女の恋愛感情すら理解せずに言っているのだろうと解釈し、適当に肩をすくめて話を流そうとした。
しかし。
「――よしっ!!」
ガタァッ!と勢いよく立ち上がったレイの背後には、千切れんばかりにブンブンと振られる巨大な銀色の尻尾(幻)が見えた。その蒼い瞳には、迷いを一切消し去った強烈な決意の光が宿っている。
「ありがとう、ヘイズ! 俺、全然気づかなかった! 決めた、俺……今日の晩ご飯の時に、イリスに『結婚しよう』って言ってくる!!」
「……は?」
「晩御飯のオムライス食べ終わったらすぐ言う! じゃあ俺、急いで帰るから!!」
木刀を放り出し、ウキウキと神速の脚力で走り出そうとする最強のバカ犬。
その背中を見て、ヘイズは自分の何気ない一言が『とんでもない暴走』の引き金を引いてしまったことに気づき、顔面を蒼白にさせた。
「待て待て待て待てぇぇッ!!」
ヘイズは全力でレイの首根っこに飛びつき、必死に引き留める。
「お前、バカか!? なんのムードもない食後に、いきなり幼馴染からプロポーズされて『はいそうですか』って頷く女がいるわけねえだろ! イリスちゃんがドン引きするわ!!」
「えっ!? ダメなの!? なんで!?」
「なんでって……順序ってもんがあるだろうが!!」
こうして、親友の適当なアドバイスによって『結婚』という最強の選択肢に気づいてしまった神速の銀狼は、ここからイリスの外堀をガチガチに埋めるための「暴走(猛アピール)への道」を爆走し始めることになるのだった。




