第5話 神速の銀狼、猛スピードで安堵する
イリスは小さく手を振って見知らぬ男と別れると、足早に広場を後にした。向かう先は、彼女の持ち場である騎士団舎の備品室だ。
それを見届けたレイは、群がるファンたちに「すみません、団長に呼ばれているので」と冷気を伴う営業スマイルで告げ、文字通り『神速』の身のこなしでその場を抜け出した。
そして数分後。
薄暗い備品室で、在庫の確認をしようとランプに火を灯したイリスの背後に、音もなく長身の影が忍び寄った。
「わっ……!? レ、レイ!?」
振り返ったイリスは目を丸くした。
「もう終わったの? っていうか、どうしてここにいるのよ。ファンのみんなに囲まれてたんじゃないの?」
「……そんなことより」
レイは足音を立てずにイリスとの距離を詰めると、彼女の肩口をガシッと掴み、逃げ場を塞ぐように少しだけ顔を近づけた。蒼い瞳が、獲物を問い詰めるように鋭く細められている。
「……あの男、誰?」
「え? あの男って……?」
「さっき、広場の隅で一緒にいた男。仕事で来られないって言ってたのに、あいつと会うために僕に嘘をついたの?」
焦りと苛立ちからか、一人称が『僕』に戻っている。
いつもならイリスの前で見せる甘えたワンコの顔ではなく、ひどく切羽詰まった、余裕のない声だった。
しかし、イリスはそんなレイの深刻な様子にも全く動じず、きょとんとした後、深くため息をついた。
「嘘じゃないわよ。急遽、消耗品の発注トラブルがあって、広場の近くで業者さんと待ち合わせしてたの。さっきの人は、うちの騎士団に備品を下ろしてくれてる商会の息子さん」
「……商会の、息子」
「そう。トラブルの対応が早く終わったから、仕事の合間を縫ってちょっとだけレイの試合も見られたってわけ。……改めて、優勝おめでとう」
淡々と説明するイリスの言葉に、レイの目が見開かれた。
「……仲、いいの?」
なおも食い下がるレイの声は、どこか不安げに揺れている。
「仲いいってほどじゃないわよ。納品に来た時に、仕事の確認がてら時々立ち話をする程度。気さくでいい人だけどね」
「立ち話をする、だけ……。本当に?」
「本当よ。もう、なんなのよさっきから」
イリスが呆れたように肩をすくめたその瞬間――レイの全身から発せられていたトゲトゲしい冷気が、嘘のようにふわりと霧散した。
強張っていたレイの表情が緩み、彼の背後に、ちぎれんばかりにパタパタと振られる見えない犬の尻尾が復活する。
「……そっか。仕事の相手なだけか……」
「そうだって言ってるでしょ。ほら、納得したならちょっとどいて。棚の整理が……きゃっ」
イリスの言葉を遮るように、レイは唐突にイリスを抱き寄せ、そのまま彼女の首筋にすっぽりと顔を埋めた。
「レ、レイ!?」
「……んんっ」
スウゥゥゥ、と。レイはイリスの髪と首筋から漂う日向のような香りを、肺の底まで深く吸い込んだ。
「あー……安心した。なんかさっきまですごくイライラして疲れてたけど、イリスの匂い嗅いだら全部治った……」
「ちょっと、またそれ!? 試合直後で汗かいてるんだからくっつかないでよ!」
「やだ。今日、応援席にイリスがいなくてすごく寂しかったんだから、充電させて……」
完全にいつもの「甘えん坊の大型犬」に戻ってしまったレイは、イリスがいくら背中を叩いても、抗議の声を上げても、絶対に離れようとはしなかった。
見知らぬ男への嫉妬など微塵も自覚していない無自覚な銀狼は、ただただ幼馴染の匂いと温もりに包まれて、至福の安堵感を噛み締めるのだった。




