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第47話 魔導士イリス、犬の皮を被った獣の恐ろしさをまだ知らない

「イリース! 役所に行って、届出もらってきたよ!」


その日のお昼休み。

レイは執務室のドアを元気よく開け放つと、一枚の真新しい用紙を片手に、弾むような足取りでイリスの元へと駆け寄ってきた。


「ちょっと! いくらなんでも早すぎない!?」

昨日プロポーズ(モフモフを条件とした詐欺)を承諾したばかりだというのに、もう婚姻届を持ってきたレイの行動力に、イリスは目を丸くして顔を真っ赤にした。


「えー? 早くないよ! さ、イリス、ここに名前書いて!」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、心の準備とか色々あるでしょ……っ」


「書いて? そしたら、今日から『イリス・アルジュ』だよ?」


レイはイリスの手にペンをグイグイと押し付け、下から覗き込むようにして極上の笑顔を向けた。

その蒼い瞳はキラキラと輝き、背後では見えない幻の尻尾が千切れんばかりに振られているのが幻視できる。王都中の女性が卒倒しそうなその完璧な『嬉しそうな顔』を至近距離で向けられ、イリスの決意はあっさりと揺らいだ。


(……はぁ。こんなに嬉しそうにされたら、ダメって言えないじゃない)


「……もう、しょうがないわね」


呆れたようにため息をつきながらも、イリスは赤くなった頬を隠すようにして用紙を受け取り、スラスラと自分の名前をサインした。


――実のところ、イリスもまた、レイと同レベルの『ポンコツ』であった。


彼女の頭の中では、「結婚」というものは、今まで延々と焼いてきたレイのお世話係を『一生続けるだけの話』に変換されている。

住む部屋が一緒になり、食事を共にし、そこに少々恥ずかしい『男女のあれやこれや』が追加されるだけの話なのだ。


普通の年頃の少女であれば、段階を踏んでデートを重ね、胸の高鳴りやロマンチックなトキメキを求めるものだろう。しかし、恋愛偏差値が底辺で止まっているイリスにとって、そんな未知のドキドキよりも『気心が完全に知れていること』、そして何より『極上のモフモフを一生独占できること』の方が、遥かに重要だったのだ。


「書けたよ。これでいいんでしょ」

「うん! ありがとう、イリス! これで俺たち、正式に夫婦だね!!」


満面の笑みで婚姻届を大事そうに胸に抱きしめ、「えへへ、イリス・アルジュだって! 可愛い!」とルンルンで喜ぶレイ。

その無邪気なワンコのような姿を見つめながら、イリスは「まあ、いっか。尻尾も触れるし」とのんきに微笑んでいた。


――しかし。イリスはあまりにも甘かった。


彼女はまだ気づいていない。

目の前で嬉しそうに尻尾を振っているこの男が、ただの『手のかかる幼馴染』などではなく、一度獲物をロックオンしたら絶対に逃がさない『肉食獣オス』であることを。


結婚という名の絶対的な「所有権」を得た今、彼がもう一切の遠慮をする必要がないという事実を。


『犬の皮を被った神速の銀狼』の本当の執着心と恐ろしさを、新妻となったイリス・アルジュは、この日の夜から嫌というほどその身に刻み込まれることになるのである。


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