第35話 神速の銀狼、終焉を告げる冬の獣
視界に映るのは、雪のように白い地面に広がる、鮮烈な『赤』。
その瞬間、彼の魂の奥底、数千年の悠久の眠りについていた『何か』が、猛然と牙を剥いて覚醒した。
(――我が、番を)
それは前世、伝説の巨狼フェンリルとして生きた魂の咆哮。
神々にすら恐れられ、孤独の中に生きた獣が、輪廻を越えてようやく巡り会えた唯一無二の宝。
数千年の時を越えて渇望し、ようやく手に入れたはずの暖かな光が、今、目の前で無残に散らされようとしている。
許さない。
この世界ごと、すべてを凍てつかせ、噛み砕いてくれる。
「レイ! レイ、しっかりしろ!!」
すぐ側で、ヘイズの絶叫が響く。イリスが倒れ、棒立ちになった親友の姿を見て、ヘイズは瞬時に最悪の事態を察した。
「お前はイリスちゃんを連れて、今すぐここを離れろ! ここは俺たちが食い止める!!」
ヘイズは必死に剣を振り、二人を庇いながら風牙狼の波を押し返す。
「レイ、突っ立ってんな! 早くしろ!!」
周囲の騎士たちも加勢に入り、怒号が飛び交う。だが、レイの耳にはもう、人間の声など届いていなかった。
レイは、重力に逆らうような緩慢な動作で、フラリとイリスに近寄った。
そして、血に染まった彼女の体を、壊れ物を扱うような手つきで静かに抱きしめる。
「…………イリス」
その瞬間、戦場に異様な『圧』が吹き荒れた。
レイの体から、目も眩むような銀色の魔力が立ち上る。
それは炎のように揺らめきながら、レイの腕の中にいるイリスを包み込んだ。
溢れ出す銀の奔流は、瞬く間に彼女の裂けた肉を繋ぎ、失われた血を補い、深い傷を跡形もなく癒していく。
だが、異変はそれだけでは終わらなかった。
立ち上る銀色の魔力が、レイの背後で実体を持って具現化していく。
「な……なんだ、あれは……っ!?」
ヘイズと騎士たちは、戦う手さえ止めて絶句した。
レイの銀髪の間から、獣の耳が。そして腰のあたりからは、戦場の土を巻き上げるほどの巨大な銀の尾が顕現していた。
レイが顔を上げる。
その蒼い瞳は、もはや人間のそれではない。細く鋭く引き絞られた獣の瞳孔が、周囲を取り囲む魔獣たちを冷酷に射抜く。
凄まじいまでの魔力圧。
一瞬、本能的な恐怖に魔獣たちが怯んだ。しかし、スタンピードの狂気に当てられた彼らは、本能を塗りつぶして一斉にレイへと躍りかかった。
「レイ!!」
ヘイズが加勢に入ろうと一歩踏み出した、その時。
キィィィン……ッ!
空気が、鳴った。
レイの周囲の空気が一瞬にして絶対零度へと叩き落とされ、大気中の水分が凍りつく。
それは美しくも残酷な『ダイヤモンドダスト』となり、キラキラと幻想的に舞い踊った。
レイが静かに、魔獣たちに向けて手をかざす。
「……消えろ」
刹那、宙に舞っていた無数の氷の結晶が、意思を持っているかのように収束した。
それらは瞬時に短剣ほどの鋭利な刃へと姿を変え、全方位から迫る魔獣たちを正確に、そして無慈悲に貫き、撃ち落とした。
悲鳴を上げることすら許されず、氷の刃に貫かれた魔獣たちは、その場で凍りついたまま沈黙する。
銀色の魔力、顕現した獣の部位、そして周囲を凍てつかせる圧倒的な力。
そこにはもう、飯をねだり、匂いを嗅いで甘えていたワンコの姿はなかった。
かつて世界を終わらせると謳われた、伝説の冬の獣の化身が、静かにそこに君臨していた。




