第34話 神速の銀狼、スローモーションの絶望
「報告!! 前方よりオーガの群れ、及び多数の魔物の群れが接近中!! 規模は……大規模です!!」
血相を変えて駆け込んできた斥候の叫びに、戦場に一瞬、凍りつくような沈黙が落ちた。
「もしや……スタンピード(魔物の大暴走)か!」
ガイル団長の顔から、一気に血の気が引いた。通常ではあり得ない魔物たちの異常な動きと群れの規模。それが意味する絶望的な事態に、歴戦の騎士たちでさえも顔を青ざめさせる。
「近衛と他の騎士団に直ちに応援要請を出せ! 何があっても、防衛線を破らせるな! 王都へは一匹たりとも入れるな!!」
怒号が飛び交う中、イリスの心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。
(そんな……オーガの群れまで!?)
スタンピード。その言葉の重みに、イリスの視界がぐらりと揺れる。
遊撃として、敵陣の最も深くへ切り込んでいるのはレイだ。
ただでさえ風牙狼の処理で手一杯なはずの最前線に、さらに凶悪な魔物の大群が押し寄せている。
(あの子のことだから……きっと、王都を守るために、自分がボロボロになっても一人で全部の敵と戦おうとするに決まってる……!)
かつて膝を擦りむいて泣いていた少年はもういない。今の彼は、誰かを守るためなら自分の命すら平気で投げ出してしまう、不器用で真っ直ぐな『緋翼のエース』なのだ。
「……っ」
イリスは、自分がレイにかけた補助魔法の効果時間がそろそろ切れることを悟った。
居ても立っても居られず、イリスは後衛の安全な場所から飛び出した。
「おい、イリス! 前線に出るな、危険だぞ!」
同僚の制止を振り切り、イリスは血と土煙の舞う戦場を走る。
(せめて……せめて、補助魔法だけでもかけ直さなきゃ!)
飛び交う怒号と魔物の咆哮を掻き分け、イリスは必死に銀色の髪を探した。
そして――巨木の陰で、数頭の風牙狼と対峙するレイの姿を見つけた。
「レイ……!」
イリスは木陰に身を隠しながら、急いで杖を構える。
遠目から見る限り、レイの体には傷一つない。その圧倒的な剣技にホッと胸を撫で下ろしながら、イリスは早口で詠唱を紡いだ。
「『身体強化』『風の加護』……っ!」
淡い緑色の光が戦場を駆け抜け、レイの体を包み込む。
その瞬間、自分の体に馴染み深い魔法がかけられたことを認識したレイが、ハッと後ろを振り返った。
乱戦の中、レイの蒼い瞳が、少し離れた場所に立つイリスを正確に捉える。
『イリス!? なんでこんな前に……危ないから下がって!』
声には出さずとも、レイの口の動きと焦った表情がそう語っていた。
彼がイリスを安全な場所へ押し戻そうと、こちらへ向かって一歩、足を踏み出そうとした。
――まさに、その刹那だった。
レイの背後に倒れていたはずの、死に損ないの風牙狼が、最後の力を振り絞って咆哮を上げた。
放たれたのは、見えない『風の刃』。
しかしそれは、レイを狙ったものではなかった。風刃は無情にも軌道を変え、レイに魔法をかけた『術者』であるイリスへと向かって一直線に飛来した。
「え……」
気づいた時には、遅かった。
ザシュッ!!!
「きゃあああっ……!!」
鋭利な風の刃が、イリスの右肩から胸元にかけてのローブを深々と切り裂いた。
鮮血が、赤い花びらのように戦場の空中に舞い散る。
強烈な衝撃と激痛に、イリスの体は紙切れのように吹き飛び、そのまま冷たい土の上へと崩れ落ちた。
「――――」
レイの視界の中で、全てがスローモーションになっていた。
いつも自分に温かいご飯を作ってくれた、小さな手。
照れたように笑いながら、いつも頭を撫でてくれた優しい温もり。
先ほどまで、あんなに真っ赤になって自分を意識してくれていた、誰よりも愛おしい、自分の『番』。
彼女の華奢な体が切り裂かれ、真っ赤な血飛沫が空を舞う光景。
倒れ伏し、動かなくなるイリスの姿。
現実味のないその光景を網膜に焼き付けた瞬間。
レイ・アルジュの頭の中で、何かが『ブツンッ』と、致命的な音を立てて千切れたのだった。




