第32話 魔導士イリス、無自覚なる陥落
「……っあぁぁ、私のバカバカバカ! なんであそこで絆されちゃうのよ!!」
午後の執務室。イリスは山積みの書類に目を通しながら、猛烈な自己嫌悪と共に己の甘さを呪っていた。
あんな悲しそうな顔(絶対にわざとだ)をされたくらいで、あっさりと防衛線を解除してしまうなんて。結局、自分はレイに対して底無しに甘いのだ。
「はぁ……」
深くため息をつき、ペンを置く。
ここ数日、レイの怒涛の『オス』アピールと想定外のスキンシップに押されまくり、パニックを起こしてばかりでまともに思考できていなかった。
だが、落ち着いて一度整理してみよう。
――そもそも、自分はレイのことをどう思っているのか。
幼い頃からずっと一緒にいて、彼の良いところも悪いところも、全部知っている。
泣き虫だった過去も、異常なまでの食い意地も、そして誰よりも真っ直ぐで優しいところも。隣にいるのが当たり前すぎて、その感覚はもはや『家族』と全く同じだと思っていた。
レイがそんな大人の感情を抱きながら傍にいたなんて想像もしていなかったが。
(もし、仮に。……もし私が、レイと結婚したとしたら)
ペン先で机をコツコツと叩きながら、イリスはポツリポツリと独り言をこぼし始めた。
「……別に、性格が悪いわけじゃないし。むしろ素直だし」
書類の束を揃えながら、無意識に声に出してレイを評価していく。
「騎士の仕事だって、サボらずにちゃんと頑張ってるし。私が作ったご飯は、いつも残さず美味しそうに食べてくれるし……。あの顔面はいくらなんでも卑怯だと思うけど、綺麗だとは、思うし……」
一つ一つ口に出すたびに、イリスの頬の熱がじんわりと上がっていく。
極めつけに、先ほどの備品室での出来事を思い出し、イリスはギュッと目を瞑った。
「そ、それに……匂いを嗅がれるのも……べ、別に嫌じゃない、し……」
自分で言っていて、顔から火が出そうだった。
なんだこれ。これではまるで、レイのことが大好きみたいではないか。
「でもさぁ……」
イリスは両手で熱くなった頬を包み込み、机の上にベターッと突っ伏した。
「今までずっとお世話係やってきたのに……今更そんな、男と女の『あれやこれや』なんて……っ。どんな顔してすればいいかわかんないじゃないのよ……!!」
悶絶しながら、ブツブツと文句を垂れるイリス。
しかし、恋愛偏差値が底辺でポンコツな彼女は、一つの重大な事実に全く気がついていなかった。
「性格良し」「仕事熱心」「顔良し」「スキンシップも嫌じゃない」と、夫としての条件を全クリア判定した上で、彼女が悩んでいるのは『どんな顔をして大人の関係になればいいか』という、もはや結婚のその先、ハウツー(方法)の段階なのだ。
つまりイリス・ベルは、頭でぐるぐると悩んでいるふりをして、すでに『レイ・アルジュを伴侶として受け入れること』を前提としてしまっているのである。
「あいつの顔見て、あんなことやこんなことなんて……むりむり、絶対照れて死んじゃう……っ」
己の無自覚な陥落に気づかぬまま、机に突っ伏して真っ赤になりながら『あれやこれや』のシチュエーションを妄想して自爆するイリス。
幼馴染という強固な要塞は、もはや内側からドロドロに溶け落ちていた。
神速の銀狼がその牙をイリスの急所に突き立て、完全に仕留めきるまで、あとほんの少しの秒読み段階に入っていた。




