第31話 神速の銀狼、本能を狂わせる甘い香りを嗅ぎつける
「……っ、ん……」
密室の備品室。レイの腕の中にすっぽりと収まったイリスは、全身を真っ赤に染め、プルプルと震えながら地獄の(あるいは天国の)三分間が過ぎるのを必死に耐えていた。
(早く……早く三分経って……っ。心臓の音、絶対にバレてる……!)
一方のレイは、愛しい幼馴染の首筋に顔を埋め、目を細めて深く深呼吸を繰り返していた。
スゥゥゥ……と息を吸い込んだ時、レイはふと、ある「変化」に気がついた。
(あれ……?)
いつものイリスは、お日様と薬草が混ざったような、ホッとする匂いがする。
しかし今は、そのいつもの匂いの奥底から、脳の芯を直接甘く痺れさせるような、酷く蠱惑的で、とろけるような『甘い匂い』が漂ってきているのだ。
「……なんか、すっごく甘い匂いがする」
「ひゃうっ!?」
レイがその甘い香りの発生源を探るように、さらに顔を首筋へ密着させると、イリスはビクッと肩を跳ねさせて完全に硬直した。
「この辺かなぁ……」
スンスン、と子犬のように鼻を鳴らしながら、レイの顔がイリスのうなじのあたりへと吸い寄せられていく。レイの肉食獣としての本能は、その甘い香りに抗いがたく惹きつけられていた。
「ん……っ、すっごくいい匂い……」
「あっ……ちょっ……!」
レイはたまらず、イリスのうなじに深く顔を埋め、その華奢な体を自身の広い胸の中にギュッと強く抱きしめた。
密着度が上がり、先ほどまでの「匂い補充」とは比べ物にならないほどの熱と重量感がイリスを襲う。
「ち、近いっ! ちょっと離れなさいよっ!」
限界を超えたイリスが、パニックになってレイの胸板を押し返そうとする。
しかし、その瞬間だった。
「……僕が近づくの、嫌……?」
上目遣い。
少し潤んだ蒼い瞳。
そして、普段の「俺」ではなく、あえて幼い頃のように「僕」という一人称を使った、ひどく弱々しく悲しそうな声。
極めつけに、頭の上の幻の犬耳が、この世の不幸をすべて背負ったかのように力なくペタンと垂れ下がる。
(こっ、こいつ……っ! 絶対わざとやってる!! 確信犯だわ!!)
イリスの頭の中の警鐘が、けたたましく鳴り響いた。
今のレイのあざとすぎる態度は、明らかに計算し尽くされたものだ。ここで突き放さなければ、完全に相手のペースに飲み込まれてしまう。頭ではっきりとわかっているのに。
「……っ」
物心ついた時から、この美しい顔が悲しそうに歪むのを見るのだけは、どうしても耐えられなかった。長年培われてしまった「保護者の甘やかし」という呪いは、恋愛偏差値底辺の少女の理性をいとも容易く粉砕する。
「……き、嫌ってわけじゃないけどっ!!」
目をギュッと瞑り、自暴自棄気味に叫んでしまったイリス。
その言葉を聞いた瞬間、レイの顔から「悲しそうな子犬」の仮面がツルリと剥がれ落ちた。
見えない耳がピン!と立ち、尻尾がバタバタと猛回転を始める。
「ほんと!? じゃあ、いいんだね!」
「あ、ちょっと――」
「えへへ、イリス甘い匂い。大好き」
言うが早いか、レイは「許可は得た」とばかりに、イリスの首筋からうなじにかけて、グリグリと自分の銀色の頭を嬉しそうに擦り付け始めた。
「ひゃあっ!? く、くすぐったいからっ! グリグリしないでっ!」
「やだー。イリスが嫌じゃないって言ったもん。あー、すっごく落ち着く……」
密室の備品室で、完全に捕食者の腕の中に閉じ込められ、甘い匂いを嗅がれながら頭を擦り付けられるという、逃げ場のない甘やかな地獄。
「嫌だ」とハッキリ言えない己の甘さを呪いながらも、その抗いがたい体温と心地よさに、イリスの胸はドクドクと高鳴り続けるのだった。




