第30話 神速の銀狼、ついに狩りの本能に目覚める
「ヘイズ、聞いてよ。昨日の夜のイリス、すっごく可愛かったんだ!」
翌日の緋翼騎士団・休憩室。
レイは向かいに座るヘイズに身を乗り出し、花が咲いたような笑顔で昨夜の『ドア越しの攻防』について報告していた。
「ドアの隙間から顔だけ出してさ、顔を真っ赤にして震えてるの。俺がもっと追いかけたら、もっと俺のこと男として意識してくれるかなぁ?」
「…………」
無邪気に笑う親友の言葉に、ヘイズは手にしたコーヒーカップを置き、深い、あまりにも深い絶望のため息をついた。
(……ああ。こいつ、完全に『味』を占めやがった)
自分が男として迫ることで、あの鉄壁の幼馴染が照れ、動揺し、怯えるように逃げ惑う。その反応のすべてが、レイの中の『何か』を刺激しているのだ。
今まで「かまってかまって!」と尻尾を振るだけの愛玩犬だったはずの彼が、今や明確に「逃げる獲物を追い詰める」ことに喜びを見出している。
(そういや、忘れてたな。……犬って元々、『肉食獣』だったわ)
楽しそうに「今日はどうやって追い詰めようかな」と呟く顔面国宝の親友を見つめながら。
ヘイズはただひたすらに、完全に獲物に成り下がった哀れな幼馴染の無事を、天に祈ることしかできなかった。
――そして、お昼休み。
イリスは備品室にこもり、昨日のように逃走できるよう、いつでも自分にバフ魔法をかけられる準備を整えながら在庫整理をしていた。
しかし、神速の銀狼は昨日と同じ轍は踏まない。
ガチャリ、と音もなく備品室のドアが開いたかと思うと。
「えっ?」とイリスが振り返るより早く、レイは素早く部屋の中に滑り込み、バタンッと背手でドアを閉めた。そして、そのままドアの前に立ち塞がってしまったのだ。
「あ……っ、ちょっ、退きなさいよ!」
「ダメ。退いたらまたバフ魔法かけて逃げるでしょ」
レイはドアに背中を預けたまま、困ったように首を傾げた。
逃げ道を完全に塞がれ、狭い備品室の中でレイと二人きり。イリスの心臓が、警鐘のようにけたたましく鳴り始める。
「イリス、逃げないでよ。俺、イリスが嫌がることしないから」
「嘘よ! あんた、こないだは大人のあれやこれやがどうとか……っ」
「だって、それは本当の気持ちだもん。でも、イリスが嫌なら今は無理やりそういうことしない。俺、ただいつものお昼の匂い補充がしたいだけ」
レイは一歩、また一歩とイリスとの距離を詰めていく。
甘い、とろけるような低音。嘘をついているようには見えない、真っ直ぐな蒼い瞳。
ズザッ、とイリスは後ずさるが、すぐに背中が棚にぶつかってしまった。
「……本当、に? 変なこと、しない?」
「うん。約束する」
レイの真剣な表情に、イリスの決意がほんの少しだけ揺らいだ。
物心ついた時から、レイに泣きつかれると弱いのだ。それに、毎日欠かさず行っていた「匂い補充」のルーティンを拒絶し続けることに、イリス自身もどこか罪悪感を覚えていた。
「……わかったわよ。に、匂いは嗅がせてあげる。でも、それ以外は絶対に近寄らないで!」
「ほんと!? やったぁ!」
イリスが顔を真っ赤にして許可を出すと、レイは嬉しそうにパァッと顔を輝かせ、スッとイリスの首筋に顔を埋めた。
「すぅぅぅぅ……」
至近距離で響く、レイの深い深呼吸。首筋に触れる銀糸のような髪と、高い体温。
「ひゃうっ……」とイリスは肩を震わせ、目をギュッと瞑ってその時間が過ぎるのを耐えた。
――しかし。
恋愛偏差値が底辺のイリス・ベルは、ここで致命的な事実を見落としていた。
「嫌なことはしない」「それ以外は近寄らない」という約束を取り付けたとはいえ。
密室で、自分から肉食獣の腕の中に収まり、最も無防備な首筋を差し出すという行為が、どれほど危険で無謀なことか。
長年の「お世話係」としてのクセのせいで、レイに匂いを嗅がれることが当たり前になってしまっていたイリス。
彼女は、自分が自ら『捕食者の手の内』にすっぽりと収まりに行っているという異常事態を、頭の片隅でも理解していなかったのである。
「……イリス、いい匂い。ドキドキしてるね」
「う、うるさいっ。早く三分終わらせなさいよ……っ」
イリスの震える声を聞きながら、レイは首筋に顔を埋めたまま、誰にも見えないところで獲物を確実に手中に収めた肉食獣の、妖しくも美しい笑みを深く刻んでいたのだった。




