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第29話 神速の銀狼、ドアの隙間から「愛」を乞う

「……嘘だろ」


その日の夜。訓練を終えて自室に戻ったレイは、自分の部屋のドアの前に置かれた「トレイ」を見て、絶望のあまりその場に膝をついた。


トレイの上には、美味しそうな香りを立てる温かなスープとパン、そして一枚の手紙が添えられている。


『しばらく体調が悪いから、お互い自分の部屋で食べてね。おかわりが欲しい時は、ドアを二回ノックして。 イリス』


「体調が悪い……? そんな、昼間あんなに元気に走ってたのに……っ!」


レイにとって、これは単なる「部屋食の勧め」ではない。イリスによる「完全な拒絶」であり「ワンコ出入り禁止令」に他ならなかった。

昼間の超高速鬼ごっこでさえ追いつけなかった(バフ魔法のせいだが)ショックに追い打ちをかけるようなこの仕打ち。


「イリス! イリス、開けてよ!」


レイは隣のイリスの部屋のドアを、壊さない程度に、しかし必死に叩いた。


「当分……当分は調子が悪いから! あっち行って、自分の部屋で食べて!」


中から聞こえるイリスの声は、どこか上ずっていて、明らかに「調子が悪い」人のそれではない。

イリスはイリスで、ドア一枚隔てた向こう側に、あの「大人のあれやこれや」を熟知した美貌の幼馴染がいると思うだけで、心臓が爆発しそうだったのだ。まともに顔を見れば、また昨夜のように「オス」の部分を見せつけられるのではないかという恐怖(と、抗えないドキドキ)が彼女を支配していた。


「嫌だ! イリスの顔見ないとご飯の味もしないよ! 具合悪いなら俺が看病するし、魔法もかけるから!」

「魔法使いに魔法かけようとしないでよ! いいから、今日はもう寝なさい!」

「やだ……やだよぉ……っ」


レイの声が、次第に情けない泣き出しそうなトーンに変わっていく。

かつて、膝を擦り剥いただけで「イリスぅぅぅ」と泣きついてきたあの頃の、弱々しい少年の声。


「……っ」

部屋の中で、イリスは胸をギュッと締め付けられるような感覚に襲われた。

(ずるいわよ、その声……。あんなにカッコよくなったくせに、そんな声出されたら……っ)


母親のような、飼い主のような、複雑な母性本能が、イリスの理性をガリガリと削っていく。


「……ねえ、イリス。今日の……今日の匂い、まだ嗅いでないんだよ……。三分……いや、一分でいいから。嗅がせてくれないと、俺、明日から剣も振れないよぉ……っ」


ドア越しに伝わってくる、切実すぎる「匂い補充」の嘆願。

イリスは真っ赤な顔で悶絶しながらも、ついにその弱々しい訴えに負け、震える手でドアの鍵を開けた。


ガチャリ、と小さな音が響く。

イリスはドアをほんの数センチ、自分の顔が半分隠れるくらいの隙間だけ開けた。


「……一分だけよ。本当に一分だけなんだからね!」


隙間から覗くイリスの瞳は、潤んでいて、照れと警戒が入り混じっている。

そこへ、待ち構えていたレイが、吸い寄せられるようにその隙間に顔を寄せた。


「イリス……っ」


至近距離。

ドアの隙間から、レイの透き通るような蒼い瞳がじっと自分を見つめている。

銀色の髪が隙間からふわりと零れ、狭い空間にレイの熱っぽい吐息が入り込む。


「……っ、近い……っ!」

「……いい匂い。やっぱり、これがないとダメだ……」


レイは隙間に鼻先を押し付けるようにして、イリスの香りを深く、深く吸い込んだ。

ドアを全開にして抱きしめることさえ許されないもどかしさが、逆にレイの執着を煽る。


「……ねえ、イリス。ドア、もう少しだけ開けて? ……ちゃんと、顔が見たい」


甘く、とろけるような低音。

昼間の鬼ごっこで見せた執念深さと、昨夜見せた「オス」の熱が、再びその声に混じり始める。


「……だ、ダメっ! 一分経ったわよ!」


パタンッ!!


限界を迎えたイリスが、勢いよくドアを閉めた。

再び静まり返る廊下。


「……あ」

取り残されたレイは、閉まったドアを見つめながら、自分の心臓がうるさいほど跳ねているのに気づいた。

三分どころか、数秒の「匂い補充」。

だが、隙間越しに見たイリスの真っ赤な顔と、自分を意識して震える瞳は、どんな魔法よりもレイを強く、そして深く酔わせるには十分すぎた。


(……かわいい。やっぱり、絶対に誰にも渡したくない)


ドアの向こう側で、膝を抱えて「あいつ、絶対わざとあんな声出した……確信犯だわ……っ!」と悶絶するイリス。

そして廊下で、「明日は二分……いや、もっとだ」と不敵な笑みを浮かべてシチューを部屋に運ぶ銀狼。


二人の部屋を隔てるドアは、もはや物理的な壁として機能しなくなるほど、熱く、甘い熱気に包まれていた。

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