第28話 魔導士イリス、バフ魔法の無駄遣いで逃亡する
棚を背にしてこれ以上下がれなくなったイリスの前に、レイがスッと歩み寄る。
そして、逃げ道を塞ぐように、イリスの顔の横の棚にトンッと手を突いた。
(……あっ)
図らずも、先日先輩騎士を気絶させた「壁ドン」と全く同じ体勢が完成してしまった。
だが、今のレイに狙ってやっている意図はない。ただ純粋に、「なぜ逃げられるのかわからない」という捨てられた子犬のような、悲しげな瞳でイリスを見つめ下ろしている。
「ねえ、なんで逃げるの……? 俺のこと、嫌いになっちゃった?」
シュン、と。レイの頭の上にある幻の犬耳が、可哀想なくらいペタンと垂れ下がるのが見えた。
「ち、ちがっ、嫌いになったわけじゃないわよ!」
イリスは慌てて否定した。顔を真っ赤にして、視線を泳がせる。
「嫌いじゃないけど……っ、その……」
「その?」
「……昨日、あんなこと言われたらっ、まともに顔見られないでしょバカ!!」
限界を迎えたイリスが、ヤケクソ気味に叫んだ。
その瞬間。
「――っ!」
レイの蒼い瞳がパチリと見開かれ、次の瞬間、まるでパッと花が咲いたように輝き始めた。垂れ下がっていた幻の耳がピンと立ち、尻尾が再びブンブンと猛回転を始める。
「そっか! イリス、俺のことちゃんと男として意識して、照れてるんだね!」
勘違いでもなんでもない、大正解である。
レイは嬉しさのあまり、さらに顔を近づけてきた。整いすぎた美貌が、イリスの視界を完全に埋め尽くす。
「えへへ、嬉しい! ねえ、イリス。男として意識したまま、いつもの匂い補充させて? 三分だけでいいから。ね?」
「なっ……!?」
『大人の意味で好きだと言ってきたオス』として意識した状態で、首筋の匂いを嗅がせる。
恋愛偏差値底辺の純情な少女にとって、それはもはや拷問に近いハードルの高さだった。想像しただけで、心臓が口から飛び出そうになる。
(む、むりむりむり! 今のあいつに至近距離でくっつかれたら、私絶対に死ぬ!!)
防衛本能が、理性を完全に凌駕した。
イリスは咄嗟に、ローブのポケットに忍ばせていた短い杖を抜き放つと、自分自身に向けて魔法を展開した。
「『身体強化』『風の加護』!!」
淡い緑色の光がイリスの体を包み込む。
普段はレイの神速をサポートするために使う、騎士団随一の高位バフ魔法。それを、あろうことか『自分自身の逃走』のために全力で注ぎ込んだのだ。
「えっ?」
レイが目を丸くした隙を突き、バフ盛り盛りのイリスは、レイの腕の下を弾丸のようなスピードですり抜けた。
「ごめん! 私やっぱり忙しいの!!」
ビュンッ!!という風切り音を残し、イリスは目にも留まらぬ速さで執務室を飛び出していった。
「…………あ」
空っぽになった腕を取り残され、レイはポカンと廊下の先を見つめた。
「イリス、すっごい速い……」
感心している場合ではない。
しかし、そこは生粋の大型犬気質。逃げるものを前にして、狩猟本能と甘えたい欲求が刺激されないはずがなかった。
「あ! 待ってよイリス! 俺も一緒に走る!!」
レイは満面の笑みを浮かべると、バフ魔法のかかったイリスに追いつくべく、持ち前の『神速』の脚力を全力で発動して後を追いかけ始めた。
――一方、騎士団の廊下。
「あー、今日の昼飯は食堂のハンバーグか……って、うおっ!?」
歩いていたヘイズの横を、突風と共に淡い緑色の光が駆け抜けていった。
「は!? 今のはイリスちゃんか!? なんで廊下で全力のバフ魔法かけて走って……」
驚くヘイズの横を、今度は銀色の旋風が「イリス待ってー! 匂い嗅がせてー!!」と嬉しそうに叫びながら、凄まじいスピードで追いかけていった。
「…………」
吹き荒れた突風に乱れた髪を押さえながら、ヘイズは遠ざかっていく二人の背中(と、それを目撃してドン引きしている他の騎士たち)を見て、深く、深いため息をついた。
「あのバカップル……。騎士団の廊下で、最高峰の脚力と最高峰の補助魔法の無駄遣いをしてんじゃねえよ……」
恋愛を拗らせたポンコツ二人による、常人には決して追いつけない超高速の鬼ごっこが、緋翼騎士団の廊下で繰り広げられた。




