Ⅷ
「あ〜……そうかい」
だが、そんな拒絶の言葉にも彼は大して残念そうな表情を見せることはない
だというのに言葉だけは心の底から残念に思っているようにも聞こえてちぐはぐな印象を覚える
「まあ、しょうがねえわな」
そして、そんな言葉とともに彼は右手を軽く振る
何かが彼の腕とその袖口の間から光って見えたと思えば、次の瞬間シリアの左頬にわずかな熱が走った
「……っ!」
やがて少し遅れてからぴりりとそこが痛む
手で触れてみれば何か赤い液体が手に付いた
それがなにかをシリアが理解できるまでには数瞬の間を要した
ーー血だ
誰の?
ーーもちろん、私のだ
幸いその傷はごく小さなものであったのだろう、多少ヒリついて少量の血が流れている以上の支障はなさそうだった
惚けたようにぼんやりとそう考えていると目の前の軽薄そうな男は私の頬を指差しゆっくりと口を動かす
「……今のは、脅しな?」
その言葉にシリアはうるさく鳴り出す心臓の音とは裏腹に、急速に自分の頭が覚醒して行くのを感じた
目の前の男が行動を起こしてなお、衛兵や騎士たちが動く様子はない
そもそもシリアが護衛対象であろう王弟陛下に話しかけ、さらには不用意に近づいた時でさえなにもしなかったのだ
おそらくはもうこの場で何が起きてもすべてなかったことにされてしまうのだろうというのは明らかだった
領を出る時、護身用にと持たされた短剣は城内ということもあって部屋に置いてきている
とはいえ運動が得意なわけでもなく、身体も小さく、また剣を振ったことどころか包丁やナイフを含め、ろくに刃物を握ったこともないシリアがそれを持っていたのだとしてもおそらくは何の役にも立たないのだろうということが彼女にはよくわかった
結論から言えば逃げるしか無かった
しかしそれは恐怖から起きた行動なのではなく、状況を冷静に判断できたからこそ
そもそもシリアは彼に捕まりさえしなければ良いのだ
もちろん彼女が王弟の不興を買ってしまったのは良くない状況であり、ここで無事逃げ延びたとしてもそれはなくなるどころかむしろ増すばかりというのも予測できた
だが、そうすれば一先ず自分の身は脅かされることもなく、王弟の私室へと連れ込まれてしまうよりかはまだ取り返しの付くような展開に思える
あとは子細を陛下かあるいは叔父に伝えることができれば、おそらく自分の身は保証されるはずなのだ
懸念事項を上げるとすれば、果たして自分はこの男から無事に逃げ切れることができるのかというものではあったが、誰か助けが来ることに期待したり、目の前の男になんとか抵抗してみせようとするよりかはよっぽど分のいい賭けに思えた
シリアは相手を視界に収めその様子を窺いつつ、無言のままで来た道を駆け出す
すぐに何らかの対応をしてくるかと思った山猫であったが、その様子はない
飴色髪の男は走るシリアにあまり動じることもなく、ただ気の抜けたような声で
「あ、顔やっちった。まあ、あれぐらいならいいっしょ?」
などと自らの主人へと問いかけていた
それは彼の余裕のあらわれに思えたのもあり、シリアは少し距離が取れたからだといって全く安心ができない
故に彼女はただ足を緩めることなく走り続けた




