3.お迎えのひとと、触れられない愛のお話・前編
ふと薔薇の香りがして、顔を上げた。
すると、
「こんにちは、マスター」
一人のひとがカウンターの前に立っている。
背が高く中性的なそのひとは、全体的に白く淡く輝いているように見えた。
深夜の店内に、明るく澄んだ空気が満ちる。朝だと錯覚するくらいの、清浄な気配。
「僕のことを憶えているかな?」
小首を傾げる彼……便宜上『彼』を使わせて頂く……に、私は首を縦に振る。
「もちろんです。あなたにまたお会いできるとは思いませんでした」
「ふふっ、僕はまたいずれ来ようと思っていたよ。お迎え以外でね」
「光栄です。……何をお飲みになりますか?」
「そうだなあ。赤ワインにしようかな。この姿だと、それが一番合いそうだから」
「かしこまりました」
赤なら、とっておきのボトルがあった。
それをお出ししよう。
「本日はどうされました?」
「この近くで、いいことがあったんだ」
椅子に腰かけた彼が、歌うように言った。
「あなたが起こしたことでは?」
「いいや」
彼が首を横へ振る。
「人の子の恋が起こした奇跡さ」
「恋が?」
グラスにワインを注ぐ。ライトの灯りを反射して、それはきらきらとルビーのように輝いた。
きっとワインも、このひとに飲まれたいのだろうと思った。
「そう」
グラスを差し出すと、彼はとても優しい手付きでそれを受け取る。
「……良ければ聞いてくれるかな?」
素敵なお話なんだ、と微笑む彼に、
「是非」
と私は頷いた。
※※※
「この花を、『彼女』に」
彼がそう言って、小さな花束を持って現れるようになり早一ヶ月。
私は、今日もその花をショーウィンドウに飾ってあげる。
白磁の小ぶりだけれど艷やかで美しい花器に活け、『彼女』が熱視線を送っているらしい、オルゴールの傍に置く。
古いアンティークのオルゴールは、少々値が張った。私のこのお店……祖母から受け継いだアンティーク店……の中では、そんなに高い方では無いものの。
新卒だという彼には、ちょっと高嶺の花ではある。
だから、彼はお金を貯めると言った。
「貯めるまでは、便箋とか紅茶とか、こういう小さなお菓子しか買えないけれど」
それでも必ず商品を買うから、その代わりに、オルゴールをお取り置きして欲しいと私に頼んだ。それから「もし許されるなら、持って来た花束を『彼女』に見えるよう飾って欲しい」とも。私は、その二つの頼みを引き受けた。
ちなみにどうして花なのかと聞けば、
「好きな女の子に、花を贈るのが夢で」
と彼は言った。頬を染め、照れくさそうに。
幽霊に一目惚れしているという事態にそぐわぬ、何というか、そう、ごくごく普通の反応だった。
だから私も、普通にお願いを承ったのだ。
あとは彼の瞳が、あまりにも生き生きと輝いていたので。とり殺されることは無さそうだと感じた。
「……」
私には、『彼女』は視えない。あのオルゴールを仕入れたときに、『曰く付き』と言われる所以を聞いただけ。
それでも。
彼の想いが『視えない彼女』に届くといい、と願った。
※※※
「やった、やっとお迎え出来た!」
私の美しい想い出のオルゴールが今、若い男の子の手に渡った。
……『彼』からの最後のプレゼント。
私を捨てる前にくれたお餞別。
縁起が悪いと、私の家族が売ってしまった宝物。
……仕方ない。私の選んだ最期が、家族をも不幸にしてしまったのだから。
それでも私にとっては、最後の恋の思い出、命を賭けた恋の証なのだった。
あのお店は『良いお店』で、この『曰く付きのオルゴール』をとても丁寧に扱ってくれた。嬉しかった。本当に『良いお店』。
だけど、だからこそ、私はお店の中には入れなかった。良き空気は、妄執の幽霊を弾いてしまうらしかった。
このオルゴールは私のものなのに、一番近くにすら居られない。なんてことだろう。
そんな私の悲しみを、この若い彼が聞いてくれた。たまたま通りすがっただけ、目が合っただけで。
珍しく、私の姿が視える上に声も聞ける人だった。
彼は私が話し終えるなり、
「俺がオルゴールを買って店から出せば、ずっとその傍に居られますよね。待ってて下さい!」
と言って励ましてくれたのだ。
そしてそれをただの励ましで終わらせず、本当に実現してしまった。
いま私は、私のオルゴールの傍に居る。
なんて、凄いことだろう。
こんなことって、本当にあるのかしら?
彼の方を見た。
彼もまた私を真っ直ぐに見つめている。
「好きなだけ、このオルゴールの傍に居て下さいね!」
そう言って、彼はにこにこと笑っていた。
甘く、優しい笑顔。彼がいつも贈ってくれていた……そしてお店の人がオルゴールの傍にいつも飾ってくれていた……あの花束たちみたいな笑顔。
何ていい子なのだろう。
『ありがとう』
呆れるくらい小さな声のお礼にも、
「どういたしまして!」
明るく軽やかに返してくれる。
彼を倖せにしたいと、私はそんなことを思った。
……こうなる直前も、こうなった後も、まったく思えなかったその気持ちは、想像以上に温かく、動かぬ心臓さえも動いてしまいそうだった。




