2.八百比丘尼、冥途の土産(ゆけるかわからぬ旅路の準備)
「ありがとうございましたー」
カランコロンカラン
最後の客を見送って、すぐ。
扉の向こうに、気配を感じた。
悪いものでは無い。
知っている気配。
だから、
「どうぞ」
と呼びかけた。
すると、ドアベルが控えめにカランコロンと鳴り、それから、
「マスター」
そのひとが静かに入って来た。
「お久しぶりです」
新たなお客は、女性だった。透き通るように真っ白な肌に、長い髪。一瞬、喪服か僧衣かと見紛う黒い着物を着ている。
「かれこれ……十年ぶりぐらいかしら」
「それくらいになりますか。どうぞ、おかけになって」
椅子に座ると、彼女は少し眉を下げた。
「バーなのに悪いんだけど、お茶を頂ける?」
「構いませんよ。緑茶に紅茶、ハーブティー、ほうじ茶もあります」
「ほうじ茶にしようかしら」
「かしこまりました」
薬缶に水を入れ、火にかける。そして、急須に茶葉を大さじ二杯。熱々のお湯とたっぷりの茶葉が、おいしさの秘訣だ。
「移転したのね」
「ええ」
彼女は、移転のことを知り合いに聞いたと言った。あちらのネットワークは人のそれよりも早いし正確だ。
「いいところだわぁ。海が見えて」
「今は、岐阜にお住まいでしたっけ?」
「ええ、そう。……いいところだけど、海が無いのが残念なの」
彼女が頬杖をついた。
「やっぱり、海がお好きですか」
「……どうかしら」
遠い目をして、彼女は口の端をほのかに上げる。
「呼ばれているような気がして憂鬱にもなるし。でもやっぱり懐かしくもあって。……だから、折衷案って言うのかしら。ここの、瀬戸内の海を定期的に見ようってなるのよ」
「折衷案?」
「もともと居た場所の海と逆だから」
そう言って、彼女は北を差し、それから南を指差した。
……なるほど、と私は頷く。
「瀬戸内海は波が穏やかでいいわよね」
「私は、日本海も好きですけどね。晴れた日の青さは本当に見事ですから」
「確かにね」
シュンシュンと湧いたお湯を、急須に入れた。急須と湯呑のセットをまず彼女の前へ置き、それからおかきを載せた豆皿も追加する。
「どうぞ。お茶菓子はサービスです」
「ありがと」
彼女は嬉しそうに微笑むと、早速お茶を湯呑に注いだ。
香ばしいお茶の薫りに、彼女の顔がさらに綻ぶ。
「頂きます」
彼女が「美味しい」と呟いた。染み入るような声音だった。
しばらくは、彼女のおかきを食べる音とお茶を啜る音だけが部屋に響いていた。
そういえば、音楽を止めたことを思い出す。
かけ直すか悩んだけれど、このまま静かな空間を楽しむことにした。
潮騒が聞こえてくるような、そんな気配に満ちていた。
「……確か、お友だちご一家の転勤に、付いて行かれたんでしたね」
私の問いに、彼女が微笑む。にっこりと、満開の花より華やかに。
「そうよ。付いて来て欲しいとお願いされたの。何より彼女の母親……私の親友にも、頼まれたし。しかもそのとき、ちょうど彼女たちが住む予定の土地の『お屋敷』に『空き』が出たの。知り合いから『そこに棲まない?』って言われたときは、天の采配だと思ったわ」
そのお屋敷はきっと、あちらか、境界線上かに建っているものなのだろうと思ったが、詳しくは聞かなかった。
「お友だちは、お元気ですか?」
「元気よ。今は、娘さんの方がよくうちに来るけれど」
その子とも、もちろん友だちよ、と彼女は嬉しそうに言った。
友だち、と口にするときの、宝物を明かすような口調が美しい。
「……ずっと見守っているんですね」
連綿と続く友人の連なりを。
「ええ、そう」
彼女が、誇らしげに頷いた。
「寿命だけは、たんまりとあるから」
ほうじ茶を啜り、ほう、と息を吐く。
それは、とても満足そうな吐息だった。
「ねえ、あの子たちにお土産を買って行きたいのだけれど、何かオススメはある? 懐かしいものもいいんだけど、出来れば目新しいものをあげたいの」
「最近出来たお店で、いくつか良いお店があります」
「教えて頂ける?」
「もちろん」
明日、たくさんのお土産を抱えて友のところへ帰る彼女を想像する。
それは何処か切なく、しかし温かでいい光景だと思った。
※※※
少女には、逃げ場があった。
辛いことがあったとき、彼女はいつもそこへ行く。
まちはずれの日本家屋。
そこには、歳の離れた『友だち』がいた。
その『友だち』……女は、いつだって少女の話を聞いてくれる。
女は、いつだって少女の来訪を待っていた。
「わああああっ、啓太のバカァァァァ! なんっで私の魅力に気が付かないんだよぉぉぉっ、ぽっと出の女にコロッと騙されやがってぇぇぇ。幼馴染なんて、全然得しねぇぇぇぇ!!」
「そうだねぇ、ひどいねぇ。はい、ごはん」
「ありがとぉぉぉ、詩乃さんのごはんおいしいぃぃぃ」
「ありがとう。あら、お味噌汁も空ね。こっちもおかわりする?」
「するぅぅぅぅ!」
「はーい、さつまいも、たくさん入れとくねぇ」
「おねがいしまっす」
ひっ ひぐっ、んぐっ、うま……おいし……もぎゅもぎゅ……ひっく
少女は、泣きながら栗ご飯をかきこんだ。
鼻水を啜り、煮物の汁を啜る。
「に、にくじゃが、うま……っ」
「肉じゃがは、やっぱりつゆだくに限るわね。はい、お味噌汁。そろそろ鼻かむ? はい、ティッシュ」
「ありがとうございますぅぅぅ」
ずびびびびっ、ちーん!
「……詩乃さんは」
「うん?」
「何でいっつも、私の愚痴を聞いてくれるの?」
お味噌汁のお代わりを啜り、少女が問うた。
「美味しいお料理と一緒にさ」
「友だちだからよ」
「お母さんと詩乃さんが?」
「いいえ。貴女とも」
女がそう言うと、少女は頬を朱く染め、それから「そっか!」と明るく笑った。
嬉しくてたまらない、とその笑顔は語っていた。
そしてその顔は、小箪笥の上に飾られた写真の少女と、とてもよく似ていた。
「さ、聡子ちゃん。たんと食べて。デザートもあるからね」
「! 食べる!」
またもりもりと食べ始めた少女を見つめながら。
『詩乃! 詩乃のお料理、美味しい!』
女は遠い面影を思い出す。
「……ホント、似てるわぁ」
『げっごんなんが、じだぐないよぉぉぉ、ずっど詩乃といるぅぅぅぅ』
そう言って大泣きしていた親友。
大好きで、大好きで、たまらなかった。
『ねえ詩乃! この子のことも、よろしくね。私の娘。美子って言うの』
久しぶりに彼女の心を動かした人。
『私の孫の聡子よ。私とも美子ともよく似てるでしょ?』
今はもう、
『美子と聡子のこと……おねがいね……』
逢えない人。
寂しいけれど、哀しくはない。
「? 詩乃さん?」
「いいえ、何でもないわ」
女は笑った。
「あ、詩乃さん、この巾着たまご美味しい!」
「ふふ、ありがと。いいおあげさんが手に入ったから、作ってみたの」
「おあげさん、好き! 私とお母さんの大好物。死んだおばあちゃんも、大好きだったんだよ」
「みんな、おそろいね」
連綿と続いていく愛しい血脈。それをただただ、眺め続けている。
いつの日か、ずっとずっと遠い先。その身に訪れるかわからない死出の旅。その最果てで。
愛しいあの人と再び逢えたとき、たくさんお土産話が出来るよう。
女はずっと、
「あ、それでね、詩乃さん」
「うん。聞いてるよ」
彼女たちの話を聞いている。




