1.蜃《しん》、海の飴、初恋の再演
私の店は、海の見える坂道の途中にある。
まちの喧騒から離れた静かな住宅街。その一角に、ひっそりと店を構えている。
こんなところでよく続けられるね、と揶揄われるが、まちに店を出していたときの常連さんがここまで通ってくれたり、近所のお客さんが晩御飯を食べに来てくれたりして、決して儲かりはしないが、店を続けられるくらいには稼げていた。
それに。
この店には、『変わったお客様』たちも訪れる。きっと、その恩恵もあるのだろう。
今宵もまた一人、そんなお客様が訪れた。
閉店間際。
呑んでいた常連さんも帰り、静かな時間。
少し早いがクローズドの看板をかけようか。
グラスを洗いながら、そう考えていたら。
鼻先に、磯の香りがした。
海からの風で、ここまで潮の香りが届くことはある。
でもそれは、ドアや窓を開けているときの話だ。
もしや、と思った瞬間。
カランコロン、とドアベルが鳴った。
そちらを見れば、不思議なことにドアはしっかりと閉まっている。
「マスター」
呼ばれて前方へ視線を戻すと、果たしてそこには一人の男性が立っていた。
ウエーブがかった長い髪は、夜の海と同じ色。
白地に茶褐色の横縞が入った、着物ともスーツともつかない服を身に纏っている。
服にはすべすべとした光沢があり、間接照明の下でも艶やかに見えた。
「これはこれは。お久しぶりですね」
私の言葉に、彼はにこりと微笑んだ。
「ちょっとお願いがあってね」
そう言う彼に椅子を勧め「何をお飲みになりますか」と尋ねる。
彼は座りながら、
「僕を酒蒸しにする気かい?」
と冗談めかして言った。
「あなたを酒蒸しに出来るほどの酒なんて、それこそ海を酒に変えるしかないでしょうね」
私が肩を竦めると「違いない」と彼も肩を竦める。
「でも近頃、夏の海はますます熱くなっていてね。そのうち茹でハマグリになってしまったらどうしようかと、そろそろ本気で心配になってるよ」
「あなたが言うと洒落にならなくて怖いですね……」
「どうにかして欲しいところさ。……それはさておき。お酒は、マスターのオススメでいいよ。呑みながら話そう」
「わかりました」
それならば、と私は一本の瓶へ手を伸ばした。
あのカクテルを作ろう。
「どう? 最近の調子は?」
「何とかやれていますよ」
カクテルを作っている間にも、会話は続く。
「それは良かった。……僕みたいなのは、しょっちゅう?」
「そうですね。ありがたいことに、ご贔屓頂いている方がちらほらと」
「そうだろうね。ここは居心地がいいもの」
「ありがとうございます」
「……良い曲だね。壮大だ」
「ワーグナーです。ニュルンベルクのマイスタージンガー」
「夜に聴く感じでもないけど」
「先ほどまでいらしていたお客さんが好きなので、かけていたんです。何でも昔、この曲を口笛で吹こうとなさっていたとか」
「これを? うーん、口笛向きではないね」
「好きな小説で、そういうシーンがよく出て来たそうです」
「いいねぇ」
彼が、屈託ない笑顔で言った。
「とてもいい。人の子のそういうところが、僕はとても好きだよ」
その面白がるような、それでいて慈しみのこもった口調に嘘は無い。
私は微笑み、それから出来上がったものを差し出した。
「どうぞ。マリブサーフです」
「綺麗な青だ。青空と海のいいとこ取りだ」
彼はそれを丁寧に持ち上げ、口へ運ぶ。
「……うん、美味しい」
細められた目が満足そうで、ほっとひと息吐いた。
「ありがとうございます」
「夏が楽しみになるような味。久しぶりに、そんな気分を思い出した」
彼はしばらくお酒を楽しむと、おもむろに懐から一つのキャンディ包みを取り出した。
「これを、とある人にあげて欲しいんだ」
「こちらは?」
藍色の包み紙がオレンジ色の灯りに照らされ、きらきらと反射する。さながら夕暮れ時の海のよう。
「『過去に戻れる飴』さ」
彼が片目を瞑って言った。
意外なものだ、と静かに驚いていると、
「正しくは『過去に戻る幻を見られる飴』だけどね」
彼が肩を竦め、そう付け加える。それなら、とてもこのひとらしいものだった。
「これを、『彼女』にあげてくれるかい?」
彼の手が、ツンとグラスをつつく。
すると、こちら側のグラスの表面が揺れ、ひとりの人物の顔がぼうっと浮かび上がった。
「彼女、この店の常連だろ?」
「ええ。最近、よくいらしてくれますね」
それは、ある一人の……所謂オネエさんと呼ばれるお客さんだった。
ジョセフィーヌさん、というのが、その人の名前だ。もちろん本名では無いだろうが。
「彼女と面識が……?」
「直接は無いんだけどね。少し前……と言っても、もしかしたら人の子の時間ではそこそこ経ってるのかな……、彼女が海辺で悲鳴をあげていたんだ。僕は通りすがりにたまさかそれを聞いた」
彼が、目を伏せ語る。
「実際に声に出すんじゃない、心での悲鳴さ。悲しい声で泣いているのにねぇ……その根底には、あまりに優しい気持ちが横たわっていたんだ。その心の層が、とてもとても……美しくてね。柄にもなく、『この心の持ち主が、どうぞこれからは倖せであるよう』と思わず祈ってしまった」
そう語る彼の口調にこそ、優しさが溢れていた。
「そんな風に祈った所為かな。つい最近、彼女の悲鳴をまた感じ取ったんだ。あの日と同じ響きの。おんなじだと思うと、たまらなくなってね。だから」
「なるほど」
間接照明の灯りが、柔らかく彼の優しい笑みを照らしている。
「その美しい心の層を持つ彼女に、少し手助けをしたくなったんですね」
「そういうことさ」
彼は小首を傾げ、眉を下げると言った。
「本当は、実際に『過去』に戻してあげられればいいんだろうけど。残念ながら僕は、『幻』を視せる存在だから」
口の端に笑みが浮かんでいるけれど、何処か寂しそうだ。
私は、敢えて明るい声で言った。
「いいんじゃないでしょうか」
今まで、店で見て来たものを思い出しながら。
「例え夢や幻でも、心残りを解消することは、やはり心を軽くするものですから」
バックで流れている壮大な曲が、そうだそうだと肯定してくれているみたいで心強い。
「君は、そういう事例を見て来ているわけだ」
「はい。……あなたのような方々がご来店下さるので、色々と」
「頼りになるね」
彼はそう言って笑みを深めると、残りのお酒をぐっと飲み干した。
「ということだから」
頼んだよ、という声がしたと思ったら、カランコロンとまたドアベルが鳴った。条件反射でそちらを見、視線を戻すと、彼はもう居なかった。
カウンターには、空になったグラスとキャンディ包みがあるばかり。
私は「ご来店ありがとうございました」と小さく呟くと、そっと大事にその藍色の包みを手に取った。
※※※
「過去に戻れる飴ぇ?」
アタシは、今しがたマスターから貰った飴玉を見て、眉をしかめた。
藍色の包み紙が、きらきらとオレンジの灯りに照らされ、夕暮れの海のようだ。
「ええ。常連さんに頂きまして。正しくは、『過去に戻る幻を見られる飴』ですけど」
店内にかかっているのは、静かなピアノ曲。エリック・サティ。
「怪しいおクスリの類じゃないでしょうねぇ?」
「いいえ? そんなちゃちものを扱う方ではないですよ」
「過去に戻るったって……結局、幻なんでしょ? 意味無くない?」
包みから飴玉を取り出した。
飴玉は無色透明で、しかし光に透かして見ると、プリズムのように多彩に煌めく。
「ところが、そうでもないのですよ」
マスターが静かに言った。
「皆さん、幻であったとしても、心残りを解消するとちょっとすっきりした顔をされます」
「ふぅん……そういうもの?」
「なので是非、ジョセフィーヌさんにも如何かと思って」
「……それ、アタシの愚痴を聞きたくないからとかじゃないでしょうね?」
「ふふ、どうでしょう」
「喰えない男ね~」
アタシは、もう一度まじまじと飴玉を見る。
何の変哲もない、ただの飴。
「……」
かつがれているかも、と思ったが。
「ま、いいわ」
アタシは、それをぽいっと口の中へと放り込んだ。
「久しぶりに初恋の男でも拝んで来るわ」
「甘酸っぱいですね」
口に含むと、爽やかな甘みが鼻に抜ける。
薄荷、だろうか?
「……いってらっしゃいませ」
味を追っている内に、マスターの顔がぼやけて来た。サティも、すぅっと遠のいていって。
ザザン……
「おい、合田?」
ハッと目の前に焦点が合ったと思ったら、『彼』がいた。
学生服を着た、初恋の彼。
本当に、戻っている。
「──あ」
「どした? ボーッとして」
目の前には、海。夕暮れ時の海だ。
「ここ……は……」
ふと手元を見た。そこには、修学旅行の栞。
思い出した。ここは、修学旅行で泊まった旅館の、プライベートビーチだ。
「聞いてる?」
「き、聞いてる聞いてる!」
口を開くと、自動でつるりと言葉が飛び出た。
「告白でしょ? すんの?」
ズキッ
自分の言葉に、胸が痛む。
そうだ。彼は、好きな子に告白しようか悩んでいて。
アタシは、その相談を受けていて。
「だからー、まだ悩んでるんだって」
彼が、うーんと伸びをした。
「そりゃさ。告白して、上手くいったら、柏木さんと観光出来るんだーってわくわくはする。けど、もし、上手くいかなかったらって思うとさー……」
ふう、とため息を零してから。
「それなら、お前らと一緒に楽しく観光する方がいいかもって思ったりもして」
彼はおどけて笑った。
そうだった、と思い出す。
本当は真剣なのに、怖くなるとすぐ冗談にしてしまうところ。
彼のそういうちょっとヘタレなところが、アタシはたまらなく好きだった。
守ってあげたいって、傲慢かもしれないけれど本気で思っていた。
「どーしよーかなー!」
海に向かって、彼が冗談めかして叫ぶ。
……これは、ただの幻。
ここで『告白なんてやめて、一緒に遊ぼうよ』と言ったって、現実が変わるわけじゃない。
結婚式の招待状が無くなるわけじゃない。
なら、いいじゃない。
「じゃあさ……」
夢の中くらい。
アタシが良い目を見たってさ。
「ん?」
彼が振り返る。
『あんがとな!』
あの日の、本当の彼の声が蘇って来て、アタシは。
「……告白、しな」
結局あの日と、同じことを言った。
「やってみないとわかんないよ。なら、当たって砕けろよ」
一語一句、違わない。
「もし砕けたら、慰めてやるからさ」
おんなじこと。
背中を押す言葉。
「……うん!」
彼が、うなずいた。力強く。
「そうする!」
そしてアタシを見て、ニカッと笑った。
「あんがとな! 勇気出た!」
太陽みたいに。ひまわりみたいに。とにかく明るく、キラキラと眩しく。私の好きな笑顔で、彼が笑った。
「やっぱりお前に相談して、本当に良かった」
彼が言う。心からそう思っていることが、わかる声で。
ああ好きだ。大好きだ。
胸が、苦しい。ずっと苦しい。心臓が悲鳴を上げるように早鐘を打つ。息が出来ない。
でも、そう。
苦しい中でも願ってしまう。
どうか、倖せでいて。ずっと笑っていて。
そんなことを。
磯の匂いが、いちだんと濃く鼻に付く。
波の音も、高く、大きく。
「……どういたしまして」
だって仕方ない。仕方ないの。アタシは、その笑顔と声が、結局いちばん──……
がりんっ
「……!!」
「おや、お早いお帰りで」
「……ただいま」
エリック・サティが耳に戻って来た。
淡い、オレンジ色の灯り。
海の気配は、もう何処にも無い。
「どうでした?」
「ああ、うん。そうね」
がり、がり、がりりん。
残った飴を噛み砕きながら、
「結局、アタシの発言が正しかったって再認識しただけだったわ」
アタシは言った。
「……そうですか」
マスターは、意外そうに片眉を上げてから、
「でも、それが一番いいことかも知れませんね」
しみじみと言った。
磯の香りは、何処にも無い。
けれど、噛み砕いた飴からは、微かにしょっぱいような、海みたいな味がした。




