第3章 魔王、家族会議にかけられる
夕飯の匂いが家の中に満ちていた。
玉ねぎを炒める音、鍋がぐつぐつと鳴る音、どこかで妹が歌っている声。どこにでもある農村の夕方だ。何も変わっていない。何一つ。
ただ、僕の頭の中に魔王がいる、という点を除けば。
『この匂いはなんだ。……また芋か?』
「シチューだと思う」
『昨日も芋ではなかったか』
「昨日も芋だよ」
『一昨日は』
「芋だよ」
『……この家、兵糧が一種類しかないのか』
「芋のフルコースだよ。豊作だったから」
僕は薪を抱えたまま、裏口から家に入った。台所ではミラが鍋をかき混ぜている。エプロンの裾で手を拭いながら、振り返った。
「ちょうどよかった。今夜、みんなに話しておこうと思って」
「……話って」
「魔王さんのことよ」
『我のことを話すのか!?』
魔王の声が、わずかに高くなった。僕には分かった。緊張しているのだ、たぶん。
「みんな、大丈夫かな」
「さあ」とミラは言った。
「でも、知らないままにしておく方が変でしょう。お父さんもおばあちゃんも、あなたのこと見てるんだから」
僕は薪を棚に積みながら、少し考えた。
昨日から、独り言が増えた。宙を見ながら話す癖もついた。父のガルドはそれをじっと見ていたし、祖母のノーラは「何かあったね」と一言だけ言った。
このままでは、頭の中の魔王より、僕の頭の方を心配される。
隠しておける雰囲気ではなかった。
「……分かった」
『待て』と魔王が言った。『我の紹介は、我がやる!』
「どうやって?」
『お前が代わりに言え!』
「それ、結局僕がやるじゃないか」
夕飯が並んだ頃、家族が食卓に集まった。
ミラが芋のシチューを並べ、父のガルドが無言で席に着き、祖母のノーラが縁側から戻ってきた。妹のリルが犬みたいな勢いで走り込んできて、僕の隣にちょこんと座った。
「いただきまーす!」
「待ちなさい」
ミラがリルの手を止めた。スプーンを持ったまま固まるリル。
「今日、話があるの」
「ごはんの後じゃダメ?」
そう言いながら、リルのスプーンはゆっくり口へ近づいていく。
「食べながらでいいわ」
ミラはそう言って、全員の顔を一度見た。それから、あっさりと切り出した。
「ユウの頭の中に、魔王さんという声がいるらしいの」
……沈黙。
リルのスプーンは口の直前で止まり、不思議そうに首を傾けた。
ガルドは無表情のまま、静かにシチューを口に運ぶ手を止めた。
ノーラは鋭い目で、湯のみを置いた。
「今のところ、食費は増えていない」
ミラは続けた。
なぜか、食費の話から始まった。
「危ないことはしないように言ってあるし、今のところ家計への被害はなし。ユウを困らせるようなら教えなさいって伝えてある。ひとまずはそういう感じで」
魔王が、家計被害として紹介されていた。
食卓の空気が、もう一度止まった。
僕は思わず言った。
「……え、紹介、それだけ?」
「他に何か必要?」
逆に、何が足りないのか分からない、という顔だった。
『言えることは山ほどある!』
頭の中で声が爆発した。
『我は世界を統べた魔王、ゼノンだ!! 太古の封印を解かれた、この世界最大の脅威であるぞ!! 食費を最初に言うな!! 家計への被害という言い方もやめろ!! 家計への影響など紹介の本筋ではない!! 我は被害ではない!!』
(分かった分かった)
僕は頭の中で返した。
(後で補足するから)
『補足では足りない!! 全部言い直せ!!』
僕が魔王と無音で話していると、最初に反応したのはリルだった。
リルは、じーっと僕の顔を見ている。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なに?」
「魔王さんって、今もいる?」
「いるよ」
リルはじっと僕の頭を見た。真剣な顔で。
「見えない」
「見えないよ。声だけの存在だから」
「声だけ?」
「今のところはそう」
リルは少し考えてから、僕の頭に向かって片手を差し出した。
「魔王さん! あたし、リル! よろしく!」
突然、頭に向かって握手を求められた。
僕はのどに芋を詰まらせた。
(リルが、よろしくって言ってるよ)
『な、なんだ急に!?』
「魔王さん、なんて言ったの?」
「急に何だ、って」
リルはこちらを指差し、けらけら笑った。
「魔王さん、びっくりしてるー!」
『びっくりなどしておらん! 少し意外だっただけだ!』
「少し意外だった、って」
「それ、びっくりって言うんだよ」
『してお――』
魔王が途中で黙った。
たぶん、七歳の正論に負けたのだ。
リルは首を傾けて、また聞いた。
「魔王さん、かくれんぼ強い?」
「……なんで?」
「魔王、強そうだから」
『我はかくれんぼなど、そんな幼稚なことをするわけ――』
「姿が見えないから、たぶん隠れるのは得意だと思う」
『ほう。小僧にしては分かっているではないか』
「でも、お兄ちゃんの頭の中にいるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、お兄ちゃんには、ずっと見つかってるね」
『……』
リルが笑った。
「魔王さん、かくれんぼ半分だけ強いんだね」
「半分だけ?」
「ほかの人には見つからないけど、お兄ちゃんにはずっと見つかってるから」
『なぜ我が遊戯の成績をつけられている!?』
「しかも半分だって」
『半分ではない! 戦略的に内部潜伏しているだけだ!』
「でも、お兄ちゃんには見つかってるよ」
『ぐ……』
リルは満足そうにシチューを口に運んだ。
魔王はしばらく黙っていた。
世界を震わせるはずの存在が、かくれんぼの成績で黙らされていた。
たぶん、半分だけ負けたことを認めたくなかったのだ。
次に動いたのはガルドだった。
スプーンを置いて、僕をまっすぐに見た。
それだけだ。
その目が、じっとこちらを見ている。
「……大丈夫だよ、父さん」
ガルドはしばらく黙っていた。
食卓の空気が、少しだけ静かになった。
「害はないのか?」
「今のところは」
「体は?」
「普通に動いてる」
ガルドは、すぐには答えなかった。
スプーンを持つ手も、こちらを見る目も、少しも動かない。
「……無理なら言うんだ」
「うん」
「黙って抱えるな」
「……うん」
それだけだった。
ガルドはまたシチューを口に運んだ。
終わりだった。
『……』
魔王が珍しく何も言わず、静かになった。
(どうした?)
『あの男』
(父さんがどうかした?)
『言葉が少ないのに、圧があるぞ。我はああいう目が……少し苦手だ』
僕は少し驚いた。
魔王が「苦手」と言葉にしたのは初めてだった。
(父さんはいつもこんな感じだよ)
『……ああいう目は、覚えがある。言葉は少ないくせに、決めたことは曲げぬ目だ』
(そうなの?)
『厄介だということだ』
(父さん、普通に心配してるだけだと思うけど)
『だから厄介なのだ』
ミラが「お父さんはそういう人だから」と言った。
ガルドは何も言わなかった。
ただ、僕の方をもう一度だけ見た。
魔王はそれきり、ガルドの話をしなかった。
魔王にも、苦手な無口があるらしい。
問題は、祖母のノーラだった。
ノーラは黙って話を聞いていた。
目を細め、じっと湯のみを見ながら、それを両手で包んでいる。
うっすら笑っているような、笑っていないような、そういう顔だった。
考えが読めないその顔が、僕は少し怖かった。
「おばあちゃん」
「ん」
「魔王がいるって話、どう思う」
ノーラはゆっくりと答えた。
「稼げるのかい」
『……』
沈黙が来た。
今度は魔王の沈黙だった。
(稼げるかって聞いてるよ)
『おい、この老婆は何を言っているのだ。いきなり我を値踏みしておるぞ!!』
(いいから答えてよ)
『我は魔王だ! 値踏みされる側ではない!!』
「稼げないって言ってる」
僕はノーラに伝えた。
「そうかい」
ノーラはあっさり言った。
そして、鋭い目で続けた。
「食費は増えるのかい」
「増えないって、昨日確認した」
「そうかい。声だけなら、寝る場所もいらないね」
『寝る場所!? 我を居候として数えておるのか!?』
「声だけだから、寝る場所はいらないみたい」
「なら悪くないね」
『何が悪くないだ! 我を損得で片づけるな!』
ノーラは湯のみをひとくちすすってから、続けた。
「畑はどうだい。使えるのかい」
僕は頭の中で聞いた。
(畑の収穫、増やしたりできる?)
『なんだと!? ……魔法の使い方次第では、不可能ではないが』
「できるかも、って」
ノーラの目の奥が、少し光った気がした。
「ほぉ。できるのに、やらないのかい」
「プライドが邪魔してるらしい」
「そりゃ、もったいないね」
『邪魔などしておらん!! 魔王は農作業などしない!!』
「おばあちゃんは、畑に使えるなら使った方がいいって思ってるみたい」
『おい! 一体この老婆はなんなのだ!!』
ノーラはもう一度、湯のみをすすった。
「金貨の一枚でも出せないのかい」
「今は声だけだから、物は出せないと思う」
「じゃあ今のところ、収入はなしだね」
『評価が厳しすぎるぞ!! 我は魔王だぞ!! 金庫ではない!!』
「魔王が、財布じゃないって怒ってる」
ノーラはふふっと笑った。
声には出さず、目だけ細めて笑った。
「怒るってことは、図星だってことさ」
『図星ではない!! 断じて!!』
僕は少し思った。
おばあちゃん、魔王より強いな。
声には出さなかったけど。
ノーラは湯のみを置いた。
「まあ、今は収入なし。けど、元手も食費もかからない。畑に使えるなら、伸びしろはあるね」
『我を商売の種みたいに言うな!!』
「伸びしろはあるって。よかったね」
『言い直しても不愉快だ!!』
食事が終わって、食後の時間になった。
リルはそわそわしながらこちらを見て、僕の隣に座り直した。
「魔王さん、甘いもの好き?」
「声だから食べられないよ」
「じゃあ味は分かるの?」
僕は少し考えた。
五感は共有しているらしいと、なんとなく感じていた。
「……たぶん、僕が食べたら少し分かるかも」
リルはぱっと立ち上がって、棚から干し果物の小さな袋を持ってきた。
普段は食べない、とっておきのおやつだ。
つまり、僕の貴重な楽しみでもある。
「じゃあ、お兄ちゃんが食べて、魔王さんにも分けてあげて」
「それ、僕のおやつなんだけど」
「いいじゃん。魔王さん、声だけでかわいそうだよ」
『かわいそうではない! 我は魔王だぞ!』
かわいそうな魔王が、頭の中で怒った。
リルは袋を押しつけてきた。
僕は干し果物をひとつ口に入れた。
甘さが広がった。
『……うむ』
魔王が言った。
さっきまでの怒鳴り声とは、全然違う声だった。
『……これは、悪くない』
「どうだって?」
リルが目を輝かせて聞いた。
「悪くないって」
「魔王さん、好きなんだ!」
『好きとは言っておらん! 悪くないと言っただけだ!』
「好きじゃないって」
「でも、悪くないんでしょ?」
「まあ……そうだね」
『小僧。もう一つ食べろ』
「え?」
『味覚情報が不足している。再確認が必要だ』
「それ、もう一個食べたいってこと?」
『違う! 魔王として必要な確認だ!』
「甘いものを?」
『そうだ!』
「それはもう好きなんじゃないかな」
『違う! 確認と言っておるだろう!』
僕の返事を聞いていたリルが、ぱあっと笑った。
「魔王さん、もう一個食べたいんだ!」
『言っておらん!』
「お兄ちゃん、食べてあげて!」
「僕のおやつが減るんだけど」
「魔王さんの分だよ」
「魔王の分が、僕のおやつから出てるんだけど」
『細かいことを言うな、小僧! 言うことを聞くのだ!』
「一番細かいところを突かれてるの、僕なんだけど」
仕方なく、僕はもう一つ干し果物を口に入れた。
『……うむ』
魔王の声が、少しだけ満足そうだった。
「おいしい?」
リルが聞く。
『……兵糧としては、悪くない』
「兵糧って言い出した」
「魔王さん、おやつ気に入ったんだね!」
『違う! これは兵糧の品質確認だ!』
「おやつだよ」
『兵糧だ!』
「ずいぶん甘い兵糧だね」
『うるさいぞ!!』
リルは満足そうに笑って、袋をしまった。
「魔王さん、また今度ね」
『……今度とはいつだ』
「聞いてる時点で、楽しみにしてるよね」
『違う! 予定を確認しただけだ!』
世界を恐怖で支配するはずの魔王が、次のおやつの予定を確認していた。
僕のおやつは二つ減った。
魔王の威厳も、たぶん少し減った。
夜が深まる頃、ミラが食卓を片付けながら言った。
「それじゃあ、魔王さんについて決めましょう」
「決めるの?」
「家にいるなら、決まりは必要でしょう」
『なぜ我の扱いが家庭内規則で決まるのだ!?』
僕が答える前に、ノーラが湯のみを置いた。
「食費は増えない」
「うん」
「場所代もなし」
「声だけだからね」
「今のところ収入もなし」
『また収支の話か!』
リルが手を上げた。
「魔王さんのおやつは? 時々?」
「そこも決めるの?」
『決めなくてよい!』
「品質確認なら、たまにでいいわね」
ミラが普通にうなずいた。
『違う、品質確認ではない! いや、品質確認だが、そういう話ではない!』
ガルドが短く言った。
「ユウ」
「うん」
「変なら、すぐ言え」
「うん」
それだけだった。
短いけれど、父さんらしかった。
ミラがまとめた。
「じゃあ、決まりね。危ないことはしない。ユウの体に変なことをしない。食費は増やさない。役に立てる時は手伝う。おやつは時々」
「……最後のいる?」
「リルが気にしてるから」
『我の処遇におやつが含まれているぞ!?』
次々に決まっていく会議に、僕は思わず言った。
「待って。今、僕の意見あった?」
「あなたが困ったら言いなさい、という話でしょう」
「確かにそうだけど……なんだろう、なんか違う……」
『小僧。安心しろ。我の意見もなかったぞ』
(たぶん、僕たち二人とも、聞かれただけだったね)
『扱いが軽すぎる!! 小僧!! もっと言い返せ!!』
こうして、魔王は家族会議によって、正式に我が家の居候になった。
本人は最後まで認めなかったけど。




