第2章 魔王、母に負ける
翌朝、目が覚めた瞬間に分かった。
まだいる。
天井の木目を見上げながら、ユウはゆっくりと息を吐いた。
夢だったらよかった、とは少し思う。
けれど、昨夜の芋の味をまだ覚えている。
夢なら、もう少し美味しい芋が出てくるはずなので、これは現実だ。
頭の中は静かだった。
でも、空っぽではない。
頭の隅に、妙な重みがあった。
石ころというには温かく、同居人というには偉そうな何かが、そこに居座っている。
(……ゼノン?)
『……うるさいぞ。まだ夜明けだ』
確かな返事があった。
(もう朝だよ)
『魔王に朝など関係なかろう』
(じゃあ起きなくていいよ)
『いや、起きる!』
すごく素直だと思ったが、言わなかった。
板張りの床に足をつけると、ひんやりとした。
窓の隙間から白い朝の光が差して、部屋の埃がゆっくり舞っていた。
『ふむ』
(何?)
『我が新たな居城の朝を検分しているのだ』
(ただの家の朝だよ)
『違うぞ。我がいる以上、ここは居城だ』
民家が、勝手に魔王の城になったらしい。
(昨日まで普通の家だったんだけど)
『今日から違う』
勝手に家の扱いを変えられてしまった。
台所の方から、鍋の音がした。
もう母さんが動いている。
毎朝のことだ。
『何の音だ?』
(母さんが朝ごはんを作ってる)
『あの女か!』
(母さんね)
『昨日、我が器に薪を運ばせた女だな』
(何? もしかして根に持ってる?)
『何を言っている!? 魔王が些細なことを根に持つはずがなかろう! ただ……記録しているだけだ』
(それ、根に持ってる人の言い方だよ)
『それより、今日も……芋なのか?』
(たぶんね)
『では十二日目だな』
(それも記録してたの?)
『我は貴様の五感を共有している。昨夜の芋も、我が記憶に刻まれている。十一日目。今朝も芋なら十二日目となる!』
(魔王が芋の記録なんて取らないでよ)
『兵糧の把握は支配者の基本だぞ!』
(うちの朝ごはんの芋、兵糧って呼ばないで)
台所の入り口で、ユウは立ち止まった。
ミラが、かまどに向かって立っていた。
栗色の髪を首の後ろで束ね、エプロンをして、木べらで鍋をゆっくりとかき混ぜている。
動作に無駄がない。
台所仕事に慣れた人間の動きだった。
「ユウ、起きてたの」
こちらを向かないまま、ミラが言った。
「うん、今起きた」
「顔洗っておいで。ご飯、もう少しかかるから」
いつも通りの朝だった。
ただ、頭の中の魔王だけが、少しだけ身構えていた。
顔を洗って戻ってくると、ミラが食卓の椅子を引きながらユウを見た。
「昨日から、誰かと話してるみたいね」
ユウの動きが一瞬止まった。
「……えっと」
「独り言にしては、返事をしているみたいだったから」
ミラは特に責める顔ではなかった。鍋から器に汁物をよそいながら、ごく普通の顔で言う。
『好機だ!』と魔王が頭の中で言った。『今だ! 我の存在を告げよ!』
(どうやって説明するの)
『そのまま言えばよかろう。「魔王がいる」と』
(えぇ……大丈夫かな。信じてくれるかなあ)
『信じぬなら、恐れさせればよい』
(母さんを?)
『そうだ。魔王の名を聞けば、人は震える』
(母さんは、たぶん熱を測ると思う)
『なぜそうなる!?』
ユウは少し考えてから、椅子に座った。
母さんはずっとこちらを見ていた。
「実はさ……頭の中に、声が住んでる。昨日から」
「声?」
「うん。それが、ゼノンって名前で……魔王だって言ってる」
ミラはすぐには答えず、ただじっとユウの目を見つめていた。
そして器を食卓に置き、ユウの前に座る。
それから、当たり前みたいに手を伸ばして、ユウの額に触れた。
「熱はなさそうね」
「……そこから!?」
「頭は痛い?」
「痛くはない」
「気分は?」
「悪くない」
「眠れた?」
「……たぶん」
『小僧、どうしてだ? なぜ我の説明より貴様の体調確認が優先されている?』
(母さんだからだよ)
ミラは手を戻し、少し考えるようにユウを見た。
「その声は、ユウを苦しめているの?」
「今のところは……うるさいくらい」
『うるさいとは何だ! 我は魔王だぞ! 無礼だぞ!』
「うるさいのね」
「うん。かなり」
「それは困るわね」
『おい、困るのはそこか!?』
ミラは少しだけ息を吐いた。
「本当かどうかは、今すぐ決めなくていいわ。でも、ユウが困っているなら、確認は必要ね」
「確認?」
魔王の話をしているはずなのに、母さんの顔は完全に、家に誰かを泊める時のそれだった。
「食べるの?」
「……たぶん食べない。声だけだから」
「寝る場所は?」
「いらないと思う」
「服は?」
「いらないと思う」
『魔王に衣など不要だ。威厳を纏っている』
(今、声だけだけどね。あと、服は着た方がいいと思う)
「危ないの?」
「たぶん……少し」
魔王を自称し、いろいろ悪だくみをしているので、危なくないとは言い切れない。
ミラは汁物を一口飲んだ。それから静かに言った。
「なら、今のところ家計には優しいわね」
『こら! 我を家計で評価するな!!』
頭の中で魔王が叫んだが、もちろんミラには届かない。
(落ち着いて)
『落ち着いておる! ただ、魔王を家計で測るとはどういうことだ。恐れよ、震えよ! 我は世界を恐怖で支配する者だぞ!!』
(母さんには聞こえないから)
『では伝えよ! 我の偉大さと恐怖を、今すぐだ!』
ユウは汁物に口をつけた。芋だった。十二日目だった。
「……えっと、母さん」
「何?」
「魔王が、ちゃんと怖がってほしいみたいで……」
「そうなの?」
ミラは汁物をもう一口飲んだ。
「ユウの体に悪いことはするの?」
『違う! そこではない!!』
「今はしないって」
「じゃあ、しばらく様子を見ましょう」
『様子を見るだと!? 我は様子を見られる存在ではない!!』
魔王の動揺が、頭の奥にじんわりと伝わってきた。
(落ち着いて。深呼吸、深呼吸)
『我に呼吸器官はない!』
(母さんはこういう人だから)
『こういう人、とはどういう人だ!』
(魔王より、今日の朝ごはんの方が大事な人)
『……それは、おかしいだろう!』
(おかしくないよ。普通だよ)
『普通ではないぞ!! 絶対に!!』
ミラはもう鍋のことを考えていた。
食後、ミラが食器を片付けながら言った。
「その魔王って、何ができるの?」
「古い魔法に詳しいって言ってた。畑のことも少し分かるみたい」
「便利ね」
『便利だと!?』
魔王の声が一段高くなった。
『我は世界を震わせる者だぞ。便利などという小さな言葉で片づけるな!』
(怒鳴っても母さんには届かないよ)
『では伝えろ! 今すぐ言え! 我は便利ではない!』
ユウは少し迷ってから、ミラに言った。
「えっと……魔王が、自分は便利じゃないって」
「そう」
ミラは食器を棚に戻しながら、少しだけ考えた。
「じゃあ、今年は畑の虫が多いから、減らせる?」
『なっ!? 我を害虫駆除に使う気か!』
(できるの?)
『我は魔王だぞ。できなくはない。……が、そういう問題ではない!』
(できるんだ)
『そこを拾うな!』
「できなくはないって」
ユウがそう言うと、ミラは少しだけうなずいた。
明らかに、使い道を考えている顔だった。
「洗濯物は? 早く乾かせたりする?」
『乾かせなくはないが——なぜ洗濯物なのだ!? 魔王の力を洗濯物に使うなど……!』
「乾かせなくはないって」
「薪割りは?」
『今は声だけだ! 体を持っておらん!』
「今は体がないから無理みたい」
「じゃあ、それはユウね」
「……僕なんだ」
『なぜ我ができない分の労働が小僧に行く!? そこはおかしいだろう!』
(でも、そうなるよ)
『おかしい! 断固おかしい!』
ミラは食器を全部片付けて、布巾を折り畳んだ。
その間ずっと、穏やかな顔だった。
「魔王さん」
「聞こえないけどね」
「聞こえなくてもいいの」
ミラはユウを見た。
「ユウを困らせないでね、と伝えて」
「……魔王、困らせないでって」
『——————』
珍しく、魔王がすぐに返事をしなかった。
「返事は?」
ミラが言った。
「魔王、母さんが返事を待ってる」
『聞こえている! ……なぜ、見えてもいない相手から返事を求められているのだ?』
長い沈黙があった。
『……わ、我は魔王だ。返事をするいわれなど——』
(返事した方がいいよ)
『……し、しないぞ』
(じゃあ、そう伝えるけど)
『——待て。今のはなしだ』
また沈黙があった。
『……困らせん』
ユウはミラを見た。
「困らせないって」
魔王が、母さんに返事をさせられていた。
世界征服は、たぶんまだ遠い。
ミラは少しだけ、口の端を上げた。
縁側で一息ついていると、魔王が言った。
『小僧』
(何?)
『あの母親を、我は恐れていないぞ』
(うん。分かってる)
『ただ、あの女は……ただ者ではない』
(普通のお母さんだよ)
『普通ではない! 我は世界征服を目指す魔王だぞ! その我を相手に、朝から食費と虫と洗濯物の話をする者が普通であるはずがなかろう!!』
(魔王から見たらそうかもしれないけど、母さんから見たら、家のことを考えてるだけだよ)
『それが恐ろしいのだ!!』
自称魔王が恐れているのは、母さんらしい。
ユウは少しだけ笑った。
そのとき、ミラが縁側から顔を出した。
「ユウ、聞いていいか聞いてみて」
「うん? 何を?」
「危ないことはできるのかって」
(……魔王、危ないことはできる?)
『できるぞ。得意分野だ!』
魔王は迷わず答えた。
少しだけ、威厳を取り戻したような声だった。
『大抵のことは余裕だ。我の力を甘く見るでないぞ』
「できるって。大抵のことは」
「そう」
ミラは少し間を置いた。
「じゃあ、危ないことはしないでね」
『命令された!? 魔王なのに!!』
「母さん、今たぶん、魔王に家の決まりを作ってる」
「家にいるなら、危ないことはしない。普通でしょう」
ミラはいつもと変わらない穏やかな顔で言った。
『普通の基準が強いぞ! あの女の普通はどこから来ているのだ!!』
ユウは答えなかった。
普通のお母さんから来てるんだよ、と思ったけれど、言っても伝わらない気がした。
「ユウの体を勝手に使ったりするの?」
ミラが続けた。
「今はできないって言ってる」
「今は、ね」
『そう、今は、だ!』
魔王が言った。
どことなく得意そうだった。
「今はって言ってる」
ミラは少し考えた。
「じゃあ、できるようになっても勝手に使わないでね」
ミラは、さっきと同じ穏やかな顔で言った。
『おい、なぜ未来の我にまで規則を作る!?』
「なんか魔王が怒ってる」
「普通のことよ」
ミラは穏やかに言った。
「家にいるなら、ユウの体を勝手に使わない。危ないことはしない。それだけ守ってくれれば、しばらく様子を見るわ」
『…………』
魔王が黙った。
今度の沈黙は、少し種類が違った。
(魔王?)
『……この女』
(何?)
『我を、封印するでも崇めるでもなく……この家の居候として扱ったぞ』
(まあ、頭の中に住んでるしね)
『住んでいるのではない! 宿っているのだ!』
(そこ、大事なんだ)
『大事だ! 居候と魔王では威厳が違う!』
ユウは何も言わなかった。
縁側から見える庭の冬野菜が、細い茎を風に揺らしていた。
魔王はしばらくしてから、照れ隠しするみたいに言った。
『我は同意などしておらんぞ』
(たぶん、母さんは同意を待ってないよ)
『家の決まりに従う魔王などおらん!』
(でもさっき、困らせないって言ったじゃないか)
『……あれは戦略的な一時後退だ』
(撤退、また?)
『学んだのだ、我は!』
ユウはこっそり笑った。
声には出さなかった。
昼前、ミラが台所から声をかけてきた。
「ユウ、薪一束お願いね」
「分かった」
「庭の端の小屋から」
「うん」
『——小僧』
魔王が、妙に重々しい声で言った。
(また薪?)
『薪ではない』
(薪だよ)
『居城の燃料備蓄だ』
(言い方を変えただけだよね)
『違う! 我はあの女に使われているのではない。居城の備えを確認しているのだ!』
(母さんに頼まれた薪運びだけどね)
『だから細かいことを言うな!』
薪小屋に向かいながら、ユウは聞いた。
(魔王、母さんのこと、どう思う?)
『どう、とは何がだ』
(怖かった?)
『何を言っている。怖くなどなかろう! 我は魔王だぞ!』
(じゃあ、負けたとは思う?)
かなり長い間があった。
『……負けておらん』
(本当に?)
『本当だ。これは戦略的な、あれだ! その……』
(後退?)
『……適応だ』
(適応)
『そうだ。魔王は環境に適応する』
それはだいぶ、母さんに負けているような気がした。
ユウは薪小屋の戸を開けた。
乾いた木の匂いがした。
薪を一束抱え上げながら、ぼんやりと思った。
この家では、魔王より母さんの方が強い。
たぶん、これからもずっとそうだ。
魔王はきっと敗北を認めない。
でも、分かってはいるのだと思う。
「ユウー」
台所からミラの声がした。
「もう一束追加でお願い」
「……え、二束?」
「今夜は少し寒くなりそうだから」
ユウは薪小屋の前で、少し止まった。
『……増えたな』
(うん)
『命令が、自然に増えたな』
(母さんだからね)
『その一言で済ませるな!』
ユウはもう一束を抱えた。
一束だった薪は、あっさり二束になった。
台所から、またミラの声がした。
「ユウ、薪ありがとう。お昼、もう少しかかるから」
「うん」
「今日は芋と、ちょっとだけ野菜があるから。少しだけ豪華よ」
十二日目にして、少しだけ豪華な昼ごはんになるらしかった。
『……野菜が加わるのか』
(うれしい?)
『うれしくなどなかろう。我は食べぬ。ただ、貴様の状態が安定するなら、居城の維持という観点から——』
(うれしいんだね)
『……ふんっ! そういうことにしておけ!』
頭の中の声は、最後まで認めなかった。
縁側に差しかかった時、ミラが布巾を手にしたまま、ちらりとユウを見た。
「その魔王、困ってる?」
「……どうかな。たぶん、色々と想像と違ったんだと思う」
「そう」
ミラは穏やかに言った。
「一人で抱えてもいいことないから、変だと思ったら言いなさい」
『…………』
(何か言う?)
『……あの女は、なぜ我まで心配するような言い方をする』
(母さんだからだよ)
『我は心配される存在ではない。恐れられる存在だ』
(でも、ちょっと心配されてたよ)
『されておらん。小僧を心配していただけだ』
(そこは分かってるんだ)
『……分かっておる』
ユウはこっそりと、一人で笑った。




